SUMMERY

目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

人生を見渡す眼の獲得:「秒速5センチメートル」 あるいはみんなが観る映画を観るということに関して

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 大学二年生の時、友人の住む県人寮で、「秒速5センチメートル」というアニメ映画を観た。僕はそれまでこのアニメ映画の存在すら知らなかった。観てからインターネットで調べ、それが非常に有名な映画であることを知ったのである。それを知った時にまず持った感想は、「一体どのような情報網から、人々はこの映画の存在を知るのだろう」ということだった。映画もアニメも観なかった当時の僕は、その方面での情報をいかにして手に入れるのか、全く想像がつかなかったのだ。

 四、五年後、曲がりなりにも研究に片足を突っ込む身分となって、何が有名かということは所属する共同体によって大きく変わるということを実感する。映画・アニメの知識がエコノミーとなるような共同体の外部に、当時の僕はいたのである。

▽アニメ映画の「超有名作品」を追い始める

 この映画に触れたことをきっかけに、本当に有名どころのアニメはつまみ食いでよいから観ておこうと思うようになり、「デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム!」、「千年女優」、「新世紀ヱヴァンゲリヲン」、「Serial experiments lain(シリアルエクスペリメンツ・レイン)」、「攻殻機動隊イノセンス」などを追った。リアルタイムでは「魔法少女まどか・マギカ」や「サイコパス」を観た。

 このようにして並べるとすぐにわかるように、それは本当に「つまみ食い」以上のなにものでもないのである。友人が言及しているのを聞きなんとなく観て、「面白かった」という感想を持って終わり、という鑑賞経験が大半だ。いくつかについてはまともに考えようとしたのだが、大抵は消費者の立場に甘んじていて、それ以上ではない。その意味で、僕は今世紀を生きるスノッブな日本の文系大学生を地でいっているのである(とはいえ、上にあげた超有名作品ですら、全て観たことのある人は案外少ないのではないだろうか、という矜持もまたあるのだが…)。

秒速5センチメートルについて抱いた違和感

 話を戻す。アニメ映画のいくつかを「教養」として観ておこうと思うきっかけとなったのが、僕にとっては「秒速5センチメートル」だった。最初に観た時は正直、あまりピンと来なかった。「いいだろ」といって同意を求める友人の押し付けがましい態度も嫌だった。

 しかし、観てから一日二日経つうちに、なんとなくその映画が気になっている自分を発見したのである。特に、物語の中心となる恋仲の男女が過ごした日々が一気通貫に振り返られるラストが。

 そしてまた一方で、それに惹きつけられてしまう自分に違和感を感じもした。情感として自分は惹きつけられている。しかし、理性はそれを無批判に肯定することをためらっている、そのような感覚であった。

 その感覚を手のひらで転がしながら、複数のレビューを見ていくうち、「秒速」が気になっている自分や、それが僕と同年代の男子学生たちに受けているという状況自体が気になるに至ったのだった。僕(たち)がそれに惹きつけられているということ、そのことを言語化することに興味が湧いてきたのである。

▽「評」を試みた手紙

 そうして、当時、僕はそれを見せてくれた彼に対し、架空の手紙を書いたのだ。一部抜粋してみる。

 

秒速5センチメートル」に君はいたく惹かれているようだったね。僕も確かにあれは良いと思ったけれども、それは君と一緒にあの寮の狭くて散らかった部屋で見たというその思い出の中に組み込んで今、懐かしく思い出すことが出来ているのだ。この点は君に非常に感謝している。僕は確かに、君の寮に一夜遊びにいったこと、そのことを大切に思っているからそのことはしっかりと今言っておく必要がある。

 その上で言うけれども、君はどうして「秒速」に惹かれるのだろうね。というより、僕も含め僕の同世代からあのアニメが支持を受けるのはどうしてだろうね。そのことを僕は君と話合いたいのだ。

 

 

