SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

押井守監督『スカイ・クロラ』:諦めることとともに生きる

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 今回は(今回も?)あまり一般読者に裨益する記事ではないのだが、好んで観るアニメ映画『スカイ・クロラ』について書く。現時点でこの作品について言及したりまともに論じているブログ記事などは少ないので、この作品に出会い、どうしようもなく気になってしまってなんとなく検索した少数の人に読んでもらえれば嬉しいと思う。コメントも大歓迎である。

 

 

https://www.amazon.co.jp/スカイ・クロラ-Sky-Crawlers-菊地凛子/dp/B00M90MG1A

 

あらすじ 

 一応、改めて自分の言葉でまとめておこうと思う。『スカイ・クロラ』は戦争請負会社に所属するパイロットである函南優一を中心とした物語である。

 この世界において戦争は国家間の争いであると同時に、人々が生を実感するために存在するショーとしての位置付けを持っており、そこで実際に戦う人々は人為的に開発された「キルドレ」と呼ばれる特殊な性質を持つ人々である。

 キルドレは思春期以降成長が止まり、殺されない限り生き続けるという性質を持っている。そして、どうやらあるキルドレが死ぬと、同様の癖や性格を持ったキルドレが新たにまた一人生産されるという会社側のシステムとなっているらしい。つまりキルドレたちは戦うために生まれ、死ぬとまた戦うために再生させられる。ここまでが設定。

 物語は新たに草薙というキルドレの女性が司令官をしている基地に配属となった函南がその基地で出撃して死ぬまでを描く。函南の機体の前任者は栗田といい、栗田は亡くなったようなのだが、戦闘で亡くなったということではないらしい。函南は様々な人の噂を聞く中で、栗田が草薙により殺されたということを知る。そしてまた、栗田と函南自身との間に身体的な類似性があることもいくつかの証言から示唆される。物語が進むにつれて、函南は栗田の再生として、繰り返しとしてあることが明らかになっていく。函南は草薙と接近していくのだが、この二人の関係の深まりも、草薙と栗田との恋仲の繰り返しとしてあるようだ。作中の世界における戦争は、このようなキルドレたちの小さな生死の繰り返しと不可分のものである。

 それでは、草薙はなぜ恋仲にあった栗田を殺したのか。草薙自身の告白によれば、草薙による栗田殺人の裏には、繰り返される日常から逃れたいと思った栗田による、草薙への、自殺幇助の依頼があった。草薙は栗田の生を終わらせようとして栗田を殺した。そして、今度は草薙が、栗田の代わりである函南に自分を殺してほしいと依頼する。

 しかし函南は草薙を殺すことはない。函南キルドレたちの生死の繰り返しを必要とする作中における戦争のシステムそれ自体を変えようとする。作中では絶対に勝てない敵であるティーチャーというパイロットがいる。ティーチャーは戦闘機パイロットでありながら、例外的にキルドレでなく大人の男であり、ティーチャーがいるゆえに、函南の陣営は戦争に勝つことがない。また、ティーチャーが時たま片方の陣営から片方の陣営へと転職することで、どちらかの陣営が勝つ形で戦争が終わることはない。ティーチャーはキルドレの世界の外部にいる、戦争を終結に向かわせない理由となっており、ルールそのものを構成するような存在である函南は勝てないことがわかりながら、ティーチャーに挑む。そして散ってゆく。

スカイ・クロラ』に出会った頃の僕

 最初に僕が『スカイ・クロラ』に出会った時のことから書き起こそう。この映画を初めて観たのは高校生のときである。渋谷の映画館だった。当時『崖の上のポニョ』も上映中であり、ポニョを友人と観た僕は、その際に映画館のポスターで目にした『スカイ・クロラ』の絵が醸す雰囲気が気になり、作品の内容に関しても、押井守という監督の名に関しても全く知ることなく、勢いで観に行ったのだった。

 一緒に観た友人二人は別に面白くもない様子だったが、僕はこの映画にどっぷりはまり、映画館で都合三度観たのち、浪人中も折に触れて観た。

 浪人中は英語の勉強という名目で、英語版を繰り返し観た−−−という記憶が残っているのだが、一つのフレーズも覚えておらず、もしかしたら日本語で観ていたのかもしれない(もちろん、 “Enough is enough”は記憶に残っている)。だとすれば全く勉強でもなんでもないのに、よくもあれだけの回数を観たものだと思う。

 同時に『攻殻機動隊イノセンス』の英語版も盛んに観ていたが、こちらは確実に英語で観た。その証拠にいくつかの英語のフレーズを覚えている。例えば「神は永遠に幾何学する、か」というキムの作り出した幻想世界におけるトグサの認識下でのバトーのセリフは”The god is ever lasting geometry”だった(そして時計の秒針のようなリズムとともにバトーの顔がこちらを向き、開く)。 

スカイ・クロラ』に漂う諦めることのペーソス

 当時の僕にとって『スカイ・クロラ』はいわく言い難い魅力を放つ映画であった。特に僕にとって気になったのは、作中人物同士の会話において現れる独特の離人感覚である。この背景には、人と関係を結ぶことへの諦念があると思う。

 作中の登場人物は互いの気持ちを事前に読み合い、相手にとって不快にならないように配慮しようと心労することはないし、妙なプライドを背景として相手より優位に立とうとするようなこともない。他者による承認を必要とはしていないし、相手にそれを与えようとも、また相手からそれを剥奪しようともしていない。つまり、会話を通して通常人が行うような贈与のやりとりや暴力の応酬を行うことはない。 

 彼らは他者の領域に必要以上に深入りしたり、相互に依存的な関係にならないように、注意深く距離を保つ。必然的に彼らの会話には笑いもなければ怒りも妬みもなく、喜びも悲しみもあまりない。

