SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

悲しみとの共生:大江健三郎「資産としての悲しみ—再び状況へ(五)」

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 物語に倦んで、ふと手にとった『世界』(1984年7月号)に大江健三郎さんのエッセイを見つけた。「資産としての悲しみ−−−再び状況へ(五)」と題されたこのエッセイは、『生き方の定義−−−再び状況へ』という単行本に収録されることになった。

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 単行本版はこちら 

生き方の定義―再び状況へ

生き方の定義―再び状況へ

 

 84年7月といえば、『新しい人よ眼ざめよ』という短編集が、単行本化する直前である。79年に『同時代ゲーム』という作品を執筆したのち、80年代にかけての大江さんは、それまでの自由で過剰な想像力の飛翔にまかせた物語制作から遠ざかり、作家本人のそれと見紛いうるような語り手の私的日常的生活をその文学上の主題としていった。

 『「雨の木」を聴く女たち』(1982年)や前述の『新しい人よ眼ざめよ』(1984年)は、大江さんの小説作法や主題上の転換を如実に示す、それまでの大江作品とは全く異なる相貌を持った二作品である。

 

「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち (新潮文庫)

「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち (新潮文庫)

 

  

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

 

 私が大江さんの全キャリアのうち最も魅力的に感じるのは、ここにあげた二作品である。

     分析対象として、面白いのは70年代の作品群である。60年代に吹き荒れた政治運動の文学化を図った70年代の著作は、最新の文学理論を用いて自己の文学上の課題を書き切ろうとする気概に満ちており、どれも重厚長大で濃密な作品である。

    しかし、それ故の難解さもあり、それらを生き生きと面白く読むということは私にとっては難しい。居住まいを正し、がっつり取り組まないと、70年代の著作を読み切ることが私には出来ないのである。

    私自身が受け取る読書体験の質を考えれば、間違いなく80年代前半の上記二作品が至高である。

 これらの作品を読むと、深刻で重苦しい試行錯誤の時期を通過した大江さんが、改めて世界との関係をはじめから結び直そうとしているような感覚を抱く。長く潜った後に水面を突き破り、新しい空気を胸一杯吸い込むような、突き抜けた爽快感があるのである。

    そしてまた、自己の長い試行錯誤の行程を振り返り、そのことの意味を鋭く問い直す中で、ゆっくりと鎌首をもたげてくる透明な悲しみが、通奏低音として流れている。その悲しみは、静かに深められていき、一つの浄化の作用を持つことになっていく。

 さて、「悲しみ」である。このエッセイの題名を見た時、「最近あまり悲しみを感じてないかもしれない」と思われた。悲しみに限らず、日常生活において、私の感情が揺さぶられることはあまりない。それは、自分で求めてきた状態である。ほどほどに幸せで、ほどほどに退屈。思い描いた通りの生活を、大学院生活の最後の一ヶ月で送っている最中に「悲しみ」などと目の前に置かれると面食らってしまう。この言葉とどのように接するか一瞬わからなくなる。

 ここ何年も「悲しみ」「悲しい」という言葉を発していない気がする。最後に「悲しい」と言ったのはいつだろう。「悲しい」と言って、そのように柔らかい部分をさらけ出した自分が、深い共感をもって迎え入れられた経験があまりない。だから、私はそのうち悲しい時にも「悲しい」と言わなくなったのだろうか?それとも、そもそも別に悲しいことがないからだろうか?前者にしても後者にしても、そのこと自体が、少し悲しくないか?そのようなことを思わなくもない。

 大江さんはこのエッセイの中で、「時によって軽減され、解消され」てゆく悲しみと、「死の時までつきあわねばならぬはずの、堅固な悲しみ」があるとする。

[...]自分のうちにほぐされることなく残っている、大きい悲しみがあり、それはもう中年も終りという自分の年齢になれば、死の時までつきあわねばならぬはずの、堅固な悲しみだということでした。しかもそれにつづけて、それならばこれらの悲しみは、すでに自分の生の資産にほかならぬ、という思いがきました。資産としての大きな悲しみと、積極的に共生する勇気をだしていただきたいと、僕は手紙を結んだのです。