 ということで、ここですでに恥ずかしいのだが(笑)、その気持ちを一旦括弧でくくり、冷静に読み直してみると、行間から切実さが滲み出しているのがわかる。書かなければならない、と思いながら、当時の僕は書いていたのだろう。

 ▽大きな時間を見渡す眼の獲得

君が確かその夜に言っていたように、恋愛のまっすぐさの魅力はその通りだ。けれども、恋愛を描いたアニメなど星の数ほどあるのだからそれが特別に、このアニメに僕たちが惹きつけられることの理由にはならない。

 まず、あの映画の仕掛けとして僕が気づいたことをあげたい。

 第一に、登場人物の男も女も無個性化されていることだ。彼らは過度に美しかったり、魅力的であるわけではない。

 第二に、扱われているエピソードに関しても、同様に特別な事柄はないということだ。手紙のやりとり、転校、転校したあと会いにいくという展開、電車の遅延。真新しさを感じさせたり、意表をつくような展開はない。ただそれらが、景色の中で象徴的に美しく点景化されている。

 以上のように凡庸な二人の凡庸なエピソードを積み上げることで、二つの効果が生じると思われる。一つ目に、それらが無個性的・日常的であるからこそ、それが観客にとって自分たちの過去にありえたこととして意識されるということだ。言ってみればあのアニメの非個性的な性格は公約数をとってきたが故のものである。

 しかしながら一方、その公約数の提示の仕方については工夫が凝らされている。この映画においては、そのように自分にありえたかもしれない出来事の集積を、中学、高校、そして社会人になってからという一つの大きな時間の流れのなかで観察する視点が与えられる。たった2時間程度の中で、それらが一気に見渡されるのである。

 それを通して、攫もうとして攫めなかったことや、有り得た未来とそうならなかった現在がそれぞれに想起され、喪失が際立ってくる。凡庸な生の積み重ねを見渡すことのできる視線は、二度と取り戻すことのできない過去に対して、自分があまりにも無力であるということを知らせてくる。

 繰り返すが、重要なのは、長い時間的スパンにおいて起こることが、2時間で凝縮されて提示されるという映画の仕掛けを通して、観客に提示される、大きなものと小さなものとの対比なのだ。そこに、透明な寂しさが胚胎する。

 それでは、それはどのような寂しさなのか。ここからは推測の域を出ないのだが、その寂しさの内実とはつまり、大きな時間の流れから見た時、僕たちはとてもちっぽけだということだ。

 おそらく、この部分が「秒速」の最後の場面を振り返って述べているところだ。無個性化した二人のキャラクタの、何の変哲もないエピソードの集積が、それゆえにこそまさに自分にもあり得た、そしてもう二度と取り戻せない過去として、去来するような感覚にとらわれること。そのことの理由を、当時の僕は説明しようとしていたのだろう。当時読んでいた柄谷のターム「視差」がここで間接的に意識されている。

▽小ささの自覚からくるカタルシス

 舌足らずな数年前の僕の説明を今、補足するのだとしたら、自己存在の無力、小ささを実感することにより一種のカタルシスを喚起する装置として僕は「秒速」を捉えようとしたのだ。

 したがって僕が最初に「秒速」を見た時に感じた違和感、つまり「無批判に肯定はできないな」という気持ちは正当だったと言える。そのようなカタルシスにいつまでも安住することが、僕たちのやることではないと、今はそう考えているし、それを言語化することができなかった当時の僕もそう考えていたと思われるからだ。

▽みんなが観るものを観る

 「秒速」に関し、自分なりに感じたことを表そうとした経験は、その後、同世代の学生と話す時に役にたった。この映画を観たことのある学生は周りに比較的多く、個々人がそれをどう観たかということを聞く中で、僕はその人物がどういう人物か、自分とどのような点で異なりそうか、ということをプロファイルできたからである。

 誰もが観る作品を一応観ておくというのはそれについてきちんと考えるという前提の上で、意味があるのかもしれない。そう思い、僕はそれ以降有名なアニメ映画を追い始めたのだった。先に述べたように、怠惰な僕は、結局、一方的に消費してばかりではあるのだが…。

