SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

雑記:岩盤浴に行ってきた

 岩盤浴に行ってきた。3日前のことである。

 家から自転車で20分くらいのところに岩盤浴場ができたのは、三年前の話だ。それから一年ほどは、私の家の近所で岩盤浴ブームが巻き起こっていたように思う。母からも「隣の家のおばさんは年間パスを購入したらしい。私も行ったが割とよかった。あんたも行ってみれば」というような勧めを二度ほど受けた。けれど当時の私は特に興味がなかったので、行ってみたりはしなかった。

 それから三年経過した、3日前、その前を偶然自転車で通り過ぎて、なんとなく入ってみたくなった。今行かなかったら、多分一生行かないだろうという気持ちが、なぜかでてきた。一年後の自分のありようさえ全く想像できない私であるのに、なぜ岩盤浴に関しては一生という長いスパンで思考できたのか本当に謎である。働き始めてからも別に土日は休みだし、いくらでもいけるはずなのだが。

 とりあえず訪問してみるも、受付でバスタオルその他のタオル類を借りるのに合計200円ほどかかると聞いて、なんだかお金がもったいなくなり、入らずに帰宅した。しかし、「今いかなければ…」という前述の謎の焦りが再びわきあがってきたので、今度は自宅のタオルを持って再来。

 中に入ってみると、そこは岩盤浴を中心に据えた総合保養施設のような趣で、食堂や普通の休憩コーナー、漫画付きの休憩室、温泉、小型ゲームセンター、マッサージコーナー、床屋など実に多様なゾーンからなっている。

 とりあえず温泉に入ったが、万人向けにそうしているのか割とぬるくていまいち。そしてまた結構手狭でもあった。

 温泉を出た後に岩盤浴に行くことにしていたので、それ用の服に着替え、一直線に岩盤浴場に向かおうとしたが、途中の漫画付き休憩室で『寄生獣』をみつけ、読みふける。気がついたら3時間経っていた。

 『寄生獣』を初めて読んだのは14年前の歯医者の待合室。今読んでも、出来がよい作品だなと思う。緊張感のある展開と、人間とは何か的な重い問題提起、そして自然なユーモアが同居していて、とにかく読ませる。今回再読して思ったのは、素直でまっすぐなシンイチは一方で結構不器用で不安定な子なんだな、ということ。思春期の不安定な少年を主人公に据えることにより物語が豊かなものになっている。私もミギーのような友達が欲しい。

 そんなこんなで目玉の岩盤浴に行く頃には、夜8時になっていた。どこで服を脱ぐんだ?と思いながら、割と重々しいドアを開けるとそこには浴衣を着たまま横たわる人々の姿が。あぁ、岩盤浴ってお湯ないんだ、と今更気づきながら横たわった。だらだらと汗をかいた。それがいいということだったが、うーん。

 休憩室に再来し、『寄生獣』の続きを読む。安っぽいヒューマニズムに回収されそうなテーマ設定だし、実際に大部分はそれに回収されている。人間側と寄生獣側との対立も、どこかの道徳の教科書にでてくる教材を少し高度な構図にしただけのように見える。しかしながら、読ませる。とにかく読ませる。

 岩盤浴自体はあまり印象に残りはしなかったが、帰ってベッドに入ると体が妙にほかほかして心地よかった。

 

5文型に変わる提案が新鮮 安藤貞雄『英語の文型:文型がわかれば英語がわかる』(開拓社、2008年)

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 何を学ぶに際しても、学び始めは特に楽しいものではないだろうか。昨日に続け、今日もまた、英文法に関する本を読んだ。 昨日読んだ中川右也『教室英文法の謎を解く』(開拓社)という本の参考文献欄に載っていた本である。同書については以下の記事にまとめておいた。

summery.hatenablog.com

 

 今日読んだのは安藤貞雄『英語の文型:文型がわかれば英語がわかる』(開拓社、2008年)である。

 

英語の文型―文型がわかれば、英語がわかる (開拓社言語・文化選書)

英語の文型―文型がわかれば、英語がわかる (開拓社言語・文化選書)

 

  

