SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

こち亀はどこで間違ったのか

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こち亀の「くそ」化

 別にアンチを助長するわけでは決してないのだが、数年前以下に紹介されているスレを見つけて、スレタイトルから驚かされたのを思い出す。

iwacchi.tumblr.com

 このスレタイトルがいかなる背景から登場するにいたったかということに関しては、以下の解説が参考になる。

 

解説
こち亀
こちら葛飾区亀有公園前派出所。作者は秋本治。1976年より週刊少年ジャンプにて連載開始、現在も連載中。
東京の下町・葛飾区の亀有公園前派出所を舞台に、破天荒な主人公の警官・両津勘吉が巻き起こす数々の騒動とそれらに彩りを添える多数の個性豊かなサブキャラクターの活躍を描いた痛快ギャグ漫画である。
初期はただの職務怠慢バイオレンスポリスマンだった両津だが、連載を重ねる毎に作者の画力の変化で丸みを帯びそれとともに圭角が取れた下町人情オヤジの要素が付加されていった。連載が軌道に乗った中期以降も、秋本治の緻密な取材とそれを活用する構成力、背景にまで細やかに気を遣う丹念さ、実験的で革新的なアイディアを武器に ジャンプ黄金期にあっても同作品は白眉であった。

 しかし、後期から現在に至り、女性キャラの奇乳化、女性新キャラの乱発無意味なロリキャラの登場、古参キャラの自我崩壊、起承転結を無視したストーリー、稚拙で場にそぐわないモブ・背景、少女漫画の描写を折衷させたが如き拙い筆致で連載を続け、無様な姿を晒す。同時に、両津は下町パワフル人情お巡りさんから 生意気娘のいる寿司屋の住み込み職人に転職。敬愛する春日八郎も忘却の彼方、脂の乗り切った30ぐらいの粋な女
(48巻/おにあいカップル!?の巻)が好みだったはずだが、今や単なるロリコン少女萌えオヤジとなりさがる。

くそら糞飾区糞有糞園前糞出所【こち亀】Ver.51(レス5番より)

 

 つまり「後期」におけるこち亀の変化を許すことのできない読者達が、現在のこち亀のあり様を貶すために用いられる言葉が「くそ」であるわけである。

 

 私自身は、長大なこち亀のすべてをカバーしているとはとても言えず、小学生の頃に中心的に読んだのは80~120だが、奇しくもこのあたりがこち亀の「後期」への移行期間であった。幼い私にも、「奇乳化」は目についた。もともとヒロインの胸はそれなりに大きく描かれていたのだがそれが巻を追うごとにいや増しになっていき、120巻ほどでピークを迎える。

 

 流行に聡く、凝り性の秋本氏のことだから、「今、女性の身体のデフォルメが来ている!」ということを90年代前半くらい(90巻台後半)に察知しそれに合わせていったのだろう。

 その認識自体は間違ってはいなかったのだろうが、まあ、あまりよい方向性ではなかったと思う。私は80巻台に一つの完成を見るような作者の下町への眼差しをこそこち亀の本領と捉えているからだ。

 

作者の下町への眼差し

 「作者の下町への眼差し」とはどういうことか。

 

 80巻台のこち亀を読むと、街並みを描写することに力が割かれているのがわかる。ストーリー上は必要ないような余りのコマに、ふと通りの一角が丹念に描きこまれていたりする。

 他のジャンプ漫画にこのような余りのコマはほとんどないといってよいだろう。通常どのコマも、何らかのキャラクタの動きや、ストーリー進行上不可欠な事物を描き出している。

 

 余りのコマに現れるしばしば異様なまでに力の入った下町描写は、漫画の企図が破天荒な警官両津勘吉の行動の描き出しにあるのではなく、その行動に焦点化することを通し、そのような行動が行われる街自体を描くことにあることを示していると考えられる。

 つまり80巻台のこち亀のコマは、それを描き出す作者が下町をどう見るのかという眼差しの物語でもあるのである。両津勘吉は、下町の風俗を描き出すきっかけとして機能している。

 

 私にとって80巻台のこち亀が面白かったのは、両津勘吉のキャラクタ造形に加えて、この作者の街並みへの眼差しだった。自分が下町を歩いたとしたら簡単に見落としてしまうであろう何の変哲も無い通りをあくまで丹念に描き出すことにより、そこに作者が感得している一種の情味が、読む私にもうつってくる。下町をみる見方というものを、私はこち亀から教わった気がするのである。

 

 だから、それが明らかに変化していく110巻以降を読むことは私に取って実りの多いものではなかった。上に引用した解説のうち、以下の部分は思わず頷いてしまう。

後期から現在に至り、女性キャラの奇乳化、女性新キャラの乱発無意味なロリキャラの登場、古参キャラの自我崩壊、起承転結を無視したストーリー、稚拙で場にそぐわないモブ・背景、少女漫画の描写を折衷させたが如き拙い筆致で連載を続け、無様な姿を晒す。同時に、両津は下町パワフル人情お巡りさんから 生意気娘のいる寿司屋の住み込み職人に転職。

