SUMMERY

目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

学びとは何かについて改めて考えてみる

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 日々努力を継続し、自己研鑽に努めている人の中に、驚くほど狭量な価値観しか有していない人がいる。なぜだろう。なぜこうなってしまうのだろう。多くのことを学んだ結果がこれなら、学ぶことにいかほどの意味があるのだろう、と絶望的な思いにかられる経験を幾度もしてきた。今回は、学びとは何かということについて考えたことを書いてみたいと思う。

学びの2種

 それについて考えて行くことの中で、学びには二つの類型があると考えればよいのではないかと思うに至った。一つ目は、異質なもの・理解の難しいものに目を向けることを通して、自己の価値観を批判的に省み、自己変容を志向する学び。二つ目は、ある目的を設定し、そこに向かって努力し、自己研鑽を積むという意味での学び。前者を自己変容型の学び=変容型、後者を自己研鑽型の学び=研鑽型としよう。

 大学に入るまでの私にとって、「学び」とは第一義的には研鑽型であった。変容型の学びは、研鑽型の学びの上にあるものだったのである。研鑽型の学びの末に、自己変容がある。つまり、「学び」という言葉に研鑽型も変容型も含まれていた。

 このような考え方は、それほど間違ったものではない。二つはそれほど簡単に切り分けられるものではないし、研鑽型の学びの末に自己変容型の学びに至ることはままある。しかしながら、研鑽型の学びの上に必然的に自己変容型があると考えることは、間違いであると思われる。というのも、研鑽型の学びの特徴は、すでに設定された目的に向かうことであるからだ。

研鑽型の学びの特徴

 研鑽型の学びからは、目的そのものへの疑いは生まれてこない。したがって、目的の裏にある前提、そしてその前提の背景にある価値観は疑われることがないのである。研鑽型の学びは必然的に、ある決まったルールの中で、何かを人よりうまく行うことに収斂する。例えば、ある分野の知識を蓄え技術を磨いたり、特定の処理を人より早く、正確に行うこと、つまり、専門知はここに入る。さらにまた、ある体系の中で、人との競争に打ち勝つこと、つまり、利益の創出、ビジネス上の成功もここに入る。

研鑽型の学びでは、努力の前提となる価値観や、努力の目的自体が問われにくい

 専門知と、ビジネス上の成功を同列に扱ってよいのか、という疑問は当然あるだろう。確かに、研鑽型の学びの中に、さらに下位カテゴリーを設けるべきである。しかしここでいいたいのは、専門知も、ビジネス上の成功も、「人よりも早く・正確に」もしくは「人よりも多くの利益を」というように、何かの枠組みを設定し、その中で、競争を行なっていく際に必要とされる学びであるということだ。そこでは、すでにある枠組みへの疑いは重要とされない。「なぜ人よりも早いことが良いのか」、「なぜ正確さが必要とされるのか」、「なぜ利益が高いと良いのか」という疑問は真面目に検討されないのである。

 もちろん、こういった疑問が研鑽型の学びの枠内で決して生まれてこないわけではない。むしろ、目的に向かう途上において、その目的が本当に目的なのかという疑問を抱くことはとても自然なことである。

 しかし、研鑽型の学びにおいては、そのような素直な疑問を突き詰めて考えるということは起きにくい。研鑽型の学びが競争の枠組みの中に入って行われる以上、競争の目的を疑うことは、時間の無駄だからだ。

 よく、幼い頃不遇な境遇にいた人が、自己の努力だけを頼りに、大きな企業の経営者へと上り詰める物語がある。私にはとてもできないようなことを軽々と行い、リスクを取り、自己実現を果たしていく彼らの話に、素直に敬意を払う。とても私にはできない。システムの中で避難できる場所、自分を守ってくれる場所を見つけようとする私とは違い、システムの中で揉まれる中で、イニシアチブを獲得しようと奮闘する彼らの姿には、私にはない力強さを感じる。

 一方で、冒頭で述べたようにそうして上り詰めた彼らの視野の狭さ、価値観の狭量さに驚くこともある。一つの目的を求め、そのために他人との競争を繰り返すと、生きる上での習慣として、無意識にその目的をもとに人を測るようになったり、自分に見えていないもの、自分と異なるものに関して想像力をおよぼすことが難しくなるのだろう。そして、自分が自明視している価値を疑わなくなる。正確に言えば、疑う時間もなければ、疑うことに意味を見出せなくなる。