 生成文法の専門的な用語が出て来る部分があるため、そこに関してはあまりよくわからなかったが、それにしても、大体の部分は理解することができたと思う。

文法の基礎知識が中学段階で止まっている私

 私が英文法に初めて触れたのは、地元の個人塾だった。先生が自宅で開き、一人で切り盛りしている塾である。その先生は私に、英文法とはどういうものか、文法に即して英文を読むということがどういうことなのか、そして、辞書をどう引けばいいのかということを教えてくれた。今になって思うが、そこで基本的な学習の仕方を教えてもらうことができたことは、私に取って本当に幸せなことだったと思う。

 そこで学んだ英文法は、今から振り返ると基礎の基礎だった。そして、高校以降今日に至るまで、基本的にその基礎の上に、ほとんどの英文を理解できてきた。そのことは、昨日書いたとおりである。

 しかし、だからこそというべきか、一方で私は基本的な文法事項に関する自分の中の知識をアップデートしたり、当初抱いた素朴な疑問を解決したりする努力を怠ってきてしまいもした。

 今回この本を読み、 中学からこのかた、持っていた疑問や違和感のいくつかが綺麗に氷解していくのを感じた。大変刺激的な読書体験だったといえる。

    ここではその一部を取り上げることにする。

I am in the room.という文に関して抱いた疑問

 中1で最初に英文法を習い始めたあたりの時期のことである。I am in the room.という文章にあたり、私はやや戸惑ったのを覚えている。戸惑った理由は、「これは第何文型なんだろう?」「in the roomは補語なのかな?」という二つの疑問を持ったからだ。

 先生は、前者の私の疑問に関しては「第1文型」後者の疑問に関しては「in the roomは、前置詞+冠詞+名詞からなる副詞句である」という答えを与えた。私は前者に関しては、「in the roomの部分は文型に分けるときは捨てられるんだな。随分ダイナミックに切るんだな。」となんとなく違和感を抱いた。後者に関しては、「前置詞+冠詞+名詞は形容詞句にもなると習ったから、補語と考えてもいいように思うのに、なぜそうならないのだろう」とさらなる疑問を思い浮かべた。

 この本をもとにすれば、先生の前者の答えは、5文型をもとにした説明の枠内では正解。だが、そもそも、このように分類せざるを得ないことに問題があるというのが筆者の主張。後者の答えも正解だが、上の説明では私が抱いた疑問が当然でてくるということになる。それでは、筆者は以上の違和感や疑問にどのように対応するのか。 

違和感と疑問がするすると解消

 筆者によれば、件の文におけるin the roomのような副詞句は、「動詞にとって義務的な副詞句」(以下、Aと表記)である。Aは、それが存在しないと文が成立しないような、文の成立にとって不可欠な副詞句である。

 本来的に、Aにあたる部分を欠如させた文が成立しないにもかかわらず、あたかもそれが主要素ではないように、件の文をSV=第1文型というAを無視した分類にせざるを得ないこと、そのことが、「5文型の最大の欠点」(9頁)だというのが筆者の問題提起である。学習の最初期に持った上記の違和感は、「5文型の最大の欠点」に関わるものだったんだ…。

 ということで、このような欠点を克服すべく、Aを文の成立にとって不可欠な要素と見て、SVA、SVCA、SVOAを加えた8文型の提案こそが、筆者の最大の主張である。これには思わず頷いてしまった。

 ところで、私の疑問の後者、すなわち「in the roomはCではないのか」という疑問に関しても、「論争が行われたことがあった」(25頁)とのこと。初学者が素直に持つ疑問も案外大事なんだなと思う。

 これに関して、筆者は、I am in the room.のような文はWhere is he?という疑問文の答えになるから、副詞句決定、と述べている(25頁)。確かにwhereは疑問副詞なので、そう言われてみるとすぐに判別できるな。そういう風に考えればいいのか。

 以上のように、中学時代以来有していた違和感と疑問がするすると解消していく快感を味わうことのできる読書体験だった。他にも、全く知らなかった文法事項が満載で、一気に読んでしまって、知的好奇心が満たされる満足感を味わった。

 しかし同時に、もう少し早くこの本を読んでいれば、得することも多かったのにな、ということを繰り返し思った。でもしょうがないな。今日まで英文法を改めて学び直そうとは一度も思わなかったのだ。6年間、一度も。やれやれ。これから少しずつ文法知識の幅を広げていきたいと思う。

疑問がするすると解消していく 中川右也『教室英文法の謎を探る』(開拓社、2010年)