 そう、110巻〜120巻台に顕在化した秋本の新路線は私には迷走にしか見えなかったのだ。

 

こち亀はどこで間違ったのか

 120巻以降もたまに古本屋でこち亀を立ち読みすることはあったが、それらの新路線が効いてきているようには思われなかった。路線転換期の「稚拙」さが改めて作家としての新しい境地を開くことに期待を抱いてはいたのだが…。

 やはり、こち亀の本領は下町の風俗描写であろう。もちろん、秋本は以降も折に触れてそれに立ち戻りはしていた。しかし120巻台以降の下町描写は過度な情味を読者に押し付けるようなものであり、正直、鬱陶しくて仕方がなかった。80巻台に見られたような冷静な観察者に徹する作者ではなく、「これが下町だ、どうだ?いいだろう?」と盛んにせまる推しの強い作者がそこにいた。下町への新たな見方をそっと差し出してくれるのではなしに、自分の見方こそが下町の見方なのだと強要してきた。しようがない。どうせ、何を書いても打ち切りになることはなかったのだろうから。

 

 

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ジャンプ漫画についてはこちらもどうぞ

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ヒカルが碁に向かう姿のリアリティ:ジャンプ的成長物語の傑作『ヒカルの碁』

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 先週末に実家に帰って、ふと『ヒカルの碁』を読んだ。

 

ヒカルの碁 全23巻完結セット (ジャンプ・コミックス)

ヒカルの碁 全23巻完結セット (ジャンプ・コミックス)

 

 

 主人公が成長していく様を描いたジャンプ漫画として、この作品はジャンプ史上最高傑作と呼んでいいんじゃないかなと思う。題名で「碁」と名打っているが、この漫画は碁の漫画ではなく思春期の少年の成長物語だと私は考えている。

ちなみに:最近二年くらいの時を経て、改めて囲碁について考えましたのでもしよろしければこっちも併せてご笑覧ください。

 

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ヒカルが碁に向かうまでの描写が丁寧

 この漫画は、囲碁にのめり込んで行くまでのヒカルの心理的過程を、実に丁寧に描き出している。何しろヒカルが自発的に囲碁に向かうまで、単行本で4冊くらいある。主人公がスポーツなりゲームなり料理なり、何かに打ち込むジャンプ漫画は多くあるが、打ち込むまでの過程をこれだけ長く書く漫画は他にないのではないだろうか。

 おそらく囲碁というジャンプ読者の大多数にとって馴染みの薄い題材を選択したがために、例えばサッカー漫画等であるように「ライバルへの対抗意識」とか「弱い自分を克服するため」とかそういう単純な動機で主人公を囲碁に向かわすことは難しいと原作者は判断したのだろう。

 ヒカルが碁に打ち込むことになるまでの過程には、思春期の少年が抱える問題がいくつも登場する。例えば外から見られる自分(=佐為のいう通りに打ったことでほぼ最強近いパフォーマンスを出してしまい、強豪に追われる立場になった自分)と実際の自分(=碁など全く知らないし、自信を持てる技能を持たない自分)との乖離。また、打ち込む対象を見つけられない根無し草的なありように対する葛藤など。

 これらの問題に悩むヒカルの姿には共感できるし、それらと対峙する中で碁に向かって行く動機も納得できる。だから碁など全く知らない私のような大多数の読者も、「囲碁よくわかんない。読むのやめよう」とは決してならないのである。むしろ碁に向かうヒカルの心理的過程を追うことで、ヒカルというキャラクター、そして佐為にどんどん惹きつけられて行く。自然と、碁にも関心が高まってくる。

佐為の暴力

 ところで、今回改めて読み直して思ったのだが、この作品はなかなかシリアスなテーマも扱っている。それは佐為の暴力である。

 佐為はヒカル以前に江戸時代の囲碁の達人本因坊秀策に取り憑いていたということになっている。秀策は彼自身相当の腕前を持っていたが、佐為が取り憑いて以降、秀策は佐為の指示する通りの碁を打つようになった。そして、秀策は佐為の強さにより名声を獲得する。

 佐為は碁がもっと打ちたい、さらなる高みに到達したいという一心で、秀策に自分の碁を打たせるわけだが、このようにして秀策を自分の身代わりのように扱ったことの暴力性について、佐為が気づくのは、逆に今世で自分がヒカルに取り憑いた理由が、ヒカルの成長のためだったのではないかということに思い当たってからである。ヒカルは佐為のもとでメキメキ力をつけ、途中から佐為にあまり打たせなくなる。それを横目に見て、佐為は自分がヒカルに取り憑くことになった理由に思いをめぐらしたのだった。