変容型の学びの特徴

 変容型の学びは、一方で、すでに存在する価値観自体を疑い、自己の視野を広げて行く学びである。そこでは、出発地点と全く異なる地点に導かれて行くことがしばしばだ。

 誤解のないように言えば、変容型の学びにおいても、もちろん、目的を設定している。しかし、往々にして、その目的はあまりに漠然としている。例えば、上で述べたように、それは、「視野を広げる」「多様な価値観を学ぶ」などといったことである。いうまでもなく「どの視野をどう広げるの?」「それで何が得られるの?」「どんな価値観を学ぶの?」と言われても答えようがない。

 「視野を広げる」といった言辞は確固とした目的たり得ないと思う。それは方向性である。言い換えれば、「それが何かはわからないけれども、何かが得られそうです」ということの表明である。だから、「何が?」と聞かれると、答えられない。学んだ後ですら、「何を学んだの?」と言われると、「何か」としか言えないこともある。

そもそも明確な目標が設定されない変容型の学び

 明確な目的を設定する、研鑽型の学びに慣れた人々にとっては、もどかしく聞こえるだろう。おそらく、変容型の学びをする人々自身にとっても、これはもどかしいはずだ。それが何かはわからないけれども、「何か重要な物がある気がする」という予感により、学びを始める。そして、「何か重要な物を学んだ気がする」といって学びを終える。そもそも、目的を設定していない以上、そこが終わりなのかわからないし、そこで一旦終わりとして区切りをつけてよいのかもわからない(変容型の学びには終わりがない。本来「青春の墓標」は立てられない)。しかし、自分の責任において、一旦区切りをつけるのである。

 これは、研鑽型の学びに慣れた人々にとって、怠慢に聞こえるかもしれない。私は、この指摘は正しくないと思う。自己変容型の学びは、何を学んだか、言葉にするのが難しいからだ。だから、本人がその努力を行なっていると見受けられる限りにおいては、それを怠慢ということはできない。変容型の学びを真摯に行なった上で、必死に言葉を紡ごうとして、うまくいかない人々の言い澱みを、私は歓迎する。一方で、真摯な学びを全く行わず、怠慢に日々を過ごした上で、「私がしている勉強は、何を学んだとかそういうことを言うのは難しいのだよね」と言辞を弄する人々は、確かに問題外だ。

 しかし、いうまでもなく、だから自己変容型の学び自体に意味がないということにはならない。

対話を可能にするには

 自己変容型の学びの眼目は、あらかじめ設定された価値基準の中で優位をとることではなく、多くの価値基準があることを知り、それぞれに多様な人間のありようを知ることで、自分にとって異質に見える人々を理解し、彼らと対話し、究極的には共生を行う力を身につけて行くことである。他者を同じ人間として思いやり、助け合うこと。簡単に言えばそうなるが、これがいかに難しいか、ということはニュースを少しでも読めば明らかである。

 とりわけ、昨今、世の中で問題になっていることの大半は、自己の所属する体系の中に内閉することにより、異なる立場の人に想像力を及ぼすことができなくなること。そして、その結果として、自己利益の追求に邁進することにあると思われる。

 自分で書いていて、なんだか70年代くらいの雑誌『世界』の記事の劣化版を再生産しているような気分になる。題名をつけるとしたら「今こそ学びの再定義を」とでもなろうか。書いていてニヤニヤしてくる。すごくありそう。

 しかし、偽らざる感想として、そう思うのである。おそらく、領域横断的な学びが提唱され、広まってきた背景にはそのようなことがあるのだろう。その精神に薫陶を受けた学生たちが、すでに社会の枢要な部分に食い込んでいるはずだ。それでは現実はどうか?うーん。暗澹たる。