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うわ、読めない…

 久々に英語を読もうとしたら、全く読めなくなっていた。「あーあ」と思った。

 こういうときいつもなら、英語の本とその翻訳とを並べ、何日か取り組むことで英語力を取り戻していくのだが、今回もそうしようとして、どうもそのやり方に倦んでしまった自分を見つけた。

 英語から遠ざかった時期が長かった(半年)せいか、英語と日本語を行き来することの不自由さばかりが不快感として残る。加えて、以前からよくわかっていなかった文法事項が気になり始め、その意識が足枷となる。そうして、英語を読むという行為にうまく集中することができなくなった。

 関心は日本文学の私であるが、外国語の勉強は比較的継続して行ってきた。決して高いレベルではないが、IELTSで言えば、一応overall7.0はぎりぎりある。

 英語の勉強を続けて来た理由は、文法への興味からである。生きた言語が、帰納的に導かれた文法という体系に乗っかっている様を観察したり、目の前にあるよくわからない文章が、いくつかの(言語総体の果てしなさと比べれば)はるかに単純な規則を守ることにより読解可能になるということが面白かった。

 英語が読めなくなった今、とりあえず初心に帰り、再び文法を勉強すればどうだろうか。そう思われた。しかし、教室英文法には飽きている。専門的な文法書は難しい。その橋渡しとなるような本として、手に取ったのが、中川右也『教室英文法の謎を探る』という本である。わかりやすく、面白くて、1時間ほどで読み終わってしまった。

教室英文法の謎を探る

教室英文法の謎を探る

 

 そもそも、私は基本的にアルバイトで英語を教えていたので、教室英文法はこの大学・大学院生活で5周ほどしている。その経験が、「教室英文法の謎」への強い関心となり、読書を強力に後押ししてくれた。

するすると謎が解けていく

 読んでいく中で目から鱗がいくつも落ちた。特に関心させられたものをあげておきたい。

時・条件を表す副詞節の中はなぜ現在形?

 最初に強く感心したのは、「6 時・条件を表す副詞節は、なぜ未来のことなのに現在形なの?」(19頁以降)というセクション。

 解説の中では、時・条件を表す副詞節が用いられた文"We will go out when Taro comes back."が取り上げられ、willが用いられる主節の方が従属節に比べ、相対的に遠い未来にあることが指摘される。その上で、以下のように「謎」が解き明かされていく。

whenを使った文の場合、主役である主節の動詞が、助動詞willを使うことによって、副詞節(when節)よりもあとの未来の出来事について述べていることが示されています。そのため、従属している副詞節までもが、未来の出来事を述べているのだと示す必要がなくなるのです。あえて副詞節に自己主張させると面倒なだけでなく、くどい表現になってしまうからです。*1

  ふーん、そうだったんだ。ネイティブが感覚的にやってることを論理的に説明してくれるのは本当に助かるな、と思う。くどい表現を避けるというネイティブの感性を参照することを通して、説明される文法事項はこれまでの自分の文法学習の中で幾度か出て来た気がする。今一度、意識し直そうと思った。

疑問詞+to不定詞ってもともとはどういう形なの?

 疑問詞+to不定詞に関しては、さっさといくつかの用法を暗記し、読んだり書いたりすることができるようになってしまったこともあり、場面場面で微妙によくわからないな、と思うことがあっても、何がわからないか言語化してこなかった。この本によれば、疑問詞+to不定詞は本来的には、〈疑問詞+S+be+to不定詞〉(つまり、間接疑問文ということですかね)らしい。それゆえに、

I don't know who to go

I don't know who to go with*2

 

の二つを考えると、上は言えず、下は言えるということになるとのことでした。これは本当にすっきり頭に入った。

強調構文(It is 強調要素 that 残り)におけるthatの先行詞って何?