(『世界』1984年7月号、241頁)

 それでは、「資産としての悲しみ」とはどのように定義できるのか。

 資産としての悲しみ、の定義。過去の、償いがたい出来事−−−しかし忘れさることはできない・忘れさってはならぬのでもある出来事−−−にみなもとはあるのだが、自分の現在の人間としての資質に生きている悲しみ。それが自分としての人間の見方、世界の見方に、複眼性という様相をあたえている悲しみ。客観的に自分を見るならば、それが自分の人間としてのありように、広がりまたは奥行きをあたえて、そこに翳りがはらまれている、そのような資産としての悲しみ。

(同上、241-242頁)

 通常「弱さ」の側に位置付けられそうな悲しみが、ここでは、世界の見方に複眼性を与えるものとして肯定的に捉えているように読める。続く部分で大江さんは、資産としての悲しみと共にあることを、「文学の役割」と結びつけて行く。

不幸な出来事によってつきつけられる不条理な悲しみを、資産としての悲しみに把えなおしうること。そのような資産としての悲しみを、自己のうちに活性化させることは、人間らしい、むしろ人間独自の行為であると思います。そこを介して、活性化した資産としての悲しみは、時をへだてたのち一種の喜びともなりうるのでしょう。

 たとえそのように喜びと呼びうるにはいたらぬまでも、われわれはしばしばある悲しみの記憶を呼びおこしては、または魂の浄化としてもいうべき慰安をあじわうのではないでしょうか? そこに僕は文学の役割をあいむすぶところがあると、文学がなぜ書かれるかをあきらかにする、すくなくともひとつがあると考えるのです。

(同上、243-244頁)

 悲しみの記憶が、本当にただ単にネガティブなものであるとしたら、確かにわざわざ呼び起こしたりはしない。私もまた、夢に惹起されて、ということが多くはあるけれど、それを呼び起こすことがある。それを通して、自分の中の普段は隠されている人間性を再発見することができる気がして、そうするのかもしれない。

 先に述べたように、もう何年も「悲しい」という言葉を口にしていないし、それを感じることも日常生活ではほとんどない。ひたすら本ばかり読んでいる私の生活は、悲しみから遠ざかることと並行して、実は、文学からも遠ざかっているのではないか?それをちょくちょく読んでいるのにもかかわらず…。

 要は、私は文学をある意味では消費してしまっているのだと思う。研究の対象としてという形であれ、現実から目を背けるための快楽を供給してくれるものとしてであれ。自分勝手な読みばかりしてきたような気がする。

 読む姿勢を改めなければならない、と切に思う。自分にとって理解不能な部分を無視せず格闘する中で、自己変容の契機を得るということが消費しない文学との向き合い方だろう。もちろん、とても体力が必要だ。

 そのような読書を行う姿勢を身につけて行くことは、簡単に可能であるとは思えないのだが、とにかく、読んでいれば何かのきっかけで、よく読むことができたと思えるタイミングはある。また、読んだことについて書く中で、削ぎ落として理解していたことにやはり向き合わなければならないと気づく瞬間はある。だから読むことと、読んだことについて書くことは、やめないようにしようとは思う。ストレスが多すぎると、続かないし。とりあえず、それだけ。

 

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 大江健三郎については以下の記事も書いたのでよろしければあわせてご笑覧ください。

 

summery.hatenablog.com

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ラインは本当に疲れる/トーマス・マン『魔の山』

 ラインは本当に疲れる。私がコミュニケーションに期待をしすぎているのかもしれない。返信が来るとテンションが上がり、「すぐに見たい」と思うし、来ないなら来ないで「いつ来るのかな、これだけ遅いということは、何か変なことを書いてしまい、相手が怒っているのかもしれない」と思う。このように一喜一憂することで自分の時間を持つことは難しくなるのだが、それでもそうなってしまうのは、私の神経がすでに、ラインによって悪しき形に馴致されてしまっているということなのだろうか。そうなんだろうな。