大学院の修了、そして、「生まれてくる生命を支える社会を創る」方へ

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大学院を修了しました

 修了しました。とにかく多くの人に会い、多くの話をしたここ二日間。くたくたでした。二週間ほどあまり人と話をしていなかったのもあり、相手の話を聞いて、それに受け答えることを思い出すことから始まり、表情を読んで微妙に言葉のニュアンスを変えることなど、何から何まで大変でありました。表情を読むことに、日常的に難しさを感じるということでは必ずしもないのですが、その技術を一時間ほどで一気に取り戻して行く過程に負荷がかかり、大変なことをいつも私はやっていたのだなと実感させられました。

 とはいえ、同じ修了者や後輩、そして先生方とのお話が中心。当然のことながら、話が通じる人との話ばかりで、これでも随分とやりやすい方のはずなのです。働き始めたら、もっともっとコミュニケーションに負荷はかかるだろうな。環境の激変に弱いのですが、弱いなりに耐えていくと確かに多くを学べるのも事実。とりあえず、就労開始までに英気を養おうと思います。

 ところで、これで大学院とは正式にさよならなので、今後について、若干の決意めいたことを書いておきたいと思います。まだ不完全ではありますが、一応。

 

「生まれてくる生命を支える社会を創る」

 

 最近、東日本大震災直後の『世界』『文藝春秋』『中央公論』を読み直していました。その中で、『世界』の2011年5月号、つまり東日本大震災を内容に盛り込んだ初号を読み返し「生まれてくる生命を支える社会を創る」という記事をみつけました。

ci.nii.ac.jp

 

 この記事を見つけた私は、その題名だけでなんだか安堵してしまいました。人より優位に立つことや、自己利益を追求することではなく、人とともに支えあい助け合い生きていくことを求める人々がまだまだいると思うと、私も頑張ろうという気分になります。 

 社会を変えようとか、そのような大それたことを思っているわけではありません。「コモリン岬」における見田宗介の言葉を用いながら言えば、私は私自身の聖域を守ろうとしているのです。本来的に混沌として、不条理な世界の中で、なんらかの文化的構築物を仮構しなければ、人間は社会的な存在として生きていくことはできません。助け合い共に生きる共同体のあり方、もしかしたら今、危機にあるかもしれないあり方は、私が人間としてあるために最も基本的なあり方であると思います。つまり、「聖域」です。

 自分勝手でわがままな私は、普段はこの聖域を守る方ではなく、この聖域に守られ、またそのことを知っているにもかかわらず、それを維持しようと努力することはせずに、べったりと甘え、よりかかっている方である。だからこそというべきか、甘えてもたれかかっているこの聖域が、揺らぎ始めているのではないかということを敏感に感じずにはいられません。そして、何かしなければならない、と思います。自分にできることは、読み、そして、書くことと、話を聞き、そして応答することだと思います。

 四月から働く際の初心として、とりあえずそのようなことを書いておきます

購入すると読む気がなくなるの、本当に罪深いと思う

 誰にでもあるだろう、衝動買いの経験。今日私も久々にやってしまった。
 ことの発端は、新宿のブックファーストで見かけたソローキンの『青い脂』という本。

青い脂 (河出文庫)

青い脂 (河出文庫)

 

  以前所属していた小さな読書会の課題本として指定されていたが、その読書会には行かなかったため、読んではいなかった。今日ふと見かけたため、裏表紙の紹介文などを見ると、面白そうだ。とにかくはちゃめちゃで、エログロであるらしい。また、ロシアポスト・モダニズム文学の最高峰だというキャッチコピーに興味を惹かれる。表紙もかっこいい。

 とはいえ、別に大学の図書館で借りられるのだから、わざわざ買うには及ばないだろう。だいたい、私は本当に読みたい本がころころ変わるため、買ってもすぐに関心をなくしてしまうだろう。

 そのように考え、ブックファーストを出た私は、周辺を散歩していた。散歩しながら、『青い脂』が頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。詳しく確認してみると、大学の図書館では、なんと予約が二件も入っている。そして、アマゾン中古の値段も安くない。これは買ってもいいのではないか。いや、さっき考えたように、買っても、家に帰った途端に気が変わって、買ったばかりの本を積ん読化するということを私はよくやるじゃないか。