 また、同様に、丸暗記して自分の中で終わりにしていた強調構文であるが、生徒に教える際、参考書などの解説でthatが関係代名詞と記されていたことは、ずっと気になっていた。

 にもかかわらず、調べずに済ませていたのは、明らかに、暗記する方が早いと思われていたからだ。強調構文はルールさえ知っていれば訳すのも、作るのも簡単であり、実際私はこれまで解釈においても作文においても強調構文で迷ったことはない。

 しかし、この本の解説を読んで、thatの先行詞は文頭のitであること*3を知り、圧倒的に理解が深まった。あぁ、そうなのね、itを先行詞にとるのね。普通はあまり見ないけれど、those whoとかもあるし、そうかもしれない、と読んでいました。

進んだ文法学習で、先の風景が見えるかもしれない

 文法学習が好きで、高校までの教室英文法はだいたい頭に入っている自信があった。実際それにより、受験英語における長文はもちろん、大学・大学院の学習において出会われる大抵の英文はほぼ全て読めた。

 少なくとも、研究論文などは規範的な英文法の枠内で描かれることが期待されている。そのため、その読解は、教室英文法で事足りる。これは経験上そうである。もちろん、TOEICに始まる各種試験の英文にも対応できた。

 しかし、一方、私は小説や気の利いたエッセイ、そして新聞の社説といったテクストとなると途端に読めなくなってしまうタイプでもあった。その理由は、見たことのないような書き方に出会った時、その内容を読み取るよりも先に、自分のなかの教室英文法の体系に沿っているかどうかを検証してしまうせいで、筋に対する集中力を持続させることが難しくなってしまうからだった。

 そのため、英語の試験で良い点を取ろうが、研究論文をいくつ読もうが、英語ができるようになっているという実感が全くなかった。その理由は、教室英文法に安住してしまっていたからかもしれない、と思う。依拠すべき体系を拡充する時が来たのである。教室英文法の範疇を超えたよりしなやかな文法知識を身につければ、今よりも先の風景が見えるかもしれない。

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 この本に勢いを得て、この本の文献欄に載っていたまた別の文法の本を読みました。それについては以下の記事にまとめたので、よろしければあわせてご覧ください。

summery.hatenablog.com

 

*1:中川右也『教室英文法の謎を解く』(開拓社、2010年、22頁)。

*2:同上、145頁。

*3:同上、170頁。

『騎士団長殺し』を読み終わった

 『騎士団長殺し』を読み終わった。異様な小説だな、と思った。過去二つの記事で述べた、漠然とした底の浅い印象。それが、筆者の意図的なものかもしれない、とラストを読んで思う。何かが解決した気がしない。あえて解決させない、という意思が読み取れる。

 

summery.hatenablog.com

 

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 〈私〉は何を隠している?

 秋川まりえへの、主人公(以下、〈私〉)の視線は、子供を見る大人のそれである。まりえが大きくなり、綺麗になったら男の愛でる対象になるだろう、といったモノローグと共にまりえの観察が行われる。この辺り、気持ちが悪くてしょうがなかった。これまでこんなのあったかな。

 秋川まりえを遠くから観察する免色は、作中でそのまりえへの執着度合いという点で、均衡を欠いたような人物として描かれている。しかし、〈私〉のまりえへの視線も十分薄気味悪い。それに呼応するようにして、乳房の膨らみへの不安を吐露するまりえ。このまりえはまりえで、〈私〉を誘っているのではないかと思われなくもない。

 あまりにご都合主義的に現れては消え、物語の展開を導いてくれる騎士団長に関しても、結局よくわからない。大変その意図がわかりやすい設定が多々見受けられる中で、それと不協和音を奏でるように、いくらでも効果的につけくわえうるような説明や、設定の利用が抑制されている。わかりすぎるくらいわかる部分と、なぜわかるように書かなかったのかよくわからない部分とが混在している、という印象。

 とにもかくにも、『騎士団長殺し』を読んでいて最初に持った感想、すなわち、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公岡田と、『騎士団長殺し』の〈私〉とで、世界認識のあり方、世界との関係の持ち方が根本的に異なるという感想は、案外重要な気がする。語り手により語られないためにわからなくなっている空白が多い為、読後感がおぼつかないのであろう。

 物語の最後で授かった子供である「室」に目隠しする〈私〉は、読み手に対して〈私〉が与える目隠しでもあるのではないか。何かが隠されている気がするが、果たして何が?そしてそれを明らかにする価値があるのかが、わからない。途中、「見所がない作品だな」、と思っていたが、案外考えるべきところの多い作品かもしれない。

 

東日本大震災後と人間性 川野里子さんへのインタビュー記事における石牟礼道子『苦海浄土』

 