 しかし、だからといって個々の登場人物が機械のように悩みも苦しみも持たないというわけではなく、むしろ、人間関係や会話からそれらが表に出て来ない故に、細かな行動や目線の応酬などに現れる、表面上の人との距離の取り方と相違するような関係性への希求の匂わせが際立つ。

 この、言葉と相反する行動の微細な部分まで冷静に映し出すが故に映画に生まれるリリシズムと、その背景にある「所詮他人に対して持つ自分の期待や希望が叶えられることはあり得ず、他者と深く関係を結ぶことはできない」というような諦念からくる独特のペーソスが僕にはリアリティをもって感じられた。

 特に、思春期の高校生同士であれば、時に積極的に内面をさらけ出すような関係性もありえはするけれども、通常は自分の守る領域を崩されることが嫌で、大半の人はあまり積極的な自己開示はしないものではないか。

 もしくは積極的に自己開示するタイプであったとしても、自己開示しているつもりで実はぐるぐると真なる自分と異なる外面向けの自分の輪郭をなぞっていたりして、その矛盾に悩んだりするものではないだろうか。

 そのような、高校生だった自分が日常的に、(もしかすると否応無しに)とる/とってしまう他人との距離を、『スカイ・クロラ』の作中人物は自覚的かつ誠に如才なくとっており、自分がとる距離の想像以上の近さや遠さに関して悩んだり苦しんだりすることはない。もともと彼らには他者と関係を結ぶことへの深い諦念があり、彼らの他人と距離をとることの技術は、この諦めの深さ故に身につけてきたものであるというように思われる。

 僕には彼らの諦めが新鮮だった。本当はとうの昔に、自明に諦めていて良いものを諦めきれていなかった自分にとって、当たり前のように諦めてやり過ごしている彼らの生活は自分が拘った面倒なものから解放されている自由さがあるように感じられた。

函南が死んだ世界の現出 

 ところで、この度観てこれまでは全く気にならなかった作中の細かな部分がとても重要な意味を持って自分に立ち現れてきていることに気づかされた。具体的には、終結部に置かれた函南ティーチャーとの戦闘シーンの終わりの部分でのカメラの動きがそれである。

 当該シーンではティーチャーが函南の機体にまず強力な砲を二発打ち込み、コックピッドのガラスに函南のものと思われる少量の血流が観察される状態になる。この時点ですでに勝負は決しているはずである。にも関わらずティーチャーは執拗に、改めて細かい銃弾で函南の機体を蜂の巣のようにしていく。

 ここでコックピッドに直に打ち込まれた銃弾はおそらく函南を直撃して勢いよく吹き出す血が改めてガラスを染めるのだが、この場面、カメラはコックピッドの中から破壊される函南の身体を描くことも可能だったにも関わらず、徹頭徹尾機体を外から観察したのちに、それ自体が猛スピードで動く戦闘機に乗っているかのように加速し、機体に空いた一つの穴を通過していく。それはもう否応無しに、決して抗えないようなスピードで通過していくのであり、穴の通過は、トンネルを抜けるような明滅のエフェクトとともに描かれている。

 僕は、この場面が、押井のある種の期待を示しているのではないかと思う。なぜか。以下で説明していこう。

 終結部に至るシーンで、函南は、「いつも通る場所でも違う道をあるくことができる」というモノローグに現れるように、残酷なまでに繰り返される日常性を内破することを目的に、ティーチャーに挑む。

 函南ティーチャーへの挑戦はこれまで幾度となく繰り返されてきたキルドレによる大人の男への挑戦の中の一つにすぎない。函南はそのことに気付きながら、自らの意思で積極的にそれを繰り返す。そしてこれまでとは少し異なったなぞり方をしようと試みるのだ。

 ティーチャーにより手際よく、また執拗に破壊される函南の身体と機体とは、それだけ見れば、これまでティーチャーに破壊されてきたであろう数多の戦闘機の最後の忠実な繰り返しであると考えられる。

 しかしそれを冷徹に外から映し出すカメラは、観客に対して函南の死の一回性を際立たせる効果を持つ。函南と草薙とのやりとりをこれまで映し出してきた同じカメラが、他の機体同様に破壊される函南の機体を冷徹に映し出す時、観客は函南が辿ってきたいつもと同じ道の異なった歩き方を二重写しにして観ることができる。

 それはその他大勢の、無名の死ではなく、栗田の生まれ変わりでありながら、栗田とは異なり、また、同じようにティーチャーに撃墜された篠田や、それに連なる様々な戦闘機パイロットたちと異なる、繰り返しの中にあることを自覚した上で、自分の中の理由により自分で選び取った函南自身の死なのである。

 それを前提としてみた時、銃撃によってできた穴を潜り抜けるカメラワークは、繰り返されるだけの日常性とはやや異なった日常からなる世界への入り口を通過するように見えてこないだろうか。

 それはほとんど全くこれまでと変わらないのかもしれないが、ほんの少し異なる世界だ。なぜならそこには、函南という名前のある死が刻まれたからであり、ぼんやりとして過去のことをほとんど思い出せないキルドレたちにとって、おそらくしばらくは思い出すことのできるような函南の死が記憶に残り続ける世界だからだ。

 これは、草薙によりややあざとく、長いセリフによって語られた戦争がなくならない理由とは裏腹に、明示的に語ることを許されない、しかし確かにある、押井の期待の感覚であるのではないか。函南の死が何かを変えるであろうことへの。

押井の期待

 最近『スカイ・クロラ』の制作を追ったドキュメンタリーを観た。そして、若者たちへのメッセージを託して制作した『スカイ・クロラ』を押井は一番に若者が集まる大学(横浜国立大学)で上映したことを知った。

 アフタートークで押井は人生二周目に入った者としての自分から、一周目の途上にある大学生に語りかけていた。押井自身が、繰り返される日常を、小さな能動性を発揮することにより、少しずつ変容させてきたのだろうと、僕は押井の語りを見ながら感じた。変容させては、変容後の世界の、変容前と同様の日常性にあてられ改めて苦しんできたのではないか。