 などと考えながら、フラフラ東口のあたりを歩いていると、紀伊国屋書店に行き着く。そこで、これはもう、買うしかないのではないかと思い、買った。大学の書店やアマゾン新品なら、1割引なのに、普通に定価で買ったのである。書店に寄付するようなものだ。私は書店に存続してほしい。差額が1割なら、それくらい寄付してもいいだろう、と自分を説きふせた。どうせ寄付するなら、もっと小さな街の本屋にするべきだったが、『青い脂』が小さい本屋にあるかは微妙であると思う。

 家に帰り、『青い脂』を取り出した瞬間、今日の午前中まで読んでいた『細雪』のような、日本文学がもしかしたら今、とても読みたいのではないか、という気持ちが高まる。そんな時に限って、積ん読していたもののうち、ちょうど良いものが視界の片隅に入っていたりする。具体的には、高橋和巳邪宗門』が、私の方にちらりちらりと眼差しを送ってくるようである。それを試みに手にとって、1ページほど読む間に、『青い脂』への関心が自分の中で露骨に減退していくのがわかる。

 「いつ、君ともう一度出会うことになるだろうね?」エヴァのカオルくんに脳内で同一化しながらそれっぽいセリフを心の中でつぶやきつつ、せめて視界に入りやすい位置なら違うだろうと思い、『青い脂』を本棚の見えやすい部分に置くことにする。『邪宗門』を買ったのが1年ほど前だから、この本も、少なくとも1年ほどあそこにあるのだろうか。どうなのだろう。

 

 

久々にどっぷりと読書に浸る。 谷崎潤一郎『細雪』

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 久々にどっぷりと読書に浸っている。「小説の先が気になって、夢中で読みふける」という体験の只中にある。

修論執筆中は、「夢中で読みふける」ことはしなかった

 思えば、修士論文執筆中にはこのようなことを経験しなかった。修論で対象にしたのが牽引力を持った物語が展開されるタイプの作品ではなかったことが、その一番の理由だ。読みにくいけれども、なんとなく気になる。そして気になったところを掘り下げていくと、思いもかけなかった細部同士がつながっていく。つながった時点から、もう一度読み直すと、細部の意味合いが変化して見える、そのようなタイプの作品を扱ったのだった。

 ここ2日ほど夢中になって読んでいるのは谷崎潤一郎の『細雪』である。

細雪 (上) (新潮文庫)

細雪 (上) (新潮文庫)

 

  実は、一度授業の主題にとりあげられた際に読もうとしたのだが、その時はあまり入り込めなかった。今回も、上巻ではうまく入り込めなかったが、中巻あたりから一気にどっぷりと浸かることになった。

揺らぐ蒔岡家と女たちの生

 この作品では、戦中における、関西の旧家蒔岡家の女たちの生活が描かれる。

旧家なりの気品とプライドが見える

    私自身は完全に庶民の生まれであるので、作中における幸子の、自分たちと位が違うと認定した人々に対する鋭利な眼差しが読んでいて突き刺さってくる。そうか、名門旧家に特有の気品とプライドとはこういうものなのだなと素直に感心する。

    いや、本当にそうなのか、それは谷崎の頭の中にだけある名門旧家ではないのか、という疑いはあるが、この点に関して詳しくない私はとりあえずそうであるということにして読む。

揺らぐ蒔岡家と、その中の女たち

    旧家特有の気品とプライドなどと書けばいかにも旧弊に感じられるし、私もその内閉的な雰囲気が嫌で、初読時は上手く入り込めなかった。

    しかし、作品の力点は旧家が旧家として存続し続けることができない状況を書くことにある。蒔岡家は家主の交代や経済状況の変化により、有り体に言えば没落していく過程にある。その背景のもと、多くの私生活上の事件や複雑な時局下の社会情勢の変化に対する対応をせまられる構成員に、語り手は内的に焦点化する。

    主に女たちに内在的な視点から、小事件や他人と相対する時の、彼女らの対応や細かな判断、感情の動きをつぶさに描くことにより、一方で、旧家の規範とそれに基づく行動様式を保持し続けるからこそ守られる精緻な人間同士の関係や家と家との緊密かつ互恵的な関係が克明に描かれる。