 何かのために利用される側に立って初めて、自分もまた人を自分のために利用してきたことの暴力性に気付く、とまあ、こう書いてしまうといかにも凡庸なテーマだが、むしろ着目すべきは、この暴力性が、全く清算されずに終わるところであるだろう。

 

碁に殉死する存在としての棋士

 作品終結部で人のために碁を打ち、人のために生きるということが、「遠い過去と未来を繋ぐ存在としての棋士というテーマに回収されていく。棋士という存在の役割、運命が長大な時間的スパンの中の一部を継ぐことに求められ、秀策や佐為の死を意識するならば、棋士は碁という文化のために殉死するものと位置付けられている

 それでは、成長物語の主人公であるヒカルもまた、碁に殉死する存在としての位置付けを免れ得ないのだろうか。

 このことを考える上で注目するべきと思われるのは、佐為の消失後にヒカルが秀策の棋譜を見て改めて佐為の強さに気づき、慟哭する場面だろう。

過剰なヒカルの泣き顔

 今回読み直して思ったのだが、ヒカルが慟哭するこの場面は描き方として相当に奇妙である。まず作中でここほどヒカルの顔しか書かれなかった数ページはないだろう。しかも、モノローグ(というか、独り言)もなんだか性急である。あまりよく覚えていないのだが、記憶だけで述べると以下のような形だった。

自分が強くなったことで、佐為の強さが初めて理解できた

→もっとあいつに打たせてやればよかった。

→俺なんかじゃなくて、あいつが打つべきだった

 

  このような思考の流れがヒカル自身によって語られそれぞれのコマではこれ以上ないほどに、読者のショタ心を刺激するようなヒカルの泣き顔、落ち込み顔が強調される。この辺りは読んでいて申し訳なくなってくる。いたいけな少年の泣き顔をこれほどあらわに、それも1ページのほとんど全てのコマにアップで映されると、一種の過剰さを感じてしまうのだ。本来それほどジロジロ見てよいものではないものを、コマに従えば信じられないほど何度も、それも正面から見ざるを得ない。

 このシーンは、ヒカルの改心をこれでもかというほどに強調するために挿入されている。ここでヒカルは、自分のために碁を打つことよりも、自分よりはるかに神の一手に近い存在に碁を打たせることの方が、碁全体の発展に寄与するという観点から佐為に打たせるべきだったと言っているのである(もちろん、心の支えになっていた佐為との急な別れを受け入れられずに、戻って来て欲しい一心でそう言っている、という側面もあるのだが)。

 こういった個に対する全体を優先させる思想は、やはり個に対する暴力性を孕む。佐為自体はヒカルの独創的な手を横で面白がり、後押しするような温かな支援者であったりしもしたのだが、敗者を排除するような勝負の世界の過酷さは、やはりより優れたものを是とするような思想にヒカルを置いていく。このような暴力性こそが囲碁という共同体を成立させる一つの掛け金なのだということを作品は第一に述べているように思われる。

 そこでは棋士はあくまで、過去と未来をつなぐための多くの駒のうちの一つにすぎず、過去から未来へとつながる、そのつながり全体こそが優位に置かれているのだ。

 しかし他方で、消えかかる佐為がヒカルに対し、「楽しかった」と言おうとしたように、神の一手から程遠いところにあるような、目の前の一手を元にしたヒカルと佐為との関係のありようにもまた、固有の意味がある。「過去と未来をつなぐ存在としての棋士」のいま・ここ性がいかに描き出されているかということが、この漫画の成否をわけるポイントなのではないか。

 

ヒカルの身体の描出

 そこで見るべきなのは、おそらく思春期にあるヒカルの身体の描写なのだろう。ヒカルの少年らしい肢体の様々な動きは作中で生き生きと描き出されており、身体を持たない霊的存在である佐為とは対照的である。囲碁というと青白い痩せた少年をイメージしがちなのだが、小麦色に日焼けし、前髪部分を金に染め、ジャージを着込むヒカルは普通に運動部の少年っぽい。なんなのだろう、このギャップは。

 今日は疲れたので、続きはまた今度書きます。

物語を読めないと死ぬ Jホラー映画の論理と『リング』

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物語ることで生きる

 

 人は生きる中で、自分の人生の物語を措定する。本当は大部分偶然が重なって、たまたま今のような自己があり、またこれからも同様に大部分偶然の作用によってこれからの生が形作られていくはずだが、それらの偶然に意味づけをすることにより、偶然の偶然性を捨象し、その人にとっての、なんらかの必然性を見出していく。

 例えば、たまたま周囲に足が速い人がいなかったため学年で一番足が速い子がいたとする。その子が、「そういえば自分は子供のころからスポーツが好きだったし、得意だった。これからも足の速さに関しては誰にも負けない」などという物語を作ったとすれば、これは上で挙げたような偶然を必然性ととりかえ、自分の物語を作ったことに他ならない。誰もがこのように物語を作り、その物語に依拠して、現在の自己というものを確定している。