16歳の雌猫

 このブログで、死んでしまった猫ではない方の猫を「14歳の雌猫」と何度か書いたのだが、それは村上春樹に影響されてなんとなく自分の頭を占めるようになった概念(たしか村上春樹が「14歳の雌猫」について語っていたのを、どこかで読んだ覚えがある)で、本当のところ、彼女は16歳であるようだ。この間死んだ猫の方は17歳だった。彼は16歳で、すでに歯がぼろぼろになりはじめていたが、今の雌猫の方は全くもって元気であり、また頑丈だ。

 この雌猫は、もとはといえば多摩川の土手に捨てられていたという。それを誰かが拾ったらしいのだが、拾った人も飼う気まではなかったため、自治会に預けた。そうして当時自治会館で硬筆を習っていた私が、ある日この猫に出会うにいたったのである。

 彼女が何日間多摩川の土手に放置されていたのかは知らない。ダンボールに入れられていたらしいが、彼女以外の猫は皆死んでしまっていた。つまり、もともとそのように厳しい環境のもと生き残ってきた、特別頑丈な猫なのである。

 一般に野良猫は強い。小学生時代のピアノの先生は、野良猫を数匹家に抱え込んでいたが、それらの猫のほとんどが、当たり前のように20歳を超えていた。その家は一部がゴミ屋敷と化しており、多分餌も定期的には与えられず、あまり良い環境ではなかった(よくそんなところで私はピアノを習っていたなあ)と思うのだが、それでもそれだけ猫たちは生きるのである。

 今こうして書きながら、私はその雌猫をなでているのだが、彼女の虫のいどころが悪いときに触ると、未だにミミズ腫れ寸前までガブガブと噛まれる(もちろんこれでも彼女としては十分に手加減している)。

 痛くないわけではないのだが、前の猫が晩年歯を悪くしていたから、力強く噛まれるだけでなぜか安心してしまう。実際、ガブガブと噛まなくなったら、お別れが近いということだと思う。

 

 

うちらめっちゃ面白くない?

 自分のやってきたことが、本当に意味があったのか。その問いは、鋭く、大部分切ない。「意味はなかったのではないか」−−−そのような答えを含意するからだ。

 その問いを発するものは、「意味がない」という答えを想定している。その怖さと戦い、時にはとても軽い言い方で、時には意味なんてどうでもいいんだ、というやさぐれた形で問いかけてくる。

 5年前の僕にとっては、発問者のその態度が嫌だった。卑屈で、保身に走る。にやにやしながら、「このサークル面白いでしょ?」と問いかけてくる、二留してしまった先輩。「面白くない」とは決して言えない状況を作っていることを自分でわかりながら、素知らぬ顔で問いかけてくる彼の、しかもそういう時は大抵酔っ払ってにやけながら。その顔をみながら、僕はその弱さを、叩くことしか能がなかったのだ。5年前は。

 今は、もっと余裕がある。それを叩き潰すよりは、むしろ彼らが、それを言わざるを得ないくらい、なんらかの悩みを重ねながら、しかし勇気を振り絞って、年下の僕に彼らの裁定を委ねてくる。そのことが気になる。

 僕が「いや、つまらないですね」「こんなの意味あるんですか」と言いうる可能性を、自分たちで誘発する、その態度に、若干なりとも、敬意を覚えるのである。僕が「つまらないですね」という必要はない。

 つまらなそうに「面白いですね」と答えればいいのだ。そちらの方が残酷だし、それで十分何もかも伝わる。けれど重要なのは、「俺たちは面白いのか」という問いをそもそも発することができるところまで、十分に批判的なことではないか。そこから先、「つまらない」と言われることに耐えられる必要はない。貧弱な人と、筋骨隆々な人がいて、別にどちらもいいだろうと思われるように、心に関しても強い人と弱い人がいる。それらは正直、大して変わらないのだ。