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   歌人の川野里子さんが、中国新聞のインタビュー「詩のゆくえ」で、石牟礼道子苦海浄土』に関して一言よせている。その一言に強く惹きつけられた。

   言わずもがなかもしれないが、『苦海浄土』とは水俣病の発生から終息までを著者石牟礼が追った一種のルポルタージュである。

 この作品の中で石牟礼は水俣病を負った、自分の息子と同年齢の少年との出会いについて書いている。以下、記事から引用。

 

息子と同年齢の水俣病の少年と出会った石牟礼さんは、「ひきゆがむような母性を、わたしは自分のうちに感じていた」とつづる。「自分の中の人間性を再発見しているこの言葉が、東日本大震災後の今、ものすごくまぶしくて。」川野さんは実感を込める。

中国新聞」2016年3月9日朝刊文化面(13頁) 

   この川野さんの一言は強い喚起力を持っていると思う。実は私は一ヶ月前に『苦海浄土』を読んだ。読んだのは講談社文庫版である。

苦海浄土 わが水俣病 (講談社文庫)
 

 

 大変興味深く読んだのだが、それを現状、自分が問題に感じている事柄との関係においては読まなかったのである。

   川野さんの上の一節を読んだ時、『苦海浄土』の読書体験が、自分の中で一気に具体的なものになるようで、思わずうなずいてしまった。「東日本大震災後の今」とあるが、その言葉の私の中での含意は震災に関連する出来事にとどまらない。

   たとえば、相模原事件。たとえば、日本における排外主義運動の高まり。電通で自殺した、友達の友達。そして、今も、また、これから何十年何百年も禍根を残し続ける原発問題。

    それらに関する情報を拾う中で強く感じるに至ったことがある。それは、「一つ一つの小さな生活が危機に晒されている」という危機感だ。当たり前の生、当たり前の幸福の享受や、当たり前の自由が、当たり前でなくなり、時に軽々と蹂躙され、時に複雑隠微な方法で息苦しい形へと変えられていく。

   上に挙げた中で、特に個人的にショックが大きかったのは、相模原事件だ。相模原事件直後にネットの最悪な部分で噴き出した言論は本当にひどかった。障害者の生きる権利を認めないような、とてもここで再現するのがはばかられる発言が多々リツイートにより運ばれてきて、ネットを見て初めて涙を流しそうになった。生まれてくる命を受け入れ、支え、それとともに生きることに喜ぶという当たり前のことが、もしかしたら難しくなってきているのではないか。月並みな表現だが、「社会の底がぬけてしまう」と思った。

   石牟礼が、水俣病患者の少年に感じた「ひきゆがむような母性」。それは、確かに私にとっても「まぶしい」。傍に居て苦しむ人を見て、自分もまた苦しみを感じること。それは、川野さんが述べるようにまさに「人間性」の「再発見」だと思う。そしてこれもまた、当たり前のことのはずだと思う。しかしそれが今日当たり前ではなくなってきているのではないか。

   この問いは、もちろんそれを発する自分に差し戻される。そもそも私は人間性を日常生活の中で発揮し得ているのだろうか。自分勝手な私は、石牟礼の方にはとても立てないかもしれない、と不安になる。川野さんの「まぶしい」には、もしかすると、そのような含意がこめられているのではないか、と思う。

 

子供の教育を語ることを通して、自分の欲望を語ること。学習相談にのってきた。

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学習相談をする中で、驚かされること

 大学生活を通して塾講師や家庭教師をやってきた。成功も失敗もあった。そのような経験を話すと、少し相談に乗ってくれないか、という話を受けることがある。先日もそうだった。

 子を持つ親は、「先生」ということになっている人にどのように接するのか。そのことに対する単純な好奇心から、一回きりのちょっとした相談を受けることはこれまでもままあった。この春から就職するため、これが最後であろうと思われるから、学習相談をする際に毎回直面してきた驚きと、そこから考えたことを、書き留めておきたいと思う。

▽自分の子供はできる

 毎回驚くことの一つは、自分から率先して家庭教師に相談を依頼するような親のほとんどが、「自分の子供はできる」と信じている、もしくは、「できる」と信じたいと思っているということだ。