 年度末、基本的に暇で、何の役職にもついていない私でも、色々な連絡をすることになっている現在。社会人は忙しいだろう。もちろん、大学も大学院も社会の一部だから、私も「社会」の「人」ではあるのだが・・・

 今日は朝起きてから昼ごろまで『魔の山』を読んだ。昼ごろ市役所に行って必要な書類をとってきた。午後は小学校の頃の塾の先生と連絡を取ったり、親戚からもらったお祝いに対する感謝状を書いたりした。夕方はお世話になった先生のシンポジウムへ。こう書き出してみると、意外と今日色々やったな。

 私は『魔の山』の上巻を四年前に読んだ。そしてそこで読むのをやめていたのだった。理由は一言で言えば、難しくて議論が追えず、集中力が持たなくなったからだ。今読み直しながら、確かに簡単ではないけれど、しかし一方、そう難しくもないような気がするのだが、要するに当時の自分に根気が足りなかったのだろう。

 『魔の山』を再び読み始めたきっかけは、一昨日部屋の整理をしていたとき、タンスの裏に落ちて壁との間に挟まったままのそれを発見したことだ。開いた状態で挟まっていた。壁とタンスとの間で押し広げられたページを何気なく読み、少し気になったのだった。

 

少年は祖父の細い白髪頭を見上げた。それは、祖父がいま話している遠い昔の洗礼のときのように、洗礼盤の上にかがみこんでいた。すると少年は、それまでにも経験したことのあるひとつの感情に襲われるのであった。それは進んでいると同時に止っているような、変転しながら停止していて、目まいを起すようで単調な繰返しをしているような、半分夢のようで、そのくせひとを不安にさせる一種異様な感情だった。これはいままでにも、洗礼盤を見せてもらうたびごとに経験した気持で、実は少年がふたたびそれに見舞われたいと待ち望んでいる気持であった。止りながらも、しかも動いているこの先祖伝来の器を、少年がこんなにたびたび見せてもらいたがったのは、いくぶんかはそういう気持からのことだった。(53頁)

 引用は以下の版より

 

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

 

  三年前に読んだ時、この話は時間に関する話だなと思ったのを覚えている。この感想は0点である。トーマス・マン自体が「どう読んでも時間の話です」というメッセージを作品の冒頭部をはじめとして随所で送ってきている。

 それで、当時の私はその時間という主題を、単に山の療養所でひたすらに無為に時間を過ごすハンス・カストルプ少年の、日毎に変容していく時間感覚の描写に主に読み取っていた。

 しかし、上のような部分を読むと、ハンスの特異な時間感覚は血筋の連続性の自覚とも関わっていることがわかる。それは、単純に血筋が連続しているという感覚ではないだろう。なぜなら、上で書かれているのは、進んでいるにもかかわらず、停止しているという感覚だからである。

 この感覚をどうとらえればよいのだろう。例えば、このようなハンスの感覚は、血筋の連続性の自覚がもたらすような、自己の存在が大きな連続に連なるという充足感が、20世紀初頭においても未だに可能だということを示しているか、それとも、それがもはや不可能であることを示しているのか。

 ということが気になり、なんとなく読み直すに至っている。

 

俺は、このまま本に埋もれ続けるのか?