 僕は多くの人を許せるようにならなくてはならない。もちろん、それには体力が必要だから、ある程度体力がある限りにおいて、ということなのだが。くたくたな時は、人に構っている余裕はない。

 どれだけ余裕があるかということは本当に大事だ。

「懐かしい」とは何か? 大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』

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 毎日なかなか疲れる。そもそもこれまでずっと座りっぱなしの生活を送って来たのだが、今は毎日、二時間は立っている。もちろん電車で。それなりに空いている電車に長時間乗るのが私の通勤スタイルで、生活のあり方としては、どちらかといえば健康的になったのかな、と思わなくはない。しかし、立ちながらの読書は難しいから、それが問題である。

▽『M/Tと森のフシギの物語』

 最近は、通勤の合間に大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』(1986年)を読んでいた。

M/Tと森のフシギの物語 (岩波文庫)

M/Tと森のフシギの物語 (岩波文庫)

 

  この作品は、79年に大江が書いた、『同時代ゲーム』という作品の書き直しとしての性格を持っている。そのことは、あとがきで大江自身が述べている。

同時代ゲーム (新潮文庫)

同時代ゲーム (新潮文庫)

 

  『同時代ゲーム』は大江にとって大変な力作でありながら、世間からの評価としては、概ね不評であったといって良い。ただし、長く誠実に大江を読み続けてきた批評家の多くは、この作品を(手放しにではないが)高く評価している。

 最近では、筒井康隆が、この作品について語っていた。

book.asahi.com

 『M/Tと森のフシギの物語』は、『同時代ゲーム』と内容的にはある程度被っている。どちらも、語り手に内在的な視点から、語り手の幼年時代に住んでいた森の神話につき、語り手が、年長者から語られたことを改めて語り直していくことを中心とした作品である。

 しかしながら、語り手と語られる神話との関係性は、二作品で大きく異なる。『同時代ゲーム』は、いわば語られる神話自体に潜む現代文明への批評性や、多義性・曖昧性に本領があった。

 それに対し、『M/Tと森のフシギの物語』で主題となるのは自分が経験していない神話の世界と、現代を生きる語り手の生とが、いかに関係性を結んでいくか、ということである。そこでは語られる神話の内容よりも、語られる神話に対して語り手を含む人々がいかなる態度をとるか、ということが、焦点となる。

▽「懐かしい」とは何か

 さて、この作品の中では、「懐かしい」という感覚が、一つのキーワードとなっている。自分の生まれる前にあったとされる、自分が住んでいる村の神話を、祖母から繰り返し聞かされる語り手の〈僕〉。その〈僕〉は、それらが嘘と紙一重であるとわかりながらも、それらの神話に「懐かしい」という気持ちを感じ取る。

 〈僕〉によれば、「懐かしい」とは、通常は自分がすでに体験したことに関して感得するはずの感覚である。しかし〈僕〉はそういいながらも、自分が、直接体験したのではない村の神話に関して、懐かしさを覚える。そして、〈僕〉は、「懐かしい」という感覚を、自分が直接体験したのではないけれども、ある体験が、繰り返し起きたことであるとわかること、と改めて規定していくのである。

 

懐かしいと感じ取ること。それも自分が直接にかつて経験したことのよみがえりというのではないが、しかも懐かしい。それはこの森のなかの谷間で、はるかな昔に幾度も幾度も起ったことだからではないか? そのように僕は感じたのでした。

(引用は上掲岩波文庫版より。26頁)

 

 ここには「懐かしい」という感覚の読み替えがある。このように〈僕〉に内在的な視点から〈僕〉の中の感覚の再規定が描かれることにより、読者もまた、懐かしいという感覚を改めて規定することへと導かれる。

 このような大きな繰り返しの中に自己の生があるという感覚は、しかし、作中で無批判に称揚されているわけではない。むしろ、〈僕〉は、それに殉じるようにして、死の一歩手前までいってしまう。ある日川の底の、岩の中にウグイの巣を見つけた〈僕〉は、それをよく見ようと狭い入り口に頭を突っ込む。そして、見えたウグイの文様に「神話と歴史」を読み取るのである。ことが起きたのはその時だった。