 偶然培われた可能性も十分にある性向を、家庭環境に還元して物語ろうとすることなど、誰もがよくやるのではないか。例えば「うちは代々実業家気質で、みんな結構独立心旺盛なんだ」とか。また、偶然に出会われた出来事を自分のこれまでの行いに対する賞罰に還元したくなる人も多くいるだろう。突然の不幸に見舞われて、「これは身勝手な私に与えられた試練なのだ。」とか。

 どの物語に関しても、「当たりだ」「外れだ」ということは実証的にはわからない。だから、「僕の人生の物語における語り手=僕の中ではそうしとこう」ということに過ぎないのだが、確からしい物語は他人の強い支持を受けることができたりもするので、ふと調子に乗って、それが自分の物語=フィクションに過ぎないことを忘れかけたりもする。

 今年3月に出た千野帽子さんの本は、人と物語との関係について語った本であり、以上の事情もわかりやすくまとまっていた。

 

 

 この本はweb連載をもとにしているので、内容の多くが以下から読める。

www.webchikuma.jp

 

 

 このように自分の人生を物語=フィクションとして捉えることは、人に迷惑をかけない限りは悪いことではない。それどころか、私はその人にとっての「その人の人生の物語」の虚構性を安易に暴くことは暴力的だとすら思っている。多かれ少なかれ、人は自分の作った物語に依拠して生きているのだから、いろんな人と一緒に生きていくということはその人の物語=フィクション=ウソの中に紛れ込んでいる、その人にとっての「本当のこと」を尊重することだからだ。…といって、できないことも多いのだけれど。

 

 

ホラー映画を観るのはなぜ?

 

 そこで表題にあるホラー映画である。僕はとてもホラー映画が好きで、よく直近に見たホラー映画の話を同僚にしようとしたりするのだが、あまり芳しい反応をいただけたことがない。「観ないですか?」と聞いたりすると「私ホラー苦手なんです。怖いじゃないですか。グロテスクだし。」という返事が返ってきたりする。確かにその通りだ。怖い、グロい、可哀想、痛そう、悲しい。こう並べてみると、なんでこんなもの観るんだろうと思われて来る。しかし僕は観たい時は割と片っ端から観る。

 「なぜ私はホラーを観るのが好きなだろう」−−−そんなことを時に考え、時に完全に忘れ、その問いとの関係においては不真面目な生活を送ったのち、先日たまたま映画『リング』を観返しながら、ピンときたことがあった。もちろん、それでホラー映画が好きな理由を言いつくせているわけではないが、しかし理由の一つを明らかにしている気がする。

 そしてその理由は、上で述べたような、人が生きる中で、物語を語らざるを得ないことと関わっている。

 

ホラー映画の主題は、生前の物語を探すこと

 

 『リング』は観たら一週間後に死ぬと言われる呪いのビデオを観てしまった女=浅川玲子の物語だ。玲子はその呪いを解くべく、元夫=高山竜司に協力を依頼し、二人で一週間の間に様々な画策をする。呪いのビデオに呪いをかけたのは誰なのか。そして、どうして。玲子らの必死の調べの中でそれらが明らかになっていく。

 

リング

リング

 

 詳しいあらすじは以下を参照

リング (1998年の映画) - Wikipedia

 

 『リング』を観返しながら、ホラー映画にしばしば現れる霊的存在への現世の人々による対抗は、その霊的存在の生前の物語を読み解くことによって行われるのだな、と気付かされた。

 『リング』で呪いのビデオに呪われた玲子が取る手段は、呪いの背景を探り、その原因を断つことである。これは多くの幽霊譚と同様だ。生前思い残すところがあった者が死後霊的存在として猛威を振るうに至った場合、生者が取れるのは大抵、その者の鎮魂・供養であり、そのためには自分らに呪いをかけるものが何に対してどのような思いを抱き、今このように呪いを自分らにかけてきているのかを、その存在の認識に即して正確に読解しなければならない。

 つまり、呪いを解き、猛威を振るう霊的存在を前にして生き延びることとは、その存在が呪いを開始するに至った物語を見つけることと不可分なのである。

 『リング』という映画が秀逸なのは、この「物語を見つけなければ死ぬ」という呪いの根本原理を最後のどんでん返しにうまく利用していることだ。

 

 

物語を誤読すると死ぬ

 

 玲子と竜司の調べで呪いをかけた存在は山村貞子という女と特定された。彼らは貞子の怒りを鎮め、呪いを解くために、貞子が呪いをかけるにいたった原因を特定した上で、貞子がいま、何をして欲しがっているのかということに関して推測する。そして、貞子の死体が眠っているとされる井戸の底に潜り、どぶさらいをしてその骨を見つけ、地上にもどしてやることで、呪いを解こうとする。