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 このブログをある程度義務的な形で、更新し始めたのは最近になってからだ。就職するのなら、大学の授業で供給されてきたような書く機会はなくなるだろう。それは僕にとっては寂しいことだった。書けない書けないと思いながら書こうと試みることの中で気づくこと、はまって行く精神状態があるということをこの6年間に知ったから。それは自己認識の深化と言っても良いかもしれない。

 もう一つは、このように書く機会を担保しなければ、職場が要請する書き方以外が難しくなるかもしれないという思いだった。それは、自己の一部の固定化を意味する。ある書き方をとろうと努力することは、自分の中の何かをその書き方に向けて方向付けるということだからだ。そこから抜け出すようなモメントを有していなければいけないのではないか、そう思われた。

 ところで、このブログ自体は、2012年から折に触れて更新していた。今ではほとんどその内容を覚えていない。今朝、2014年のいくつかの記事を見て、気づいたことがある。

 

summery.hatenablog.com

  上の記事で、僕はこう書いている。

駅で久々に会った友達は、君はどうしたんだと声をかけたくなるほど、やつれているような顔つきをしていた。僕はその表情から受ける感覚を少し考えた末に、やつれているというより老いてるんだ、彼の中に老いの兆候を見たのだと思い当たった。疲れてそうだった。

 打ち込んでいたサークル活動は殆ど終えてしまい、今は大学の近くで主に本を読みながら生活をしているという、彼は古い図書館のホコリっぽい雰囲気を身体から発散させているようだった、僕の嫌いなあの泥のような眠気をいつまでも喚起する成分なのではないかと、そういま僕がにらんでいるところのものだ。眼鏡も随分厚くなったし、頬は垂れ下がってきている。

 

 覚えている。僕はその頃特定を避けようと現実との対応をあえてずらした書き方をしていた。実際には、彼に、市の図書館で遭遇したのである。しかし、彼が老いているように見えたのは、無論真実として書いたのだった。イタリア文学を専攻している彼の漠然とした疲労の感覚、「俺は、このまま本に埋もれ続けるのか」という小さな吶喊まじりの声が聞こえてきそうだ。

 ところで、今思い返すに、これはもしかしたら、彼が僕自身に感じた印象だったのかもしれないと思われてくるのである。今となってはその時のことを正確に思い出せるわけではないから、余計そのように感じられてくる。

 確かに老いていた、彼から老いの印象を感じた。しかし事実は全く逆だったのではないか?彼は実はそこまで老いてはいず、やつれてもいず、別にそこまで埃っぽい雰囲気を体から発散させていたわけでもない。2014年のブログは、僕による彼の認識を書いただけなのではなかったか。

 そう考えるのには、理由がある。おそらく、彼を見て僕が受け取り、書き下すにいたった印象を、僕は自分自身に対し、自己認識として持っていたからだ。

 当時、僕は倦んでいた。卒論のテーマが全く決まらなかったからだ。探求すべき事柄自体を自分で設定しなければならないこと、そしてそのために、とっくの昔に乗り越えられた学説や、発表当初からほとんど誰も見向きもしなかったような専門書の類を漁らなければならなかった。いや、そんなのは実は読む必要もないのだが、どこから手をつけてよいのかわからない僕は、それらを読み、あとで無駄だったと気づく体験を重ねなければならなかったのである。それは徒労そのものだった。

 僕は僕の友人に関して書きながら、実のところ自分自身のことを書いていたのではないか?「俺は、このまま本に埋もれ続けるのか?」という、僕が哀れんだあの彼の心の声は、自分自身の声だったのではないか?自分自身の生活と、本を読むことが結びつかない時期が、僕に到来していたのだろうと思う。

 当時もわかっていたかもしれない。しかし、今あえて当時の自分に言葉をかけるなら、「本を読むのはそんなに簡単ではない」となるだろうか。「継続的に読むには」と言った方がよいかもしれない。読書から自己の生活に結びつくものを発見し、生活の中で読書の原動力を見つけて行くこと。そのようなサイクルを作り上げて行くのは容易ではない。それは、知的好奇心を満たす、というような読書とは全く別である。知的好奇心には終わりがある。今は幸い、その衰えを感じない。しかし、それにはいつか終わりが来る。その先も、人生はずっと続く。

 

大学を離れるなんて、嘘だろう?という気分

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 今日は、祖父母に私の大学院の修了と就職を祝ってもらいました。その中で、「長く大学にいたけど、ついに卒業だねえ」という言葉をかけられ、確かに、私は長く大学にいた、としみじみ思ったものでした。