 

[...]僕はこの「ウグイの巣」が、ウグイの群れの魚体の斑点でなにもかもを書きあらわしている図書館だ、と感じたのです。それならば、森のなかの谷間の神話と歴史こそがここに書かれているのだと、いまひとり村の子供が溺れようとしていることすらも書かれているはずだと考えた時、僕はわれにかえりました。そして出口へ向けて急ぎ戻ろうとして、岩棚に頭を挟みとられたのでした。

(同上、53-54頁)

 

▽懐かしさと傷

  川の底で頭をはさみとられた〈僕〉は、たまたまつけてきていた母親に強引に引き摺り出される形で助けられるが、その際に、頭に傷を負ってしまう。そして、その頭の傷は、〈僕〉が繰り返し聞かされた、村の神話上の英雄たちが有していたものと、同様の傷であった。

 村の神話と歴史をみて取るという行為に殉じようとし、そこからぎりぎりのところで逃れ得たことから受けた傷こそが、むしろ自分自身が神話と歴史の繰り返しの中にあることの証拠そのものとして機能するのである。

 だとしたら、神話と歴史、そして、それらに醸される懐かしいという感覚から逃避することは不可能なのではないか?懐かしさに従って「神話と歴史」に惹きつけられるように殉死することから、逃れ得たということ自体が、懐かしさを補填する「繰り返してあること」の刻印となるとしたら、どこに外部はあるのだろうか。

外部への手がかりとしての傷

 ここで外部への手がかりとして大江が提示しているのは、繰り返しの根拠そのものである「傷」であると思われる。

 先に述べたように、傷は、〈僕〉と神話上の人物の共通性を示しており、傷があるからこそ、〈僕〉が、神話の繰り返しの中の一個として捉えられる。

 しかし、傷は本来、一つ一つ一回的なものであるはずである。一つ一つ一回的なものであるはずの傷が、一度つけられると繰り返しの記号として機能する。その繰り返しの感覚から完全に逃れることは難しいのかもしれないが、繰り返しの感覚に取り込まれながらも、当初の傷の一回性にたちもどろうとすることは、いかにして可能なのだろうか。

 そのことが、「懐かしい」という言葉とともに、「傷」というモチーフの頻出する『M/Tと森のフシギの物語』の中心的問いだと言えるのではないか、と私は考えている。。

 大江は、思想的にはサルトルから出発して、70年代にポスト構造主義の薫陶を受けている。そのような背景を知るものからすれば、刻まれた瞬間に繰り返しの一部としてある痕跡の、一回性を問う実存的な問いだては、わかりやすいかもしれない。少しわかりやすすぎるので、以上のような読解はむしろ、私の読み取りの浅さを露呈させてしまっているのかもしれないが。

▽懐かしさと傷とが重なる

 この問いに作中で明確な答えが出ているわけではない。しかし、大江は作品内の終結部で、傷と一体化した懐かしさというビジョンを提出しているように見える。懐かしいという感覚を、到達し得ない傷の一回性への憧憬としてさらなる読み替えを試みているように思われるのである。

 それは、マスターナラティブとしての神話と歴史に感得する感覚ではない。むしろ、マスターナラティブに回収される過程で切り取られた断片、傍流の神話、欠落という形で存在が示されるそれらを拾い集め、再構成することによってこそその片鱗が見られるような、伝承されてきているものとは別様であり得た原初状態への憧憬である。

 詳しくは、ぜひ作品を読んでみてください。

▽作家の一つの乗り越え点を刻んだ作品

 どうやら大江のあとがきなどを見ると、この作品の執筆を通して、大江は、散逸する断片をつなげ、あり得た可能性を再構成すること。そのことを、自分の作家としての役割として引き受けるに至ったようである。