 どぶさらいの最中、一週間後に死ぬ呪いをかけられた玲子が規定の時間を迎えたが、彼女は死ななかったため、彼らはこの方針が正しいことをいよいよ確信した。

 しかし、その後、時間差でビデオを観た男の方は一週間後の時間を迎えて呪い殺され、女は自分たちの行為が結局呪いを解き得ていなかったことに気付かされる。つまり男は霊的存在=貞子の物語を読み違えたため、死ぬことになったのである。ここで、他人の物語の誤読は即、死に直結している。

 

 ホラー映画では多かれ少なかれ、超人間的・超道徳的な霊的存在(『リング』では山村貞子)が現れ、破壊的な暴力を生身の人間に対して振るう。ひ弱な現世の人間たち(『リング』では上述浅川玲子や高山竜司)は力という点では決して彼らにかなわない。現世の人間は、彼らの生前の物語を発見し、正確に読解するしかない。霊的存在たちの実証的な事実だけ捉えても、彼らの呪いを解くことはできない。読むべきなのは、彼らにとっての、彼らの中での真実性である。それは、彼らの人生の物語=フィクションを読解することでもある。

 このように、他人の物語の誤読が即、死に直結するという進み行きが、私にとってホラー映画が魅力的なものである理由なのだろう。なぜならそれは、物語を読むということの、もしかしたらわかりやすぎる効用を示しているからだ。つまり、至極単純にいえば、生き延びるために私たちはフィクションを読むのだ。ホラー映画というトポスでは、読解対象が霊的存在にとっての、彼らの中での真実、つまり一般的にいえばフィクション=虚構=「ウソ」のことも多いのだが、「ウソ」だからといっていい加減に読むことはできない。

 ホラー映画は絶望的で残酷で、できれば目を背けたい描写が続く。しかし、誰一人生きのこらずに終わるホラーは稀である。むしろ、力の面では決してかなわない存在に現世のひ弱な人間たちが対抗しうるという結末は、私にとっては希望に溢れたものに思われる。それも、大きな暴力に対し、正面から同様の大きさの暴力を当てるのではなく、それ自体最も非力に思われる方法−−−すなわち、読むことによって。

どんな映画になるのかな。宮崎映画『君たちはどう生きるか』を『風立ちぬ』から予想する。

   どうやら宮崎駿の新作映画のタイトルは、朝日新聞によれば『君たちはどう生きるか』らしい。正直かなり驚いた。この情報は朝日新聞デジタルより。

www.asahi.com

 

   同記事にも言及があるように、このタイトルは吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』からとったもの。

 

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

 

君たちはどう生きるか』はこんな本

   この本は一時期繰り返し読んだので、懐かしい。ウィキペディアからこの本に関する情報を引用しておこう。


君たちはどう生きるか』は、児童文学者であり雑誌「世界」の編集長も務めた吉野源三郎の小説。山本有三が編纂した「日本少国民文庫」シリーズの最終刊として1937年に新潮社から出版され、戦後になって語彙を平易にするなどの変更が加えられてポプラ社岩波書店から出版された[1]。児童文学の形をとった教養教育の古典としても知られる[2]。

君たちはどう生きるか - Wikipedia


   引用部に「「日本少国民文庫」シリーズの最終巻」とあるように、同書は当初戦時下の少年たちを対象として発刊された。

   「君たち」という高みからの呼びかけとともに、生きるという大きなテーマをストレートに問う題名から推測されるように、読み手の人格を陶冶することを目的の一つとするような「教養書」、修養書の類であると言えるだろう。


   この本で描かれるのは叔父さんを筆頭にした良識ある大人の導きに沿って物事を考えるコペル君という少年のありようである。コペル君は叔父さんの導きを受け、社会科学的なものの見方を身につけながら、個人とその集まりとしての社会、そしてその中にあっての自己という三者の望ましいあり方について考えをめぐらす

 

 で、ここからが本題なのだが、宮崎駿が『君たちはどう生きるか』を題名に置くと聞いて、驚くと同時に少しピンと来るところがあったので、以下それに関して述べる。

 

『君たちは〜』に現れる、教えー教えられる関係の描写

 もともと宮崎駿は教育に対して一家言ある映画監督である。例えば『教育について』という本に「こどもにいちばん大事なもの」という小論を書いているし映画制作の際にも子供たちに何を伝えるかということを折に触れて意識して作っていることをうかがわせる発言を何度か読んだことがある(こっちは出典あやふや)。

 

教育について

教育について

 

 

 今回宮崎が次回作のタイトルとして言及した修養小説『君たちはどう生きるか』は、先の記事に書いたように、題名もその内容も説教臭くはある。しかし、単なる説教それ自体ではなしに、小説の装いを以って、説教をする人=叔父さんとされる人=コペル君とのやりとりを書くことの意味は、教育者と被教育者との間にありうる1つの理想的関係を描出することにあったのだろう。

 多くの読み手にとってこの作品の読後に残るものは説教の内容ではなく、叔父さんの説教を素直に、まっすぐに受け止めるコペル君の純朴さなのではないだろうか

 