    無論そしてまた、他方で、家という制度が自己保存と再生産を繰り返すことの空虚とそこにがんじがらめにされる女の苦悩、そして悲哀が描かれる。

家制度という文化的構築物の体系が克明に描かれる

    作中には、どうしてここをこんなに細かく書かなければいけないのか?と思われるような細かな描写や固有名の連続が多々見られる。私には勉強不足でわからないが、微に入り細に入り見ていけば、それら一つ一つは実は効果的に配置されており、全体として家という一つの制度を描き出すために不可欠な装置として機能しているのであろう。

    ここまで徹底的に家制度や、そこにおける生活の様式が描かれると、精緻に描き込まれた一つの絵画を見ているようだ。細かな描写それぞれが、全て内在的な論理に貫かれているように思われる。ここに書かれているのは一つの体系である。

    しかし残念ながらこれは依然浅い読みで、書き出される体系と語り手の位置との関係を問わねばならない。「夢中」で読んでいるので、今はそこまでいかないが、これを書く意味はなんだろう、ということはおいおい考えていきたい。

そして、お見合いの行方は…?

 ではなぜ、「夢中」で読むのかといえば、最大の原因は、なんといっても物語の中心に据えられた三人の女たちのうち、二人のお見合いの行方であろう。「どうなっちゃうんだろう、これは」と野次馬根性をむき出しにして、ハラハラドキドキしながら読んでいる。焦点化されることの多い人物幸子が、まだ結婚のあてが見つからない二人の姉妹の今後を案じたり、お見合いの段取りを整えながら、その成り行きに気を揉んだりする部分を読むと、「いや、ここは妙子を先に片付けてもいいのでは?」とか「この男を雪子と一緒にすると、雪子がかわいそうなのではないか?」とか幸子に並行して考えてしまっている自分がいる。

 物語の世界に入っていくことの快感を、久しぶりに味わっている。

 このように夢中になって物語の世界に入ることは、快感だが一方で、こういう読みは、批判的な読みではないな、と思う。語り手が繰り出す物語世界に乗っかって、驚いたり、喜んだり、悲しんだりしているのだから、小説の装置を相対化して読んではいないのである。

 やっぱり夢中になって読むことと、作品について論じることは違うな。大学院生を終える私は、これから物語とどう付き合っていこうか、などということを少し考えている。本当に、少し。とりあえず先を読む。

 

雑記:岩盤浴に行ってきた

 岩盤浴に行ってきた。3日前のことである。

 家から自転車で20分くらいのところに岩盤浴場ができたのは、三年前の話だ。それから一年ほどは、私の家の近所で岩盤浴ブームが巻き起こっていたように思う。母からも「隣の家のおばさんは年間パスを購入したらしい。私も行ったが割とよかった。あんたも行ってみれば」というような勧めを二度ほど受けた。けれど当時の私は特に興味がなかったので、行ってみたりはしなかった。

 それから三年経過した、3日前、その前を偶然自転車で通り過ぎて、なんとなく入ってみたくなった。今行かなかったら、多分一生行かないだろうという気持ちが、なぜかでてきた。一年後の自分のありようさえ全く想像できない私であるのに、なぜ岩盤浴に関しては一生という長いスパンで思考できたのか本当に謎である。働き始めてからも別に土日は休みだし、いくらでもいけるはずなのだが。

 とりあえず訪問してみるも、受付でバスタオルその他のタオル類を借りるのに合計200円ほどかかると聞いて、なんだかお金がもったいなくなり、入らずに帰宅した。しかし、「今いかなければ…」という前述の謎の焦りが再びわきあがってきたので、今度は自宅のタオルを持って再来。

 中に入ってみると、そこは岩盤浴を中心に据えた総合保養施設のような趣で、食堂や普通の休憩コーナー、漫画付きの休憩室、温泉、小型ゲームセンター、マッサージコーナー、床屋など実に多様なゾーンからなっている。

 とりあえず温泉に入ったが、万人向けにそうしているのか割とぬるくていまいち。そしてまた結構手狭でもあった。

 温泉を出た後に岩盤浴に行くことにしていたので、それ用の服に着替え、一直線に岩盤浴場に向かおうとしたが、途中の漫画付き休憩室で『寄生獣』をみつけ、読みふける。気がついたら3時間経っていた。