 そのことにどのような意味があるのか、明確に言語化はできずとも、とにかく、自分の仕事を明確化しえた、という感覚。その作家としての一つの乗り越えの感覚、安堵感が、『M/Tと森のフシギの物語』という作品のやさしく肯定的な作風につながっているのかもしれない、と思われた。

 

 

『騎士団長殺し』についてイマイチピンと来ないこと

 今日朝twitterをみていたら、この間『騎士団長殺し』について考えるエントリを書いた時に参照した記事の評者の一人である鴻巣友季子さんが中島京子さんと対談している記事が回ってきた。

dokushojin.com

 この間のエントリも合わせて貼っておく。

summery.hatenablog.com

  今回の鴻巣さんと中島さんの対談記事は、個人的にうなづけるポイントがいくつもあった。例えば、鴻巣さんが、地の文における語り手の自己認識と、実際に語られる語り手との乖離について述べた以下の部分(引用は、一つ目に貼ったリンク「対談=…」より)

どうも「私」が語る自分自身と、読者が読まされる人物像が、乖離しているように感じるんです。「私は人見知りをする性格で」といいながら、「機会をつかまえて」女性を誘い、妻に別れを告げられてからすぐに二人の女性と関係を持っていることとか。慎重で二度より三度考えるタイプだ、といいながら、アトリエで少女と二人きりになり、おっぱいトークをしていることとか。

 私は、 上記エントリで「語り手が自己の認識機能の限界を自覚している」ということを書き、別エントリで、「語り手が何かを隠しているような気がする」というようなことも書いた。おそらく、それらは、鴻巣さんのいう「乖離」に関係していると思う。もちろん、それになんの意味があるのか、ということをはっきりさせなければならなくはあるのだが…。

 あとまあ、同じく鴻巣さんの発言の

今回は背景にアンシュルスナチスオーストリア統合)や南京事件などはあっても、『ねじまき鳥』や『海辺のカフカ』のように、根源的な悪と対峙して殺めることも辞さない、というところまで外へ乗りだして行くことはなかった。あくまでコンセプチュアルなレベルでの「殺し」に留まっています。

 という部分も、「ねじまき鳥に比べて弱いな」と思った自分の感想に一致している。

 おそらく、この「コンセプチュアルなレベルでの「殺し」に留まって」しまった原因が、「乖離」にあるのだろう、と私は推測している。「ねじまき鳥」は自己内部の悪と対峙することが、社会的に存在する巨悪と対峙することと接続してしまっているところに魅力があったのだが、語り手の自己認識と、描かれる語り手自身の描写との乖離は、自己を特定することを妨害し、結果的に内部にある悪との対峙という試みへの道を絶っているのであろう。

 それでは、この作品は、自己内部の悪と戦うことを、現実変革へと通じるような仕方で行うことが、もはや不可能になっているということを言おうとしているのだろうか?うーん、そうかもしれないけど、あんまりピンと来ないので判断留保

私が文学を学ぶことになった理由

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 先日友人に教えられ、東京大学田中純教授が、自身の教える大学院のコースを終了する学生に向けて書いた言葉を読んだ。内容は、ブログで公開されている。

修士修了生への言葉 - Blog (Before- & Afterimages)

 これに関し、twitterで田中先生は、以下のように述べながら紹介している。

  一つ一つ頷きながら読んだ。その中で、ふと懐かしさとともに、自分を振り返るきっかけになったのは、以下の部分である。(引用は上にURLを記載したブログより)

 そして、偉大なテクストや作品、テーマとの関係は、こちらが恣意的に愛したり、飽きて捨てたりできるようなものではありません。それははるかにつらい、傷つけられるような体験です。それがつまりは、答えなき巨大な「問い」との、さらに言い換えれば「歴史」との遭遇です。そんな遭遇とは、どんなものであれ、テクストや作品に「選ばれてしまう」という経験でしょう──いわば、逃れられない「運命」のようなものとして。