 それにしても、六年も大学にいたとは本当に信じられません。小学校一年生の時の、六年生なんて果てしなく遠くにいる存在でした。学童に入っていた私は一年生から学童で、三年生たちと日々を過ごしていたのですが、その三年生すら、一年生の私にはとても大きく、とても強く、自分がいつかあのようになるとは信じられないように感じていたのを覚えています。

 それに比べれば、大学一年生は随分近く感じる。私が大学にいられるのもあと一週間を切りましたが、大学一年生の時、夜遅くまでドイツ語の不規則動詞を覚えて眠りについた夜と今日の朝が無媒介に接続している気がする。三年ほど口にしていない「同クラ」や「ワンチャン」、「ブッチ」、「大鬼」などの単語も、ネイティブスピーカー(=一年生)並みに発することができるような…。二年生の時に友人に又貸しした図書館の本が生協のゴミ箱の中から発見されて、図書館の無期限使用停止になる寸前までいった時に感得した「私の大学生活終わったな」感も妙にリアルです。

 ▽

——このような近さの感覚は、要するに、私が大学入学直後から、結局のところ全く変わっていないということを示しているのではないか?

 

 大きな懐かしさにまどろむ中で、ふとそう思って感傷的になる明け方が、最近実際にあるのです。

 日が昇る直前の青黒い光に包まれた、そんな時は大抵、今年十四歳になる雌猫を彼女のねぐらから強引に引っ張ってきて抱きかかえていて、その猫は、思いがけず早くに起こされた衝撃で、目を大きく見開いてこちらをみています。その「にゃあ」という顔をつぶさに観察する過程で、段階的に現実へと着陸していく…。

 この六年間で、私はどう変わったのか?

 一言で言えそうで、また、言った瞬間に嘘をついた気分になるようなこのことに関して、これから少しずつ突き詰めていきたいと思います。

学びとは何かについて改めて考えてみる

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 日々努力を継続し、自己研鑽に努めている人の中に、驚くほど狭量な価値観しか有していない人がいる。なぜだろう。なぜこうなってしまうのだろう。多くのことを学んだ結果がこれなら、学ぶことにいかほどの意味があるのだろう、と絶望的な思いにかられる経験を幾度もしてきた。今回は、学びとは何かということについて考えたことを書いてみたいと思う。

学びの2種

 それについて考えて行くことの中で、学びには二つの類型があると考えればよいのではないかと思うに至った。一つ目は、異質なもの・理解の難しいものに目を向けることを通して、自己の価値観を批判的に省み、自己変容を志向する学び。二つ目は、ある目的を設定し、そこに向かって努力し、自己研鑽を積むという意味での学び。前者を自己変容型の学び=変容型、後者を自己研鑽型の学び=研鑽型としよう。

 大学に入るまでの私にとって、「学び」とは第一義的には研鑽型であった。変容型の学びは、研鑽型の学びの上にあるものだったのである。研鑽型の学びの末に、自己変容がある。つまり、「学び」という言葉に研鑽型も変容型も含まれていた。

 このような考え方は、それほど間違ったものではない。二つはそれほど簡単に切り分けられるものではないし、研鑽型の学びの末に自己変容型の学びに至ることはままある。しかしながら、研鑽型の学びの上に必然的に自己変容型があると考えることは、間違いであると思われる。というのも、研鑽型の学びの特徴は、すでに設定された目的に向かうことであるからだ。

研鑽型の学びの特徴

 研鑽型の学びからは、目的そのものへの疑いは生まれてこない。したがって、目的の裏にある前提、そしてその前提の背景にある価値観は疑われることがないのである。研鑽型の学びは必然的に、ある決まったルールの中で、何かを人よりうまく行うことに収斂する。例えば、ある分野の知識を蓄え技術を磨いたり、特定の処理を人より早く、正確に行うこと、つまり、専門知はここに入る。さらにまた、ある体系の中で、人との競争に打ち勝つこと、つまり、利益の創出、ビジネス上の成功もここに入る。