 あの函南の機体の穴を通り抜ける際の、カメラの臨場感。現実にはダイナミックな変容などまず起きない。日常は緩慢に、微細なところを変化させることを積み上げるしかない。

 にも関わらず、函南の死の直後の、その死により不可逆な変化が世界に刻まれるかのような、そしてそれを通して決定的に世界のルールが組み変わるかのような描写。それに、僕はクラクラするほどの衝撃を覚えてしまう

 クラクラするほどの衝撃とは、そこに託された切実さとの共振である。描かれるべき事柄が描かれている。それまでのストーリーから観て、力を入れるべきところに最大限の力が入れられている。ここを持って、私は『スカイ・クロラ』が賞賛に値する映画だと思う。『イノセンス』には決してなかったものが描かれている。『イノセンス』は正直、私にとって、知的に高度化されたパズルのようなものだ。

 誰にも理解されないと思うが付け加えておくと、『スカイ・クロラ』の機体の穴を通り抜ける描写に似たものを、僕は最近観た。それは、『この世界の片隅に』の時限爆弾シーンである。時限爆弾により未亡人の姉の娘と、右腕とを同時に失ったすずさんが、改めて目覚めるまでの意識の流れ。

 そこでもまた、トンネルをくぐるような明滅が描かれる。ここでも同様に身体の欠損により、不可逆的な変化が世界に刻まれる。それにより、世界のルールが組み変わる。実際に、あのシーンでは着物が組み替えられているのだ。これについては以前書いたので、参照されたい。

 

summery.hatenablog.com

 

 押井は自分の住む世界を内破させ、そこにおけるルールを組み換えようとした函南の試みを実際に成立させようと試みている。それは作品の物語内容としては成立していないかもしれないが、それを映し出すカメラを通して物語を観る観客の内部では、一定程度有効性のあるものとなっていると考えられる。

 なぜなら、内でも外でもなく、境界というもっとも危険な領域で、血に染まる函南のコックピッドを観た後に観客は、作中で自明視されている世界のルールの振るう猛烈な暴力を目の当たりにするからだ。

 函南は決して自分の試みにおいて他者の協力を要請しない。上で述べてきたように、そもそも他者の協力など、最初から諦めきっている。しかし押井のカメラは函南の試みを共同性に開こうとしている。作中でこれ以上ないほど強調されてきた諦念は、最後の最後で反転し、観客に対する問いの分有の希求として指し向けられる。もともと、あることを100回諦めることは、逆にそのことをどれだけ強く求めているかということの証左でもあるのだが…。

無名の死が名のあるものとして受け継がれる世界 

 とここまで書いてくると、函南の死を特権化しすぎていると言われるかもしれない。確かにそうだ。なぜなら、函南以前の死もまた、作中の登場人物にとっては名前の有る死であったはずだからだ。

 例えば、栗田人狼の死は草薙の記憶にも笹倉の記憶にも刻まれているし、また栗田の記憶の権化とも言えるような娘草薙瑞樹の大人になる生が草薙にはまとわりつく。

 『スカイ・クロラ』という作品の本領は、作中で強調されるキルドレたちの数多の死の、ショーとしての戦争を見ている観客の側にとっての無名性とは裏腹に、実のところ彼らの一つ一つの死がキルドレらの間では、名を持って密かに受け継がれていることを示している点であろう

 この意味では、函南の死は唯一の名を持つ死ではなく、いくつもの統計上は名を持たない、しかしその死の周りにいた人の中には分有されている名を持つ死の複数の中の一つであるはずだ。

 もしかすると、記憶が持続しにくいキルドレたちはそれらの死をすぐ忘れてしまうのかもしれない。しかし、諦念とともに生きる彼らは名の有る死をもしかするとすぐに忘れてしまうかもしれない自分について十分自覚的である。

 映画の問いはこうまとめられるだろう。すなわち、私たちは名のある死の固有性、一回性をすぐさま忘れ去ってしまうかもしれない。私たちはそれをいつまでも覚えていることを諦めなければならないかもしれない。それでは、諦めてあることを抱えて、どのように生きればよいのか。もしくは、覚えていることを諦めることの強度において、逆説的にも覚えているということはいかにして可能なのか

 『スカイ・クロラ』はこの問いには正面から答えていない。もしかすると、この問いは押井が『スカイ・クロラ』に込めた問題意識とは全く違う明後日の方向の問いかもしれない。それはそれでよい。作品はそれを生み出した作者だけのものではないから。

 

 

=== 

 

 『スカイ・クロラ』と同じく、戦争を描いた映画として『この世界の片隅に』と『風立ちぬ』について注目しています。

 

summery.hatenablog.com

 

 

summery.hatenablog.com

 

あなたにとって戦争はどう見えるのか? 「この空の花−−長岡花火物語」「この世界の片隅に」:早稲田松竹に行ってきた。

 あけましておめでとうございます。年末に読んだ本や観た映画、行った場所の中で面白かったものをまとめます。

 別のブログに以下のような記事も書いたのですがこっちではこっちでまた別に書きます。

 

queerweather.hatenablog.com

 

映画:早稲田松竹に行ってきた。

 今年は一人暮らしを始めたこともあり、大晦日まで一人暮らしの家にいたのだけど、12月30日に映画でも観るかな、とふと思い立って早稲田松竹のページを見たら「この世界の片隅に」がやっているとのことだったので、行ってきた。

 

この世界の片隅に

上映スケジュール | 早稲田松竹

 

この世界の片隅に
 

 

 「この世界の片隅に」に関しては、ちょうど一年前頃はじめて観た際に、色々興奮し、以下のような記事を書いた。今読むと事実誤認の含まれる部分もあるが、基本的には間違っていないと思う。

 

summery.hatenablog.com

 