 確かに、対象と不可避に結んでしまう関係というものはある。そして、確かに、それは「つらい」。狂おしいという方が正しいかもしれないが。

 私はもともと、小学校時代から特定の物語に囚われて、そのこと以外なにも考えられなくなる、ということが多い子供だった。一旦特定の作品にとらわれると、その作品の中の世界に生きている夢を、何日も繰り返して見るような子供だった。本であれ漫画であれ、夢中になった作品は繰り返し筆写した。それだけでなく、模造品を作った。

 しかし、そのようなことをしても、劣化版のコピーを作っているということ以上ではありえないと、小学校高学年の時に気づいた。私は作品に囚われて過ごす、狂おしいような日々から抜け出して、自分の時間を生きたかっただけだ。そして、それは案外難しいということがわかった。

 そのような状態から抜け出す方途の一つとして、自分が対象に対して感じる魅力を適切に言語化することが数え上げられるのだとしたら、それを学ぶ価値はあるかもしれない。それが、大学で文学を学ぼうと思った理由である。

 作品に対する的確な批評を読む時、ざわざわしていた胸が一旦落ち着き、ざわざわしていた理由自体を冷静に見つめ直す契機が得られる。誰かが書いた批評を受動的に待つのではなく、その契機を自分で掴みとることができないか?そうすることが、不可避に結んでしまった作品との関係を少しでも能動的なものに転換していくことであるのではないか?そう思われた

 田中先生の書いた上記引用に即すなら、それは、一応、私なりの「運命」との出会いだったのかもしれない。いや、大げさではないか?と思わなくはないが、実際それによって、ここ10年ほどの私の人生は、少なくとも決定されてきたのである。

 昨日、私は社会人になった。私の「運命」との取り組みはそんなこととは関係なく続くが、できることなら、仕事においても、「問い」を見つけられれば良いと思う。見つけられなければ、きついと思う一方で、見つけられなくても、案外割り切れるかもしれないと思う。とにかく、初出勤日の明日から、しばらくは不安定な日々が続くだろう。

 

ナルトを読んだ

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 何やらもやもやとした気分で読むことも書くこともうまく出来なくなっていた。多分原因は、ここ四日ほど、人とほとんど一言も会話していないことにある。読んで書くだけに、身体が飽きているのだ。つまり私は人と話したいのだと思う。もしくは、身体を動かしたり、活性化させたい。今日岩盤浴に行こうと思っていたのに、小雨が降り始めてしまったこと。そのことが本当に良くなかったと思う。自転車で出かけられなくなり、断念せざるを得なかった。

NARUTOを一気に読んだ

 今日の午後はひたすら、母親がまとめ買いをしたNARUTOを読んでいた。

 私のNARUTOとの出会いは、ジャンプを定期的に購入し始めた小学6年生のころのことである。それ以来、中学3年生まで毎週ジャンプの購入を続けていた。

    それではその間ずっと誌上でNARUTOを読んでいたのかというと、全くそうではなく、興味を持ち始めたのが購入を初めて一年経った中1の時くらい。それで、それくらいの時期から、ついでにパラパラと読むことを3年ほど続けていた。

    しかし、予備知識が全くなかったため、正直よくわからなかった。中学生の私には、インターネットで漫画の筋を調べたり、漫画喫茶で一気読みするという発想は湧いてこなかったのである。

 以上のような事情から、NARUTOという作品の後期の画風しか知らなかったため、読み始めてまず、初期の絵の濃さに驚いた。線が太い。ベタやトーンが多い。そしてコマの中が随分とごちゃごちゃしている。

 それが、中忍試験をすぎたあたりからであろうか、徐々に絵が改善されていく。捨象すべきものが捨象され、動的な描写がいきいきとするとともに、圧倒的に見やすい構図となっていく。また一方で、書き込むべきところは集中的に書き込まれており、芸が細かい。

▽戦闘の描き方がうまい

 ざっと読んだ感想として、戦闘シーンの描き方がうまいと思われた。例えば、チヨバア+サクラVSサソリ戦のあたりは、大変優れた描写である。漫画史に残るのではないだろうか。