 「信じる」というような言葉を使い、このように記述すると、親を馬鹿にしているように聞こえるかもしれない。実際は、違う。というか、その親たちのあまりの切実さに馬鹿にすることなどとんでもないと思ってしまうのである。なぜなら、その切実さ、その想いの強さは、逆説的にも、そうでないかもしれない可能性に彼らが十分に思い当たっていることを示しているからだ。

▽子供を褒められて喜ぶ親たち

 一つ目に大いに関連するが、二つ目に毎回驚かされるのは、私が親たちの話を聞き、その子供を褒めるときの、親たちの喜び具合だ。もちろんおおっぴらに喜びはしない。しかし、表情の具合や話のテンポが上がっていく様子から、何人かの親は、尋常ではなく喜んでいるように、私には感じられた。大学受験をくぐり抜けたとはいえ、20代前半の、それもほとんど素性もしれない若造が、伝聞だけで子供を褒める。そのことにより、本当に安心した表情を浮かべる親たち。そして、大抵、以下のような語りが続く。

 自分の子供は、いま現在成績は振るわないものの、小さいころはこのようなことができたし、いまも、これだけは誰にも負けない。これは、私たちの影響もあると思う。私の夫は小さいころから、この教科だけは負けなかった。私もこの教科は得意であったのである。生活や勉強の仕方を少し変えれば、彼の成績は間違いなく伸びていくことと思う、そして、どのように変えていけばよいかということも私は大体わかっているのである。そのことを子供には何度も言っているのだ。しかし、私が言っても聞かないから…。

 嬉々として語り出す彼ら。それを思い出すと、未だに鳥肌が立つ。なぜか。彼らは子供の健全な発達を願っているのではなく、また、私からスマートなアドバイス(そのようなものを提供する実力が私にはない)を求めているのでもなく、ただ自分の願望を吐露し、自分の不安を語っているからだ。

教育を語ることを通して、自分の欲望を語る

 考えてみると、私はこれほどまでに自分のことだけを語る大人に、大学に入るまで会ったことがなかった。社会生活のなかで、人は自分の欲望のみを語ることを制限する術を身につける。私の周囲の大人にこのようなタイプがいなかったわけはない。必ずいたと思う。しかし、普段それは隠すものなのである。

 例えば、お金やセックスの話は、日常会話において、基本的にタブーであるとされている。もちろん、それらを分析的に語ることは可能だし、そのような場合、タブーとは言われない。では、なぜ「基本的にタブー」なのか。それは、お金やセックスといったトピックが、語る主体の欲望をあらわにしやすいトピックだからだ。過度な欲望の表出は、社会生活においては制限される。いくら気持ちよくても、裸で歩いてはいけないのと同じだ。

 私が、親たちの学習相談に乗っていて、時折上のように、鳥肌が立つような経験をするのは、大人の直の欲望に接するからだ。日常生活において欲望の表出は制限を受けるが、自分の子供の教育について語る時には、その欲望がこのように直接的に現れるのだな、と驚かされる。

▽自分が肯定されているような気持ちになっている?

 私は子供を褒められることで、親が喜んではいけないといっているわけでは決してない。私が逆の立場であったとしても、嬉しいと感じると思う。そしてそこに、「自分の教育がよいからだ」、という気持ちが介在しないということにはならないように思う。一生懸命育てているという気持ちがあるのなら、多少なりともそう感じるものなのではないだろうか。少なくとも私は、自分がそういうタイプなのではないかと自分で思っている。

 しかし、子供が褒められることを、自分の家庭や自分の教育努力の肯定と受けとめるのは、本来的にはあまり良いことではないのではないか。なぜなら、自分が行った教育の結果物のようにして子供を捉えることは、子供を自立した一人の人間として扱おうとしていないからである。子供に対して向けられた言葉を自分に対して向けられた言葉として捉えているのだ。

 もちろん、中学生に自立は無理だ。親に依存し、親に甘えるのが彼らである。しかし同時に、自立への萌芽が現れるのも中学生である。それを後押しし、本人の健全な発達を喜ぶのが理想的なあり方のように思われてくるのである。

相談相手は私じゃなくてもいいんだな…

 子供のことは自分がやっているし、子供のことは大体知っている。子供がうまくいかない時は、自分があらゆる方向から支援しなければならない(、そして子供がうまく行った時は、自分のやり方が良かったときである)という風な態度が見える親とは、学習相談の場で話していて疲れる。繰り返すが、そのような親は、子供のことを語りながら、その実自分の不安、自分の願望を語っているからだ。