 しかし、一年ほど前ユーロスペースで観たときは割引デー的な日だったにも関わらず空席も目立ったのだが、12月30日の早稲田松竹、朝一番の回の「この世界の片隅に」は満席だったようである。ずいぶん話題になったからねえ。

 上の記事で、私が感じた同映画の新しさはほぼ書き尽くしているが、今回改めて観るなかで、場面転換やセリフ回しがうまく、安心して観ることのできる映画なのだなと思った。テーマに対する切り口や特定の場面の描写の鋭さに気を取られていて、そうした同作品の根本的な「基礎体力の高さ」に気づいていなかったのだ。

 

「この空の花−−長岡花火物語」 

 ちなみに早稲田松竹は基本二本立てなのだが、二本目は尾道三部作で知られる大林宣彦監督の「この空の花−−長岡花火物語」であった。

 

 

 大変失礼ながら、「この世界の片隅に」のついでのような感覚で観たのだが、第一印象は「なんかすごかった」というもの。色々自分でも書こうと思ったが、私が感じた「なんかすごいな感」が、以下の米光一成さんの記事で割と語られているので、ちょっと参照してみたい。

 

www.excite.co.jp

 

「まるで夢のような、でも本当の話」ってナレーションで、「長岡ワンダーランドに一緒に旅しましょう」とか言いだして、しょっぱなから、ワンダーすぎてついていけない

と思ったら、タクシーにのってる遠藤玲子松雪泰子)がカメラ目線で、「昔の恋人から手紙をもらったのです」って、こっちを向いて、説明台詞で早口で語りかけてくる。
なんで、こっち向くの! って思ったら、その手紙書いている昔の恋人も、書く手を止めて、くわっと頭をあげてこっち向いて、「生徒の劇を観てもらいたくて、手紙を書いたんです」とか言うので、いやいや、客席気にしなくていいから、ふつーに映画進めてくださいよ、と当惑する間もなく、18年前に時空飛ぶ

(引用、上記事より)

 

 いや、ほんとよね。俳優の謎カメラ目線や、その俳優の顔をやけに大きく正面から映し出すカメラワークに困惑。登場人物二人の間の会話でも小津映画みたいにそれぞれの発話を正面から映したりする。

 

ふたりが別れるシーン。
別れ際に、遠藤玲子が「戦争なんて関係ないのに」って、突然、本当に何の関係もない話題を! 男も、そりゃ「せ、せんそう!?」って驚きますわな。しかもテロップで「戦争」って出てくるので、客も驚きますわな。
男(長髪のカツラをかぶった高嶋政宏)、その後、何をとちくるったか、真剣な顔で「痛い! この雨が痛い!」
わけわかりません!
しかも、これが何だったのか、最後までぼくには分からず、っていうか、これぐらいの不思議は、ここから先の怒濤のワンダーにくらべれば些細なことなので、これっぽっちも気にならなくなる。

長岡で先生やっている男の前に、花という謎の少女が突然あらわれます。
「まだ戦争に間に合う」という脚本を持ってきて話す少女はバストショットで映し出され、なぜかゆらゆら揺れていて、どうしたのこの娘?って思ったら、一輪車に乗ってる。
教室の廊下を、一輪車で駆け抜ける花。

(引用、上記事より)

 

 そう、この映画のテーマも戦争なんだけど、特に戦争が出てくる必然性が見えないようなところに突如挿入されてくる。これには驚かされるのだが、一方、私には既視感もあるように思われた。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』である。同作品中で主人公岡田トオルの窮境は、一見なんの関係もなさそうな占い師の老人のノモンハン事件体験記を通して奇妙な形で切り抜けられることになる。このことは、別の記事に詳しく書いた。

 

summery.hatenablog.com

 

 この二つの作品が示そうとしているのは、「今、戦争を体験していない世代にとって、戦争というのは、普段の日常生活になんの関係もないはずなのに、なんだか気になってしまうものである」ということなのかなあ。そういう感覚を出しているのかなあ。ちょっと答えは出ないのだけど。

 印象的だったのは上引用部にもある「まだ戦争に間に合う」というフレーズ。もちろん、形式的には終戦/敗戦を境に終わったとされるはずの戦争が、戦後もそこに根ざした問題がまだまだ大量に残り続けているという意味で「本当に終わってはいない」という議論はずっと前からあるが、それを彷彿とさせながら、一方ですごく戦争に加わりうるという感覚に根ざす実存的なロマンティシズムを喚起させるようなフレーズである。まだ戦争は続いていて、私たち一人一人はそこに参与し、散華しうるのだ、とでも言うような…。

 戦争なんてない方がよいのに、「まだ間に合う」と言われるとなんらかのことを自分がしなければいけない/したいという気分になる。しかし戦争に参加すること自体が戦争を駆動させる部分があることは確かで、その意味で、若干危険なものを感じさせるフレーズである。

 上引用部で言及がある一輪車に乗った子=花は、新聞記事にあったこのフレーズに触発されて戦争を主題とした演劇の脚本を作り、その上演を試みる女子高校生。この花の演劇にかける一途さも、ちょっと怖い。戦時中だったら、花は優れた戦士になったのではないかと思わせる。

 

あなたには戦争はどう見えるのか

 ところでちょっと与太話はここまでにしてやや真面目な話をしたいのだが

 「この空の花」と「この世界の片隅に」を連続して観て、少し思ったことがある。それは、この二作品が両方とも、「この映画を見ているあなたにとって、戦争とはなんですか?」という問いかけをはらんでいるということだ。

 「この世界の片隅に」ではこの問いかけは割と直接的に現れている。ことりんごによる「たんぽぽ」というエンディングテーマで現れる「あなたにはこの世界どんなふうに見えますか?」という一節がそれだ。

 「この世界の片隅に」はその丁寧な時代考証に注目されることが多い。例えば以下の記事を参照されたい。

www.nhk.or.jp

 

 ここでは以下のような記述が見られる。

 