 また、NARUTOという作品においては、力と力で押し合うような戦いと、知能戦とがうまく使い分けられている。ドラゴンボールのように大方力の強さ(戦闘力)だけで決まる作品とも、ハンターハンターのような濃密な知能戦を中心とした作品とも異なる戦闘のあり方をみせてくれている。

    影分身の術や変わり身の術によるトリックなど、ワンパターンな部分や、難易度の高すぎることをあまりにあっさりとやってのける忍び達にいやいや、とツッコミを入れたくなるような場面はある。しかし、全体としては良くやっている。週刊誌のスピード感で、絵も原作も一人でやってこれなら上出来だと思う。

 この歳までずっとジャンプはワンピース一強だと思っていたのだが、一気通貫(巻)に読んだ感想としては、ワンピースより面白いし、出来がよいと言って良いと思う。

▽先行世代と後発世代との戦い、そして対話が効果的に描かれる終盤

 特に終盤の、蘇った伝説上の人物たちと戦うという展開は大変良い。もちろん、生者と死者とを問わず、本来味方の側に分類されるはずの者が敵の術により操られ、敵として立ちふさがるというのはこれまでにも様々な作品で見受けられはした。

    しかし、NARUTOの終盤において、このある種王道的な展開には、先行世代と後続世代との世代間対決が他の作品よりもはるかに強く仮託されている。そのため、読者としては、ネタ切れで味方を敵として持ち出すしかなかったんだな、という倦厭感を排し、特別の期待を持って読むことができると思われる。

 なぜそう読めるのか。それは、NARUTOが忍びという血縁的な結合の強い集合体内部の事情を繰り返し描いてきた作品であることと関係している。作品内では初期から一貫して、先行世代の作り上げた社会的・文化的基盤に育てられ、それを守り、また、場合によっては乗り越えようとする忍び達の意識が繰り返し描かれてきた。すでに亡き者となった英雄達が、現在の忍び達を励ますと同時に、また重圧ともなってきたのである。

 回想シーンでしか現れなかったり、作中に登場せずただ遠い祖先としてのみ言及されてきた人物達が、実際に後続世代の忍び達の前に立ちふさがるという展開は、したがって、世代間の戦いや葛藤、そして和解、超克、引き継ぎといった様々なドラマを生み出す。このドラマに対する期待感が、王道的な死者との闘いを飽きさせることなく読ませるのである。

 また、先に、死者との戦いという一つの王道の展開をNARUTOという作品が用いる際、そこにこの作品ならではのオリジナリティが付与されていることは言及されるべきだろう。

    そのオリジナリティとは、転生し、敵として立ちふさがる先行世代の英雄達が、大方身体のみ操られているということだ。彼らは操られながらも、思考能力や会話能力に関して、生前と同様であり、意識としては敵である主人公サイドに味方している。

 そのため、彼らは、自分の弱点や、自分にいかにして勝てば良いのかというアドバイスを後続世代に対して行いながら、同時に戦いもするのである。

    この設定は、①先行世代と後続世代との間の対話を惹起しやすいこと②不必要に戦いの描写を長引かせないこと、以上二点で優れた設定であるということができよう。

▽もし読んでいない人は是非

 今回NARUTOをざっと読んでみて、もう少し早めに読んでおけばよかったな、と思った。今読みながら、大変優れた作品だな、と思うのだが、一方で、その中のいかにも少年漫画的な要素(具体的には友情至上主義やあきらめないで最後まで戦うことを是とする価値観など)に当たるとすぐに鼻白んでしまうのも事実。小学生の頃だったら、多分どっぷりはまっていただろう。

 ある作品と出会うのにふさわしい年齢というものがある。私は常にそれに遅れてばかりだ。今も、現在進行形でいくつかの作品から遅れている。時間は有限だから、ある程度は仕方ないかもしれない。しかし「時間は有限」と言えるほど、時間を有効に活用できているのか?と思わずにはいられない。