研鑽型の学びでは、努力の前提となる価値観や、努力の目的自体が問われにくい

 専門知と、ビジネス上の成功を同列に扱ってよいのか、という疑問は当然あるだろう。確かに、研鑽型の学びの中に、さらに下位カテゴリーを設けるべきである。しかしここでいいたいのは、専門知も、ビジネス上の成功も、「人よりも早く・正確に」もしくは「人よりも多くの利益を」というように、何かの枠組みを設定し、その中で、競争を行なっていく際に必要とされる学びであるということだ。そこでは、すでにある枠組みへの疑いは重要とされない。「なぜ人よりも早いことが良いのか」、「なぜ正確さが必要とされるのか」、「なぜ利益が高いと良いのか」という疑問は真面目に検討されないのである。

 もちろん、こういった疑問が研鑽型の学びの枠内で決して生まれてこないわけではない。むしろ、目的に向かう途上において、その目的が本当に目的なのかという疑問を抱くことはとても自然なことである。

 しかし、研鑽型の学びにおいては、そのような素直な疑問を突き詰めて考えるということは起きにくい。研鑽型の学びが競争の枠組みの中に入って行われる以上、競争の目的を疑うことは、時間の無駄だからだ。

 よく、幼い頃不遇な境遇にいた人が、自己の努力だけを頼りに、大きな企業の経営者へと上り詰める物語がある。私にはとてもできないようなことを軽々と行い、リスクを取り、自己実現を果たしていく彼らの話に、素直に敬意を払う。とても私にはできない。システムの中で避難できる場所、自分を守ってくれる場所を見つけようとする私とは違い、システムの中で揉まれる中で、イニシアチブを獲得しようと奮闘する彼らの姿には、私にはない力強さを感じる。

 一方で、冒頭で述べたようにそうして上り詰めた彼らの視野の狭さ、価値観の狭量さに驚くこともある。一つの目的を求め、そのために他人との競争を繰り返すと、生きる上での習慣として、無意識にその目的をもとに人を測るようになったり、自分に見えていないもの、自分と異なるものに関して想像力をおよぼすことが難しくなるのだろう。そして、自分が自明視している価値を疑わなくなる。正確に言えば、疑う時間もなければ、疑うことに意味を見出せなくなる。

変容型の学びの特徴

 変容型の学びは、一方で、すでに存在する価値観自体を疑い、自己の視野を広げて行く学びである。そこでは、出発地点と全く異なる地点に導かれて行くことがしばしばだ。

 誤解のないように言えば、変容型の学びにおいても、もちろん、目的を設定している。しかし、往々にして、その目的はあまりに漠然としている。例えば、上で述べたように、それは、「視野を広げる」「多様な価値観を学ぶ」などといったことである。いうまでもなく「どの視野をどう広げるの?」「それで何が得られるの?」「どんな価値観を学ぶの?」と言われても答えようがない。

 「視野を広げる」といった言辞は確固とした目的たり得ないと思う。それは方向性である。言い換えれば、「それが何かはわからないけれども、何かが得られそうです」ということの表明である。だから、「何が?」と聞かれると、答えられない。学んだ後ですら、「何を学んだの?」と言われると、「何か」としか言えないこともある。

そもそも明確な目標が設定されない変容型の学び

 明確な目的を設定する、研鑽型の学びに慣れた人々にとっては、もどかしく聞こえるだろう。おそらく、変容型の学びをする人々自身にとっても、これはもどかしいはずだ。それが何かはわからないけれども、「何か重要な物がある気がする」という予感により、学びを始める。そして、「何か重要な物を学んだ気がする」といって学びを終える。そもそも、目的を設定していない以上、そこが終わりなのかわからないし、そこで一旦終わりとして区切りをつけてよいのかもわからない(変容型の学びには終わりがない。本来「青春の墓標」は立てられない)。しかし、自分の責任において、一旦区切りをつけるのである。