 『寄生獣』を初めて読んだのは14年前の歯医者の待合室。今読んでも、出来がよい作品だなと思う。緊張感のある展開と、人間とは何か的な重い問題提起、そして自然なユーモアが同居していて、とにかく読ませる。今回再読して思ったのは、素直でまっすぐなシンイチは一方で結構不器用で不安定な子なんだな、ということ。思春期の不安定な少年を主人公に据えることにより物語が豊かなものになっている。私もミギーのような友達が欲しい。

 そんなこんなで目玉の岩盤浴に行く頃には、夜8時になっていた。どこで服を脱ぐんだ?と思いながら、割と重々しいドアを開けるとそこには浴衣を着たまま横たわる人々の姿が。あぁ、岩盤浴ってお湯ないんだ、と今更気づきながら横たわった。だらだらと汗をかいた。それがいいということだったが、うーん。

 休憩室に再来し、『寄生獣』の続きを読む。安っぽいヒューマニズムに回収されそうなテーマ設定だし、実際に大部分はそれに回収されている。人間側と寄生獣側との対立も、どこかの道徳の教科書にでてくる教材を少し高度な構図にしただけのように見える。しかしながら、読ませる。とにかく読ませる。

 岩盤浴自体はあまり印象に残りはしなかったが、帰ってベッドに入ると体が妙にほかほかして心地よかった。

 

5文型に変わる提案が新鮮 安藤貞雄『英語の文型:文型がわかれば英語がわかる』(開拓社、2008年)

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 何を学ぶに際しても、学び始めは特に楽しいものではないだろうか。昨日に続け、今日もまた、英文法に関する本を読んだ。今日読んだのは安藤貞雄『英語の文型:文型がわかれば英語がわかる』(開拓社、2008年)である。

 

英語の文型―文型がわかれば、英語がわかる (開拓社言語・文化選書)

英語の文型―文型がわかれば、英語がわかる (開拓社言語・文化選書)

 

  

 昨日読んだ、中川右也『教室英文法の謎を解く』(開拓社)という本の参考文献欄にも載っていた本である。生成文法の専門的な用語が出て来る部分があるため、そこに関してはあまりよくわからなかったが、それにしても、大体の部分は理解することができたと思う。

文法の基礎知識が中学段階で止まっている私

 私が英文法に初めて触れたのは、地元の個人塾だった。先生が自宅で開き、一人で切り盛りしている塾である。その先生は私に、英文法とはどういうものか、文法に即して英文を読むということがどういうことなのか、そして、辞書をどう引けばいいのかということを教えてくれた。今になって思うが、そこで基本的な学習の仕方を教えてもらうことができたことは、私に取って本当に幸せなことだったと思う。

 そこで学んだ英文法は、今から振り返ると基礎の基礎だった。そして、高校以降今日に至るまで、基本的にその基礎の上に、ほとんどの英文を理解できてきた。そのことは、昨日書いたとおりである。

 しかし、だからこそというべきか、一方で私は基本的な文法事項に関する自分の中の知識をアップデートしたり、当初抱いた素朴な疑問を解決したりする努力を怠ってきてしまいもした。

 今回この本を読み、 中学からこのかた、持っていた疑問や違和感のいくつかが綺麗に氷解していくのを感じた。大変刺激的な読書体験だったといえる。

    ここではその一部を取り上げることにする。

I am in the room.という文に関して抱いた疑問

 中1で最初に英文法を習い始めたあたりの時期のことである。I am in the room.という文章にあたり、私はやや戸惑ったのを覚えている。戸惑った理由は、「これは第何文型なんだろう?」「in the roomは補語なのかな?」という二つの疑問を持ったからだ。

 先生は、前者の私の疑問に関しては「第1文型」後者の疑問に関しては「in the roomは、前置詞+冠詞+名詞からなる副詞句である」という答えを与えた。私は前者に関しては、「in the roomの部分は文型に分けるときは捨てられるんだな。随分ダイナミックに切るんだな。」となんとなく違和感を抱いた。後者に関しては、「前置詞+冠詞+名詞は形容詞句にもなると習ったから、補語と考えてもいいように思うのに、なぜそうならないのだろう」とさらなる疑問を思い浮かべた。