 宮崎の次回作のタイトルが『君たちは〜』であると聞き、すぐに思い浮かべたのは、今述べたような、この作品に描かれる教えー教えられる関係である。

 なぜそれを思い浮かべたのかと言えば、単に上で述べたように映画監督宮崎駿が教育を主題とした書き物をしたり、自己の映画の教育的側面にしばしば言及するからというだけの理由からではない。教え-教えられる関係は宮崎駿の映画作品自体の中に伏流するテーマとしてあるものだと考えられるからである。

 

宮崎映画における教えー教えられる関係

 宮崎映画では期せずして子供が異界に入り込んだり、不思議な力を得ることが一つの典型になっている。そしてルールのわからない世界に入り込んでしまった子供に対して、その世界のルールを教えるような年長者がしばしば登場する

 その年長者は場合によっては自分の意図に即して時に現実を捻じ曲げたり隠して伝えたりすることもあるのだが、教えられる子供の方はそれを純粋無垢に信じ、実行し、結果的には隠された謎を暴いたり、異質だったはずの周囲の世界を味方につけることになる。そして、ついにはその世界で力を持つ年長者の抱える問題にも肉薄していくのだ。『風の谷のナウシカ』(特に漫画版)、『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』はこのような作品の典型である。

 

 

 

ハウルの動く城 [DVD]

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千と千尋の神隠し [DVD]
 

 

 それでは、『君たちはどう生きるか』もこれらに連なる作品になるのか。直近の『風立ちぬ』との連関で言えば、決してそうはならないと考えられる。というか、そうはならないように希望する。その理由を、ここから述べていきたい。

 

風立ちぬ』の場所−−−教育の暴力

 2013年に公開された、最後の宮崎駿監督による長編アニメーション作品(になる予定だった)『風立ちぬ』は、様々な意味でそれまでの宮崎アニメと比べ異色な作品であった。教えー教えられる関係の描き方にしても、例外ではない。以下『風立ちぬ』における教えー教えられる関係に関して簡単に述べていこう。

 

風立ちぬ [DVD]

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 『風立ちぬ』の前半では幼年期から青年期の二郎が雑誌等で知ったイタリアの航空技師カプロー二に薫陶を受け、夢の中で教育される描写が二、三度繰り返される。そして、この過程で二郎がカプローニから受容する飛行機に対するロマンティシズムは、技師としての二郎の活動を駆動していく。

 

 夢想的かつ内省的な人間像である二郎は自分の中で作り上げたカプローニに繰り返し教育されることで、理想を追い求めることのみに自己を方向付けていき、そこから生まれる犠牲(直接的には菜穂子)に盲目になっていくのである。ここでは、教育の暴力が扱われているということができる

 

抜け出せない/抜け出さない二郎

 これをナウシカの中の一部の描写と対比してみよう。漫画版『風の谷のナウシカ』で、崩壊前の世界の文物が残った園において、ナウシカが美しく心地よい幻想の世界に誘われるもそこから意志の力で離脱する。一方で、この空間に似ているカプローニのいる夢想空間から二郎はあくまで抜け出すことができない

 

 もちろん、優美な夢想的空間の陥穽が描かれていないわけではない。冒頭の夢で空中遊泳していた幼年期の二郎は、空から来た巨大で毒々しい飛行機に撃墜されて落ちるのであり、その後航空技師になってからの二郎の作る飛行機は冒頭の夢をなぞるように繰り返し落下する。

 しかし落ちるたびに二郎は新たな飛行機を作るのであり、二郎の飛行機制作はいわば夢の中での落下を克服するべく行われているようにも読める。つまり二郎が繰り返す試行錯誤には二郎自身による、二郎の中の夢想的空間を維持しようとする努力がメタフォリカルに仮託されているのだ

 

抜け出せない/抜け出さない人物への眼差し

 ナウシカ千と千尋ハウル、またそれらに限らず様々な作品で、宮崎駿は随分強い女の子を描いてきたと思う。彼女らは心地よい夢想の世界に絡め取られそうになっても、複雑怪奇なその世界のルールを一つ一つ把握し、唾棄すべき現実に改めて戻ってきた。たしかにその姿には励まされる。

 励まされるのだが、いつまでも夢想の世界から抜けだけない二郎のような人間像の方が私にはピンとくる。ここには、ある世界の見方から決して抜け出せない人物が描かれているからだ。ここで私は、(行き過ぎかもしれないが)東浩紀が『この世界の片隅に』に寄せた評を想起してしまう。

 

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 ことほど左様に『風立ちぬ』を観ると私には、二郎はこのようにしか世界を見られないのだな、と感じられる。

 

 戦争から遠く隔たった今日の私、苦難に対して決していつも強靭ではいられず、ともすれば自分に都合の良いものばかり見てしまう私は、自分の作り出した世界から抜け出せなさの悲哀、弱さの自覚から始めなければならないと思う。そのため、私にとって、『風立ちぬ』のような作品はとても気になるのだ。