 これは、研鑽型の学びに慣れた人々にとって、怠慢に聞こえるかもしれない。私は、この指摘は正しくないと思う。自己変容型の学びは、何を学んだか、言葉にするのが難しいからだ。だから、本人がその努力を行なっていると見受けられる限りにおいては、それを怠慢ということはできない。変容型の学びを真摯に行なった上で、必死に言葉を紡ごうとして、うまくいかない人々の言い澱みを、私は歓迎する。一方で、真摯な学びを全く行わず、怠慢に日々を過ごした上で、「私がしている勉強は、何を学んだとかそういうことを言うのは難しいのだよね」と言辞を弄する人々は、確かに問題外だ。

 しかし、いうまでもなく、だから自己変容型の学び自体に意味がないということにはならない。

対話を可能にするには

 自己変容型の学びの眼目は、あらかじめ設定された価値基準の中で優位をとることではなく、多くの価値基準があることを知り、それぞれに多様な人間のありようを知ることで、自分にとって異質に見える人々を理解し、彼らと対話し、究極的には共生を行う力を身につけて行くことである。他者を同じ人間として思いやり、助け合うこと。簡単に言えばそうなるが、これがいかに難しいか、ということはニュースを少しでも読めば明らかである。

 とりわけ、昨今、世の中で問題になっていることの大半は、自己の所属する体系の中に内閉することにより、異なる立場の人に想像力を及ぼすことができなくなること。そして、その結果として、自己利益の追求に邁進することにあると思われる。

 自分で書いていて、なんだか70年代くらいの雑誌『世界』の記事の劣化版を再生産しているような気分になる。題名をつけるとしたら「今こそ学びの再定義を」とでもなろうか。書いていてニヤニヤしてくる。すごくありそう。

 しかし、偽らざる感想として、そう思うのである。おそらく、領域横断的な学びが提唱され、広まってきた背景にはそのようなことがあるのだろう。その精神に薫陶を受けた学生たちが、すでに社会の枢要な部分に食い込んでいるはずだ。それでは現実はどうか?うーん。暗澹たる。

 

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大学院の修了、そして、「生まれてくる生命を支える社会を創る」方へ

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大学院を修了しました

 修了しました。とにかく多くの人に会い、多くの話をしたここ二日間。くたくたでした。二週間ほどあまり人と話をしていなかったのもあり、相手の話を聞いて、それを受け、答えることを思い出すことから始まり、表情を読んで微妙に言葉のニュアンスを変えることなど、何から何まで大変でした。表情を読むことに日常的に難しさを感じてきたということでは必ずしもないのですが、その技術を一時間ほどで一気に取り戻して行く過程に負荷がかかり、大変なことをいつも私はやっていたのだなと実感させられました。

 とはいえ、同じ修了者や後輩、そして先生方とのお話が中心。当然のことながら、話が通じる人との話ばかりで、これでも随分とやりやすい方のはずなのです。働き始めたら、もっともっとコミュニケーションに負荷はかかるだろうな。環境の激変に弱いのですが、弱いなりに耐えていくと多くを学べるのも事実。とりあえず、就労開始までに英気を養おうと思います。

 ところで、これで大学院とは正式にさよならなので、今後について、若干の決意めいたことを書いておきたいと思います。まだ不完全ではありますが、一応。

 

「生まれてくる生命を支える社会を創る」

 

 最近、東日本大震災直後の『世界』『文藝春秋』『中央公論』を読み直していました。その中で、『世界』の2011年5月号、つまり東日本大震災を内容に盛り込んだ初号を読み返し「生まれてくる生命を支える社会を創る」という記事をみつけました。

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 この記事を見つけた私は、その題名だけで安堵してしまいました。人より優位に立つことや、自己利益を追求することではなく、人とともに支えあい助け合い生きていくことを求める人々がまだまだいると思うと、私も頑張ろうという気分になります。 