 相談相手がこのようなフェイズに入るといつも私は、語る相手が私ではなくてもいいんだな、と思う。彼らに共感し、彼らの言っていることの一部を当意即妙におうむ返ししさえすれば誰でもよいのだな、と。

 ただし一応、学歴という権威を持った人物でなければならないのだ。ということでここで私は疎外感を感じる。あぁ、肩書きだけで見られているな、と思う。学習相談をするとき、大抵は初対面だ。肩書きだけで見ないということは、このような状況で大変難しいと思う。だから、それを要求することは、過大な要求かもしれない。しかしとにもかくにも、違和感は感じる。そのことは表明していいと思う。

 

***

 

 繰り返し付言したように、私自身は、20年後くらいに、私に対して学習相談をする側の親になっている可能性の高い人間である。彼らの持つ弱さが、私にとって無縁とは全く思われない。注意しなければ、確実にそうなるだろうと思う。学習相談を受ける側に回って良かったと思われることの一つは、私はあちら側の人間に容易になりうるということがよくわかったことだ。

 

『騎士団長殺し』における「メタファー」という言葉への違和感、それと雑記

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  どうしてもうまく寝付けず、今日は4時に起きてしまった。猫を抱いたために両手がふさがり、本を読むことができなかったので、宙を眺めていたのだが、そうしていると、これまでのこと、そしてこれからのことが渦を巻いて頭を占拠してくるようで、たまらなくなった。ものを考えたくない…。

 

 猫を傍らに置き、机の上においてあった『騎士団長殺し』を読もうとした。けれど、ラスト50ページのところまで来ているのに、それ以上読み進む気が全く起きない。それで、結局今日もほとんど読まなかった。

 つまらないわけではない。しかし、どこかで読んだ気がするセリフや展開、思考の流れの連続で、すでに読んだものを読まされているような気がして、あまり積極的になれない。

 ここまで読んできた部分で、ワーストは、騎士団長が「わしを殺せば、顔ながが現れる、早く」というようなことを言った部分。オーブを集めれば道が開ける、とか、中ボスを倒せば奇跡の薬が手にはいる、とか、本当にそのような展開だ。

 

 もともと村上春樹作品の根本的な構造はRPGゲームのように単純なものであると言われている。だから、このような記述もさもありなんなのだが、ゲームに見られるような構成・構造を現実世界の記述に適用する手つき、本来的に混沌としている世界を、ある秘められたルールがあるものとして小説の中に立ち上げていく手つき、そこにこそ村上春樹の本領があったはずではないか。これでは構造があまりにありありと露出するため、その性来の単純さが際立ち、鼻白んでしまう。現実世界がそこに立ち上がってくるというリアリティはない、と思う。

 

 あらゆる内的な連関を「メタファー」という言葉により一元的に説明しようとする点も、もはや驚きながら読んでいた。少なくとも、『ねじまき鳥クロニクル』はアレゴリーに満ちていたように思うのである。ノモンハン事件の話が、岡田の話とつながりそうでつながらない。この二つの強い物語の間の距離から岡田は力を得るし、この二つの物語の間の距離の深淵からこそまた暴力も湧いてきたのではないか。

▽ 

 再び抱いた猫は、そのような時間に抱かれることがこれまでになかったせいか、意外そのものであるという顔で、目を見開いてこちらを見ていた。彼女の驚いた顔と対面していると、何か抜き差しならないことが進行しているようで怖い。もしかしたら、私は叫びそうになる直前なのかもしれない、と思うことで、そのように客観的に自己の状態を把握できることに安心する。とても憂鬱な明け方だった。

 

 宮沢賢治の、どの作品だったか忘れたが、「山猫のにゃあという顔」という表現があったように思う。高校生だった当時の私は、この記述に出会って、なんとシンプルで、なんと適切な形容なのだろうと感嘆したのだった。私以外誰も乗っていない在来線の車両で。両側にすすきのある、周囲よりもやや低いところを抜けると一気に視界が開け、進行方向左手側に延々と田園が見える。田舎めいた場所に住んでいてよかったと思うことは、都会に住んでいないために不満を感じるのと同じくらい多い。