片渕さんは実際に料理を作り、味を確かめ、作品に投影させていきました。
徹底した時代考証によって、生き生きと表現される戦時下の暮らし。

(引用は上記事) 

 

 確かにそこに力が入っていることは事実だが、見落としてはいけないのは、「この世界の片隅に」という映画の肝心な部分では主人公すずさんのイマジネーションの世界が貫入してくることである。上で紹介した「『この世界の片隅に』で気になった時限爆弾シーンの着物について考えて見た」という記事では、時限爆弾により義姉の娘と自分の右手の両方を失うというシーンで、すずさんの頭の中のことが映画の全面にせり出しているように見える部分があるのだが、その部分について論じた。

 つまり、「この世界の片隅に」は、主人公すずさんにとっての戦争を描いているのであり、時代考証がいかに細かく行われていたとしても、肝心な場面で同映画は決して描写の上で「リアリズム」というわけではないのである。むしろそれは、すずさんのイマジネーションの世界における戦争を描いている。この落差。イマジネーションとリアリズムとの架橋され難い混在こそが、「この世界の片隅に」という映画の本領であると思われる。

 エンディングテーマの「あなたにはこの世界どのように見えますか」という問いかけは、従って映画のテーマに合致した問いかけである。「この世界の片隅に」はまさに、「すずさんは以上のように戦争を認識し、この世界を認識していた。それでは、あなたにとって戦争とは、この世界とは何か」という問いかけを発しているのである。

 ことほど左様に、「この空の花−−長岡花火物語」もまた、今を生きる人々の中の、戦争の認識、戦争へのイマジネーションを問うている。この映画は花という女子高生の戦争演劇作成を中心的に主題化するが、映画という虚構の中で、改めて虚構を作成する過程自体を描き出すこの手法は、ある個人が体験しなかった戦争を想像し、リアリティのある虚構として立ち上げていく過程を映し出しているとも言える。

 花にとっての戦争は、花にとっての戦争でしかない。しかし、それを丹念に追う映画を見せられた読者は、「それでは自分にとって、戦争とは何か?」ということを問わずにはいられない。「これはこの人にとっての戦争だ」と認識することは、「私にとっての戦争とは何か?」を問うことだからだ。

 

戦争へのイマジネーションを問うこと

 二本立てで二つの映画を見ながら、戦後70年。もはや問われるのは「私」にとって戦争は「どう見えるのか」という、イマジネーションの領域なのだなという感想を抱いた。一つ一つの戦争体験を元に、リアルな戦争のありようを復元していくという手法の限界を、表現はこうして乗り越えていこうとしているのだなと思う。

 イマジネーションを問うことは、フィクションの本領である。ウソかホントかの二項対立ではなく、「その「ウソ」は本当に、あなたにとって真実性のある「ウソ」なのか。」「その「ウソ」は、あなたの周りの人々とあなたとの関係をどう変えるのか?」という力強い問いかけを発するウソ=フィクション。二つの映画は、この70年間フィクションが不断に戦争の記憶と向き合い続けてきた、精華なのだなと思った。

 

 この二つを二本立てにする早稲田松竹は優れた名画座だなと思う。結構豊かな体験をさせてもらえた年末であった。

 

 

フィリップ・K・ディック『高い城の男』:偽の歴史と二項対立

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 大学一年生の時、シラバスでふと見つけた船曳ゼミに未だに参加しています。文化人類学者の船曳建夫先生のゼミです

 最近、そのゼミの読書会で、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』という作品を読んだので、感想を書いておきます。

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

 

 

※ちなみに、同じゼミの読書会関連で読んだ本の書評記事としては以下のものがあります。よろしければあわせてどうぞ

summery.hatenablog.com

summery.hatenablog.com

 

 偽の歴史の入れ子構造

 この作品は日本とドイツの勝利というあり得たもう一つの現実=偽史を舞台としています。作中では、アメリカが勝利したという(作中内の観点から見た)偽史が流通しており、作品はその作中内偽史(=読み手にとっての現実)を読む人々のありように中心的に焦点化しています。

 この作品の眼目は偽物の歴史、あり得た世界とそれを読む人々との関係のありようにあります。

 個人は大きな歴史の流れから容易に外に出ることはできないが、それをわかりながらあり得たもう一つの物語を作ってしまう。そして偽にすぎないそれらの物語から力を得て、現実(=『高い城の男』の物語)が駆動されていってしまう。そのような偽史=フィクションと現実との関係性が描かれているのです。

 作中内で扱われるアメリカ側が勝利したという偽史は、終結部でむしろそれこそが真実であったと暴露されるのですが、偽のものが真実であったことがわかってなお、だからといって偽の側に反転してとらえ直される『高い城の男』の世界の人物たちが真実=アメリカの勝利した世界に向けて外に出ることはできず、現実的な戦勝国=ドイツの迫害は身に迫る危機としてあり続けています。

 だとしたら、真実を知ったことにいかなる意味があったのだろうかと思わずにはいられません。ということで、ここで作中内で流通する偽史の作者である「高い城の男」が、占いに助けられてその物語を書いたこと、そのことの意味は何かという問いがわきあがってくるでしょう。

 

書いてしまったものとの距離感の妙味

 『高い城の男』は偽の歴史を読む人々の物語であるとともに、偽の歴史を書く高い城の男=作家の物語であり、危機があちこちに伏在する現実に閉じ込められる人々が、そこから脱出しようとして読むこと、そして書くことの意味を問うた作品と私は受け止めました。

 あらゆるものが善と悪、真と偽の二項対立の図式に還元され得た冷戦期に、この物語は、その図式自体への懐疑を投げかけていた、ととりあえず言える気がします。このように大まかに言ってしまえる作品は多数存在すると思うのですが、この作品も大きくはその一群の中にあると考えられるのです。

 真も偽も作られるものであり、かつまたある事柄が真であるか偽であるかがわかったとして、それとは関係なく危機は迫ってくる。にも関わらず、真なる物語を書くのは何故か、という問いに戻りましょう。