 

 風立ちぬ』の二郎のように自分の作り出した夢想空間から抜け出せない/抜け出さない人間とそれゆえにその人物がふるってしまう暴力を作品の主題に据えるのは宮崎監督の新傾向といえるだろう。そして、この傾向が続くとすれば、『君たちはどう生きるか』もまた、そこに描かれた教えー教えられる関係の暴力性を暴露するような作品となるはずである。そして、そうなって欲しいと思う。これだけ長大な宮崎監督のキャリアの最後に置かれる作品が、年長世代からの若者への説教であったとしたら、本当に興ざめであるからだ。そうであるはずがない、と思う。

 

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風立ちぬ』についてはこちらもどうぞ。正直、公開からそれなりに時が経っているが、相当気になっている作品である。ジブリの傑作、であることは間違い無いのだが、どれくらい傑作なのか、というところをはかりかねている。

 

summery.hatenablog.com

 

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戦後70年の年に祖父が死んだ時のこと

 

 このブログで一番読まれているのは、勢いだけで書いた猫の死に関する記事である。

 

summery.hatenablog.com

 

 飼っていた猫の死は当時僕が体験した、もっとも身近な死であった。必然的に強く印象に残った。

 それから一年後の2015年、僕は母方の祖父の死を経験する。先に観た大林宣彦監督の「この空の花−−−長岡花火物語」を改めて観た今日、祖父の死にまつわる大きな失敗を鮮明に思い出したので、ここに書いておこうと思う。

 

 祖父が死んだのは三年前の冬のことだ。祖父は癌であったが、それを知らされずに死んでいった。

 

 やや遠方に住む祖父に、僕が会いに行くのは小さい頃から決まって半年に一回だった。夏休みと正月。しかし、祖父の状態が危ないと聞いて、僕は例外的に、祖父が死ぬ年の秋、会いに行った。

 愚かな僕は特になんの意識もなく、「おじいちゃんが危ないかもしれないらしい」ということで飛んで行ったのだったが、祖父にとっては夏休みと正月以外に僕が会いに行ったのが衝撃であったらしい。

 そして、何も知らされていなかった祖父はことの重大さを知ってしまった。「この時期に孫に会ったことはこれまでになかった。わざわざ孫の方から、この時期に訪ねてくるということは自分は本当に悪い状態にあるのだろう」と祖父は推論したみたいなのだ。僕の顔を見て、「会いにきてくれて嬉しい」という趣旨のことを言いながら文字通りぼろぼろと涙を流す祖父の姿を見て、僕は「やってしまった」とようやく気づいた。

 そして、小学生時代にいつも楽しみにしていた、夏休みと正月に祖父母の家に行くイベントは、中学校に上がってから家族との集団行動全般が面倒臭くなってしまった僕の方がほとんど意識しなくなってからのちも、祖父にとっては重要だったのだ、と改めて気づかされた。「旅行のついでに寄ったのだ」と必死でごまかしたが、ここまできてまだ浅はかにもごまかしつづけようとする自分の卑しさばかりが汚い油のようにその場にこびりついていくようで、いたたまれなかった。

 折しも戦後70年を迎える年だった。予科練に所属し、8月15日に特攻命令を受けたものの、出撃一時間前に玉音放送が流れたことで、偶然にも一命をとりとめた祖父の、この70年はどんなだったろう。自分の生死という重要な問題すら、孫にひた隠しにされるようなこの家族のありよう、社会のありようは、14歳で終戦を迎えた祖父の夢見た新しい社会だったのだろうかと考え、帰りの新幹線で、僕の方は僕の方で泣けてきてしまったのを覚えている。

 

 今から考えると、やや感傷的だったと思う。終戦当時14歳だった祖父は、終戦にあたり、なんらか新たな家族のありようや社会のありようを夢見たのだったろうか。祖父にそのような公共的な精神があったかは疑問だ。少なくとも家族は、社会はどうあるべきかという話を祖父から聞いた覚えはない。

 しかし、祖父は真面目な人だったし、実は考えていたのではないかと僕は思う。ほとんど僕の願望(妄想)に近いのだが、そう思う。そんな大上段に構えた話を孫に話すのは恥ずかしかったからしなかっただけで、実際は考えていた、とかそういう事情であったのではなかろうか。私に孫ができたとして、私もそんな話を孫にはしないと思うから。

 

 僕は基本的に自分勝手でありながら、時折すごく真面目になることがあり、その真面目さに自分自身驚くことがある。この、自分の中にある他者性とも呼ぶべき真面目さは、母方と父方両方の祖父から受け継いだもの、と僕は自分の「人生の物語」の中で勝手に位置付けている。