 社会を変えようとか、そのような大それたことを思っているわけではありません。「コモリン岬」における見田宗介の言葉を用いながら言えば、私は私自身の聖域を守ろうとしているのです。本来的に混沌として、不条理な世界の中で、なんらかの文化的構築物を仮構しなければ、人間は社会的な存在として生きていくことはできません。助け合い共に生きる共同体のあり方、もしかしたら今、危機にあるかもしれないあり方は、私が人間としてあるために最も基本的なあり方であると思います。つまり、「聖域」です。

 自分勝手でわがままな私は、普段はこの聖域を守る方ではなく、この聖域に守られ、またそのことを知っているにもかかわらず、それを維持しようと努力することはせずに、べったりと甘え、よりかかっている方である。だからこそというべきか、甘えてもたれかかっているこの聖域が、揺らぎ始めているのではないかということを敏感に感じずにはいられません。そして、何かしなければならない、と思います。自分にできることは、読み、そして、書くことと、話を聞き、そして応答することだと思います。

 四月から働く際の初心として、とりあえずそのようなことを書いておきます

購入すると読む気がなくなるの、本当に罪深いと思う

 誰にでもあるだろう、衝動買いの経験。今日私も久々にやってしまった。
 ことの発端は、新宿のブックファーストで見かけたソローキンの『青い脂』という本。

青い脂 (河出文庫)

青い脂 (河出文庫)

 

  以前所属していた小さな読書会の課題本として指定されていたが、その読書会には行かなかったため、読んではいなかった。今日ふと見かけたため、裏表紙の紹介文などを見ると、面白そうだ。とにかくはちゃめちゃで、エログロであるらしい。また、ロシアポスト・モダニズム文学の最高峰だというキャッチコピーに興味を惹かれる。表紙もかっこいい。

 とはいえ、別に大学の図書館で借りられるのだから、わざわざ買うには及ばないだろう。だいたい、私は本当に読みたい本がころころ変わるため、買ってもすぐに関心をなくしてしまうだろう。

 そのように考え、ブックファーストを出た私は、周辺を散歩していた。散歩しながら、『青い脂』が頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。詳しく確認してみると、大学の図書館では、なんと予約が二件も入っている。そして、アマゾン中古の値段も安くない。これは買ってもいいのではないか。いや、さっき考えたように、買っても、家に帰った途端に気が変わって、買ったばかりの本を積ん読化するということを私はよくやるじゃないか。

 などと考えながら、フラフラ東口のあたりを歩いていると、紀伊国屋書店に行き着く。そこで、これはもう、買うしかないのではないかと思い、買った。大学の書店やアマゾン新品なら、1割引なのに、普通に定価で買ったのである。書店に寄付するようなものだ。私は書店に存続してほしい。差額が1割なら、それくらい寄付してもいいだろう、と自分を説きふせた。どうせ寄付するなら、もっと小さな街の本屋にするべきだったが、『青い脂』が小さい本屋にあるかは微妙であると思う。

 家に帰り、『青い脂』を取り出した瞬間、今日の午前中まで読んでいた『細雪』のような、日本文学がもしかしたら今、とても読みたいのではないか、という気持ちが高まる。そんな時に限って、積ん読していたもののうち、ちょうど良いものが視界の片隅に入っていたりする。具体的には、高橋和巳邪宗門』が、私の方にちらりちらりと眼差しを送ってくるようである。それを試みに手にとって、1ページほど読む間に、『青い脂』への関心が自分の中で露骨に減退していくのがわかる。

 「いつ、君ともう一度出会うことになるだろうね?」エヴァのカオルくんに脳内で同一化しながらそれっぽいセリフを心の中でつぶやきつつ、せめて視界に入りやすい位置なら違うだろうと思い、『青い脂』を本棚の見えやすい部分に置くことにする。『邪宗門』を買ったのが1年ほど前だから、この本も、少なくとも1年ほどあそこにあるのだろうか。どうなのだろう。