 「高い城の男」は何も真なるものを書こうと言う当為により書いたのではなく、占いに導かれて、それを書いたということでした。つまり、何かしら魔術的な力に駆動され、思いがけず真実にたどり着いてしまった男であるということになります。

 だからこそ、高い城の男はそれの持つ意味を測りかね、真実性の力に取り込まれすぎないように、自分の書いてしまった作品からあえて距離を置いているように見受けられます。

 ウィキペディアによれば、この作品はディックの作品の中で例外的にまとまりのよいものであるとのことですが、それは高い城の男の、自分の書いてしまったものに対する距離感と同様の源から発しているのかもしれません。自己の書くものに過剰に接近しすぎると物語は大抵、過剰さや過度な曖昧さによる自己崩壊を引き起こすなどして、綺麗に終わることのできないものですが、作中内の高い城の男のように、ディック自身も自分の書いてしまった『高い城の男』という作品から、一定の距離をとろうとしているように考えられます。

 

真と偽との往復という主題

 作品は偽の歴史の世界に舞台を置き、舞台内での偽の歴史=現実世界である作家ディックの生きる現実における真の歴史にたどり着くことで幕を閉じます。もちろん、最終的に「真」に位置付けられた作中内作品も細かく見ていけば、作家ディックの生きる現実世界との異動が見受けられ、このような作品内部で「真」の位置付けを与えられた歴史と現実の歴史との間の揺れをひもとかなければ滅多なことはいえないのですが、真実にたどり着くことが二項対立の世界からの脱却=外部への脱出を示すのではなく、むしろまた別の二項対立の世界=もう一つの内部に入り込むというデモーニッシュな反復が印象的でした。

 だからこそ、出発点でも着地点でもなく、ある内部からもう一つの内部への移動、書くことと読むことを通して演じられる移動を描く作家の眼差しこそが、作品の本領と感じられます。

繊細さを失わず、生活を見つめる:津島佑子「水辺」

 昨夜は眠れなかった。築30年を超える私のアパートの窓は、時折激しくガタガタと鳴って、その度にまどろみから覚まされた。そして、このような嵐の夜に、その風雨の影響を受けず曲がりなりにも睡眠をとることができるとはなんということだろう。住むべき家があって本当に良かった、という安心感から再び眠りにつくということを繰り返した。

 

 あとから読み返した時に思い出しやすいように、この度の台風に関するニュースをはっつけておく。

www.tenki.jp

 

 

 明けた今日、台風一過。素晴らしい天気である。部屋が明るくなって風が吹き抜ける。

 

 爽快感に突き動かされるように、津島佑子「水辺」(以下、引用は『光の領分』(昭和54年9月、講談社)より)を読んだ。

 

光の領分 (講談社文芸文庫)

光の領分 (講談社文芸文庫)

 

 

 夫との離別から一人で娘を育てなければ行けなくなった母の、生活へのかすかな期待と不安感とが、相互の葛藤が織りなす繊細さを捨象しない形で丁寧に掬い上げられる。第一に印象に残ったのは次の一節。

 

娘の父親であり、私の夫である男だが、私はすでに一ヶ月以上、その男の知らない、知らせようもない、とりたてて大きな事件は起こらなかったが、その平穏なことに、かえって、これからの日々への恐れを膨らませずにいられないような生活を続けてきてしまっている。安定を保てるはずがないのに、一向に倒れず、それどころか、そのまま根を張り、新しい芽さえ覗かせようとする、歪んだ、こわれやすい、透明なひとつのかたまりを眼の前にしているような心地だった。それが見えるのは、私の二つの眼だけなのだ。藤野と再び、夫婦として、なにげなく顔を合わせるには、私はあまりにも、この新しく自分に手渡された不安定なかたまりに愛着を持ちはじめていた。(43-44頁)

 

 「私の二つの眼だけなのだ」という箇所に、不安定な足場に立ちながら、揺れ動く生活の実相を見つめる覚悟を感じ、はっとする。

 一人暮らしを始めた自分は、自分の二つの眼によって、眼の前に去来する複数の不安定性をしかと見つめられているか、それ以前に、見つめようとしているか、と考え込んだ。

 第二に印象に残ったのは次の一節。

 

藤野から電話が掛かってきたのは、その次の日の夜だった。私には、ますます藤野の気持をこじらせるような応対しかできなかった。藤野の声を聞くたびにどうして足が震えるのか、分からなかった。

 同じ夜、私は自分が銀色の星の形をした器のなかに坐っている夢を見た。器は少しずつ回転を速め、気がつくと遠心力で、私の体は平たくなり、壁に貼り付いていた。許して下さい、と叫ぶと、中学生の頃の同級生が私の星を見上げて言った。

〈あなたは、どうして、そう、だめなの〉

 同級生と言っても親しく口をきいたこともない、ずば抜けた成績の持ち主だった。いつも級長に選ばれていたのはともかく、容姿も整っていたので、男友だちも多かった。それにしても、あの人を今頃、夢に見るとはそのこと自体、馬鹿げている、と思いながら、そんなことを言われたって、だめなものはだめなんだもの、と涙を流しながら弁解をしていた。それに、これでも見捨てずにいてくれる人だっているわ。本当よ。きっと、いるわ。(45-46頁)

 

 他のようではあり得ない自分に関し、許しを請い、請いながら許しの到来を薄弱な確信とともに待ち続ける。「きっと、いるわ」から受け止めることができるのは、信仰というテーマと思われる。

 屋上における給水塔の漏水といった小さな事件をきっかけにして、語り手が直面する日常生活における問題のその先が見えたり、あくまで解決に至らない部分の堅固さが改めて確認されたりする。その繊細な筆致に感銘を受ける。