 この本をもとにすれば、先生の前者の答えは、5文型をもとにした説明の枠内では正解。だが、そもそも、このように分類せざるを得ないことに問題があるというのが筆者の主張。後者の答えも正解だが、上の説明では私が抱いた疑問が当然でてくるということになる。それでは、筆者は以上の違和感や疑問にどのように対応するのか。 

違和感と疑問がするすると解消

 筆者によれば、件の文におけるin the roomのような副詞句は、「動詞にとって義務的な副詞句」(以下、Aと表記)である。Aは、それが存在しないと文が成立しないような、文の成立にとって不可欠な副詞句である。

 本来的に、Aにあたる部分を欠如させた文が成立しないにもかかわらず、あたかもそれが主要素ではないように、件の文をSV=第1文型というAを無視した分類にせざるを得ないこと、そのことが、「5文型の最大の欠点」(9頁)だというのが筆者の問題提起である。学習の最初期に持った上記の違和感は、「5文型の最大の欠点」に関わるものだったんだ…。

 ということで、このような欠点を克服すべく、Aを文の成立にとって不可欠な要素と見て、SVA、SVCA、SVOAを加えた8文型の提案こそが、筆者の最大の主張である。これには思わず頷いてしまった。

 ところで、私の疑問の後者、すなわち「in the roomはCではないのか」という疑問に関しても、「論争が行われたことがあった」(25頁)とのこと。初学者が素直に持つ疑問も案外大事なんだなと思う。

 これに関して、筆者は、I am in the room.のような文はWhere is he?という疑問文の答えになるから、副詞句決定、と述べている(25頁)。確かにwhereは疑問副詞なので、そう言われてみるとすぐに判別できるな。そういう風に考えればいいのか。

 以上のように、中学時代以来有していた違和感と疑問がするすると解消していく快感を味わうことのできる読書体験だった。他にも、全く知らなかった文法事項が満載で、一気に読んでしまって、知的好奇心が満たされる満足感を味わった。

 しかし同時に、もう少し早くこの本を読んでいれば、得することも多かったのにな、ということを繰り返し思った。でもしょうがないな。今日まで英文法を改めて学び直そうとは一度も思わなかったのだ。6年間、一度も。やれやれ。これから少しずつ文法知識の幅を広げていきたいと思う。

疑問がするすると解消していく 中川右也『教室英文法の謎を探る』(開拓社、2010年)

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うわ、読めない…

 久々に英語を読もうとしたら、全く読めなくなっていた。「あーあ」と思った。

 こういうときいつもなら、英語の本とその翻訳とを並べ、何日か取り組むことで英語力を取り戻していくのだが、今回もそうしようとして、どうもそのやり方に倦んでしまった自分を見つけた。

 英語から遠ざかった時期が長かった(半年)せいか、英語と日本語を行き来することの不自由さばかりが不快感として残る。加えて、以前からよくわかっていなかった文法事項が気になり始め、その意識が足枷となる。そうして、英語を読むという行為にうまく集中することができなくなった。

 関心は日本文学の私であるが、外国語の勉強は比較的継続して行ってきた。決して高いレベルではないが、IELTSで言えば、一応overall7.0はぎりぎりある。

 英語の勉強を続けて来た理由は、文法への興味からである。生きた言語が、帰納的に導かれた文法という体系に乗っかっている様を観察したり、目の前にあるよくわからない文章が、いくつかの(言語総体の果てしなさと比べれば)はるかに単純な規則を守ることにより読解可能になるということが面白かった。

 英語が読めなくなった今、とりあえず初心に帰り、再び文法を勉強すればどうだろうか。そう思われた。しかし、教室英文法には飽きている。専門的な文法書は難しい。その橋渡しとなるような本として、手に取ったのが、中川右也『教室英文法の謎を探る』という本である。わかりやすく、面白くて、1時間ほどで読み終わってしまった。

教室英文法の謎を探る

教室英文法の謎を探る

 

 そもそも、私は基本的にアルバイトで英語を教えていたので、教室英文法はこの大学・大学院生活で5周ほどしている。その経験が、「教室英文法の謎」への強い関心となり、読書を強力に後押ししてくれた。

するすると謎が解けていく

 読んでいく中で目から鱗がいくつも落ちた。特に関心させられたものをあげておきたい。

時・条件を表す副詞節の中はなぜ現在形?