 私たちが直面する問題、その困難、その解決の糸口はどこか遠くにあったり、何か大々的な事件の末にやっとその全貌が明らかになるのではない。常にそれらは手の届くところにあり、「二つの眼」で生活の細かな事象を逃すまいとして見るものに明らかになるのだろう。

 

 今日は森鴎外記念館のモリキネカフェに行った。悪くなかった。そのあと、東大の総合図書館に行ったが、入館証を忘れて入れなかった。無念。

「やりがい搾取」の弊害

 今日は顧問をしている部活動の練習試合があったので、1日学校にいた。

 いくら仕事場である学校にいるとはいえ、部活動のための休日出勤である。だから、本来は自分の好きなことをしていていいのだ。実際に同じように休日出勤をしている同僚たちは思い思いのことをしている。大きな声ではいえないが、インターネットゲームをしているものもいる。

 しかしこの辺りは僕の弱いところで、いくら休日とはいえ、職場は職場なのだから、本当に自由にしてはいけないという意識がどこかから顔を出し、結果自由にできない。いや、行為だけ見れば自由にしている(漫画を読んだりツイッターをすることがある)のだが、「このように自由にしていていいのだろうか」という疑いから無縁ではない形でそれらをしているので、結局心のそこから自由を謳歌しているという気分にはとてもなれないのである。

 それに、腰まわりや肩周りの筋肉があまりない僕にとって重要なのは寝転がる動作である。が、学校は、おおっぴらに寝転がれる場所に乏しい。僕はもちろん、保健室を開けようと思えば開けられるのだが、いくら自由にしてよいはずの休日とはいえそこまではできない。いや、できるのか?していいのだろうか、保健室での昼寝を…?だめだ、それは。それくらいは、僕にもわかる。何か緊急の事柄が起きた時、顧問の僕が保健室で寝ていたら首が飛ぶだろう。一応、監督者として来ているのである。

 

 部活の顧問になることに関して、実は僕はやぶさかではなかった。

 部活動の顧問を教員たちがほぼ無給でやっていることが社会問題化し始めたここ二、三年の流れを受け、当然に僕も、そのような労働形態が不当であるということは声を大にして言いたい。

 ただ、それはそれとして、僕自身の中には手当の有無に関わらず、部活動に関わりたいという気持ちが確かにあったのである。そして自分で、それは大変に不純な動機であるとわかっていた。

 なぜ部活に積極的に関わりたいのか?一番は、「生徒の成長を目の前で見守りたいからである」。ほとんどクリシェと化しているこの文言は、おそらく、こう言いかえられる。つまり可塑的で素直で自我が未発達な子供達に自分の影響力を及ぼしたいのだ。そのようにして、人に対する影響力の高まりにより、僕は喜びを感じるたちなのである。

 自分が生徒だった時の頃を思いおこそう。積極的に関わろうとしてくる教員には禄なのがいなかった。当たり前だ。教員を初めてほとほと実感するのだが、身体的・精神的な観点から言えば、生徒はほっといても育つのである。僕たち教員の役割として最も重要なのは、彼らが社会に出たときに必要とされる技術を身につけさせることだ。ことこれに関して、生徒が勝手に身につけることはあまりない。学校の授業でやらず、従ってテストで追い立てられることもなく、入試にも出ない教科を多くの生徒が学ぶことはまずない。

 例えば国語の教師としての僕の1番の役割は、目の前にある文章を書かれてある通りに読む力を身につけさせることである。次に、それを批判的に読ませることがくる。僕の役割は、生徒たちの人生におけるパトロンになることでは全くない。

 これは当たり前のことかもしれないが、学校現場で働き始めて驚かされるのは、生徒に慕われたい、彼らと精神的紐帯を結びたいと、陰に陽に思っているであろう教師が案外多いことだ。先に述べたように、僕もそう思っている。そういう動機から、部活でもやるか、と思っているのだ。

 というか、無給なのに部活の顧問がやりたいと積極的に思うなんて、それは生徒と関わりたいからに決まっているじゃないか。

 ということで思うのだが、部活のための手当がほとんど出ない現状における被害者は、何も教員だけでなく、自分の実存を満たすために顧問になる教員と接しなければいけない生徒全般だと思う。

飲酒事故で亡くなった東大生の高原くんに関する記事を書いた

 前回の記事で、僕は次に2012年に飲酒事故でなくなった東大生の高原くんに関して書くと述べた。

 

summery.hatenablog.com

 

 その記事を、僕は今参加している別のブログに書いた。

queerweather.hatenablog.com

 昨日サイゼリヤで一人ワインを飲み、若干酔い始めていた時、ふと「書こう」と思って一気に書いた記事である。もう少し書けるとは思ったが、現時点で書けるものを全て書きつくすのが、ことこのような事柄に関して、よいこととは限らない。

 この記事の末尾で書いたように、今僕にとってなにより重要なのは、彼を失ったことの悲しみを、僕の中で静かに深めていくことだろう。

 

 今日は気怠い真夏の休日であった。引っ越すための荷造りと称し、実のところは部屋でごろごろしていた。

 仕事は面白いこともあれば、つまらなくてたまらないこともある。そのように波があるということが、救いである。全てつまらなくてたまらないことだらけになれば、僕は転職をするだろう。今は、一応毎月新しい風景が拓けているという感覚があるので、この感覚が持続するうちは続けようと思う。

 

 

物語の力/創作の力とは何か

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 最近、twitterで自分と同じように、中高の教員をしている人をフォローするようになった。そうしてフォローした中の一人がつぶやいた以下のようなつぶやきが、昨日私のタイムラインに投稿された。二つの企業に内定した卒業生に対して、教員をしているツイッタラー、「あすこま」氏が投げかけた言葉に関するものである。

  

進路相談してきた彼に言ったのは「どっちを選んでも楽しいよ」ということ。人間の、「自分の人生もなかなか捨てたもんじゃないな」と信じたがる「物語創作」のパワーを僕は信じてる。まして言葉の力のある彼なら、どっちを選んでも、きっと満足する物語を作り出せると思う。

— あすこま (@askoma) 2017年6月30日

  

 上記のつぶやきに関し、僕は違和感を覚えたのである。

 

「「物語創作」のパワー」とは

 違和感を述べる前に断っておけば、僕は上のあすこま氏の、生徒の背中を押すような指導のあり方と、生徒がどのような選択をしようが「自分の人生もなかなか捨てたもんじゃない」と思うことができるようにあれかしと願う気持ちには好感を覚える。教師はそうあるべきだと、無責任な同意を送りたくなる。

 

 しかし一方で、「「物語創作」のパワー」を自分の人生を肯定することに結びつける氏の議論には首をかしげてしまう。

 何か語ろうとする事柄があり、それを語りたいという欲望があり、そしてそれを仔細に語りつくそうとすること。それを徹底的に行おうとすれば、多くの場合、当初自分の想定したものと異なるような結末に至るものではないだろうか。もしくは、何ということのないはずの細部や断片が思わぬ意味を持ち始めて、物語が単一的な線を逸脱し、自己瓦解に導かれるものではないだろうか。

 「「物語創作」のパワー」は、自分の生き方を、自分にとって肯定的なものとして認識するための、単なる技術に還元されるものではない。そう僕には思われるのだ。

 

 創作は必ずしも人を幸せにしない

 おそらく、あすこま氏は、物語創作を授業に取り入れることで、生徒たちが「自分の人生もなかなか捨てたもんじゃない」と思うことができるような技術を生徒たちに授けたいと思っているのだろう。氏の教育実践との関わりから、上のつぶやきは読まれるべきであると考えられる。

 もちろん、それができるのは一つの力だ。いかなる状況にあっても、「「物語創作」のパワー」により、「捨てたもんじゃない」と思えるのなら、その人は大丈夫だろう。国語科の目的に「生きる力」の養成を置くのであれば、あすこま氏の主張は一定の正当性がある。

 

 しかし一方で、僕自身は、それをどうしても行うことができない生徒の立場に立ちたいと思っている。

 そもそも、それができない生徒らは、「「物語創作」のパワー」を持たない故に、そのような状態に陥っているのだろうか。むしろ、事態は逆であろう。

 「捨てたもんじゃない」と言い切ってしまうことに違和感を禁じ得ず、常に「本当は自分の生などどうしようもないものなのではないか」という不安と戦う生徒の、その不安もまた、「「物語創作」のパワー」により生じてきている。なぜなら、彼らは、「捨てたもんじゃない」で語りを終えることができず、さらにまた、語るべきことがらを見つけてしまうからだ。彼らは創作のパワーを有するが故に、創作が終わってもなお創作を続けるのである。

 自己の人生を肯定的にとらえたいという自分の中の欲望や、「お前は自分が幸せでないとでも言うつもりか?」という周囲の無言の圧力。それらから不可避に生まれてくる、「「捨てたもんじゃない」人生」という名の支配的な物語は、都合のいいところで終わることに争い、終わってなおも創作しようとする強靭な語りの力の前では往々にして、掘り崩されてしまう。

 

 物語の創作を、徹底的に行おうとすること。それは必ずしも人を幸せにしない。それはむしろ、幸せと自認していた生活が思いがけず抑圧していたものを暴露することになりかねない。結局、創作の力の極北には、創作が創作でなくなってしまう地点がある。 

 

創作を破壊する創作の力

 そこまでいかない段階で、自分にとって都合の良い物語を作れるような技術を学び取り、人生を幸せに生きていこう、という主張はよくわかる。と同時に、物語る力の欠如ではなく、むしろ物語る力の過剰によって、それがどうしてもできない人たちがいることが、繰り返しになるが、僕には気になってしまう。

 そして、僕自身の中には、そのような物語る力の過剰さとともにある生徒らに対する願いがある。

 それは、「本当のところ自分の人生はどうしようもないもの(捨てたもの)かもしれない」という不安を持ちながら、「しかしそれがなんだというのだ、それでも僕は生きる」といきりたって生きていってほしい、という願いだ。「なかなか捨てたもんじゃない」というような脆弱な物語でかろうじて生きながらえるのではなく、否定性の中でも立ち上がって欲しい。どうか語るのをやめないで欲しい。

 

 物語る力の過剰さの中で、いくつもの物語を最終的に完結させずに終わる子らは、綺麗にまとまった物語のうさんくささを知るだろう。そうして、自分を究極的な局面で生かすのが、いま自分を支配している物語の枠組みの論理から考えた時、むしろ違和感を感じさせるような言葉だということがわかるはずだ。

 どういうことか。

 例えば、物語があなたを破滅に導こうとする際に「それでも僕は生きる」と生を引き受けるときの、「それでも」という言葉は「どうしようもない生」という不安を抱えた時の「なら死んだ方がマシ」という自然な帰結における「なら」に比べて、順当な接続ではないという意味で、物語内論理に従わない接続をもたらしている。しかし、そこで「それでも」と言ってしまうことで、私たちはその地点から、また別の物語を立ち上げることができる。

 

 支配的な物語から逃れ、新たな物語、自分自身の物語を開始することは、支配的な物語のストーリーラインから見れば奇妙に思われるような接続、または文法の破格によってもたらされる。それは、既存の物語の枠組みから見た時、むしろ話者の創作の力の欠如・瓦解を意味する言葉の使用だろう。

 しかし僕は、それもまた創作の力に他ならないと思う。それは、すでに創作されたものに対する破壊の一撃を加える。体裁の良い物語、耳障りのよい物語を生産することとは少し異なるところにある、物語の破壊と表裏一体の物語る力。それを僕は、幸せな物語に容易に安住できない子らに、身につけていって欲しいと思うのである。

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 本記事で述べた考えを一つの背景にしつつ、村上春樹の作品についてまとめた記事があるので、よろしければどうぞ

summery.hatenablog.com

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