 最初に強く感心したのは、「6 時・条件を表す副詞節は、なぜ未来のことなのに現在形なの?」(19頁以降)というセクション。

 解説の中では、時・条件を表す副詞節が用いられた文"We will go out when Taro comes back."が取り上げられ、willが用いられる主節の方が従属節に比べ、相対的に遠い未来にあることが指摘される。その上で、以下のように「謎」が解き明かされていく。

whenを使った文の場合、主役である主節の動詞が、助動詞willを使うことによって、副詞節(when節)よりもあとの未来の出来事について述べていることが示されています。そのため、従属している副詞節までもが、未来の出来事を述べているのだと示す必要がなくなるのです。あえて副詞節に自己主張させると面倒なだけでなく、くどい表現になってしまうからです。*1

  ふーん、そうだったんだ。ネイティブが感覚的にやってることを論理的に説明してくれるのは本当に助かるな、と思う。くどい表現を避けるというネイティブの感性を参照することを通して、説明される文法事項はこれまでの自分の文法学習の中で幾度か出て来た気がする。今一度、意識し直そうと思った。

疑問詞+to不定詞ってもともとはどういう形なの?

 疑問詞+to不定詞に関しては、さっさといくつかの用法を暗記し、読んだり書いたりすることができるようになってしまったこともあり、場面場面で微妙によくわからないな、と思うことがあっても、何がわからないか言語化してこなかった。この本によれば、疑問詞+to不定詞は本来的には、〈疑問詞+S+be+to不定詞〉(つまり、間接疑問文ということですかね)らしい。それゆえに、

I don't know who to go

I don't know who to go with*2

 

の二つを考えると、上は言えず、下は言えるということになるとのことでした。これは本当にすっきり頭に入った。

強調構文(It is 強調要素 that 残り)におけるthatの先行詞って何?

 また、同様に、丸暗記して自分の中で終わりにしていた強調構文であるが、生徒に教える際、参考書などの解説でthatが関係代名詞と記されていたことは、ずっと気になっていた。

 にもかかわらず、調べずに済ませていたのは、明らかに、暗記する方が早いと思われていたからだ。強調構文はルールさえ知っていれば訳すのも、作るのも簡単であり、実際私はこれまで解釈においても作文においても強調構文で迷ったことはない。

 しかし、この本の解説を読んで、thatの先行詞は文頭のitであること*3を知り、圧倒的に理解が深まった。あぁ、そうなのね、itを先行詞にとるのね。普通はあまり見ないけれど、those whoとかもあるし、そうかもしれない、と読んでいました。

進んだ文法学習で、先の風景が見えるかもしれない

 文法学習が好きで、高校までの教室英文法はだいたい頭に入っている自信があった。実際それにより、受験英語における長文はもちろん、大学・大学院の学習において出会われる大抵の英文はほぼ全て読めた。

 少なくとも、研究論文などは規範的な英文法の枠内で描かれることが期待されている。そのため、その読解は、教室英文法で事足りる。これは経験上そうである。もちろん、TOEICに始まる各種試験の英文にも対応できた。

 しかし、一方、私は小説や気の利いたエッセイ、そして新聞の社説といったテクストとなると途端に読めなくなってしまうタイプでもあった。その理由は、見たことのないような書き方に出会った時、その内容を読み取るよりも先に、自分のなかの教室英文法の体系に沿っているかどうかを検証してしまうせいで、筋に対する集中力を持続させることが難しくなってしまうからだった。

 そのため、英語の試験で良い点を取ろうが、研究論文をいくつ読もうが、英語ができるようになっているという実感が全くなかった。その理由は、教室英文法に安住してしまっていたからかもしれない、と思う。依拠すべき体系を拡充する時が来たのである。教室英文法の範疇を超えたよりしなやかな文法知識を身につければ、今よりも先の風景が見えるかもしれない。

*1:中川右也『教室英文法の謎を解く』(開拓社、2010年、22頁)。

*2:同上、145頁。

*3:同上、170頁。