 母方と父方、両祖父は完全に他人であるのだが、二つだけ共通点がある。第一に、双方ともに真面目で、規範意識が強く、強固な倫理観を持ち合わせている。そして第二に、二人とも満州事変から二、三年以内にこの世に生を受け、生まれた時から思春期半ばに達する終戦時までたっぷりと皇国史観を注ぎ込まれた。二人とも、特攻して散華するつもりでいて、上で書いたように、母方の祖父の方は、実際に命令を受けていた。父方の祖父の方はやや年齢が若かった。

 両祖父の真面目さと規範意識の強さは、僕には終戦を通り抜けたが故に形成されたもののように感じられる。それが、僕にとって、戦争の問題が遠い昔の他人事に感じられない理由である。すっかり話題が逸れたが、まあ、いいか。

 

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 上で書いたのは母方の祖父の方だが、その後2018年秋に父方の祖父もなくしてしまった。そのことは、以下の記事に書いた。

 

summery.hatenablog.com

 

 

 

 

 

押井守監督『スカイ・クロラ』:諦めることとともに生きる

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 今回は(今回も?)あまり一般読者に裨益する記事ではないのだが、好んで観るアニメ映画『スカイ・クロラ』について書く。現時点でこの作品について言及したりまともに論じているブログ記事などは少ないので、この作品に出会い、どうしようもなく気になってしまってなんとなく検索した少数の人に読んでもらえれば嬉しいと思う。コメントも大歓迎である。

 

 

https://www.amazon.co.jp/スカイ・クロラ-Sky-Crawlers-菊地凛子/dp/B00M90MG1A

 

あらすじ 

 一応、改めて自分の言葉でまとめておこうと思う。『スカイ・クロラ』は戦争請負会社に所属するパイロットである函南優一を中心とした物語である。

 この世界において戦争は国家間の争いであると同時に、人々が生を実感するために存在するショーとしての位置付けを持っており、そこで実際に戦う人々は人為的に開発された「キルドレ」と呼ばれる特殊な性質を持つ人々である。

 キルドレは思春期以降成長が止まり、殺されない限り生き続けるという性質を持っている。そして、どうやらあるキルドレが死ぬと、同様の癖や性格を持ったキルドレが新たにまた一人生産されるという会社側のシステムとなっているらしい。つまりキルドレたちは戦うために生まれ、死ぬとまた戦うために再生させられる。ここまでが設定。

 物語は新たに草薙というキルドレの女性が司令官をしている基地に配属となった函南がその基地で出撃して死ぬまでを描く。函南の機体の前任者は栗田といい、栗田は亡くなったようなのだが、戦闘で亡くなったということではないらしい。函南は様々な人の噂を聞く中で、栗田が草薙により殺されたということを知る。そしてまた、栗田と函南自身との間に身体的な類似性があることもいくつかの証言から示唆される。物語が進むにつれて、函南は栗田の再生として、繰り返しとしてあることが明らかになっていく。函南は草薙と接近していくのだが、この二人の関係の深まりも、草薙と栗田との恋仲の繰り返しとしてあるようだ。作中の世界における戦争は、このようなキルドレたちの小さな生死の繰り返しと不可分のものである。

 それでは、草薙はなぜ恋仲にあった栗田を殺したのか。草薙自身の告白によれば、草薙による栗田殺人の裏には、繰り返される日常から逃れたいと思った栗田による、草薙への、自殺幇助の依頼があった。草薙は栗田の生を終わらせようとして栗田を殺した。そして、今度は草薙が、栗田の代わりである函南に自分を殺してほしいと依頼する。

 しかし函南は草薙を殺すことはない。函南キルドレたちの生死の繰り返しを必要とする作中における戦争のシステムそれ自体を変えようとする。作中では絶対に勝てない敵であるティーチャーというパイロットがいる。ティーチャーは戦闘機パイロットでありながら、例外的にキルドレでなく大人の男であり、ティーチャーがいるゆえに、函南の陣営は戦争に勝つことがない。また、ティーチャーが時たま片方の陣営から片方の陣営へと転職することで、どちらかの陣営が勝つ形で戦争が終わることはない。ティーチャーはキルドレの世界の外部にいる、戦争を終結に向かわせない理由となっており、ルールそのものを構成するような存在である函南は勝てないことがわかりながら、ティーチャーに挑む。そして散ってゆく。

スカイ・クロラ』に出会った頃の僕

 最初に僕が『スカイ・クロラ』に出会った時のことから書き起こそう。この映画を初めて観たのは高校生のときである。渋谷の映画館だった。当時『崖の上のポニョ』も上映中であり、ポニョを友人と観た僕は、その際に映画館のポスターで目にした『スカイ・クロラ』の絵が醸す雰囲気が気になり、作品の内容に関しても、押井守という監督の名に関しても全く知ることなく、勢いで観に行ったのだった。

 一緒に観た友人二人は別に面白くもない様子だったが、僕はこの映画にどっぷりはまり、映画館で都合三度観たのち、浪人中も折に触れて観た。

 浪人中は英語の勉強という名目で、英語版を繰り返し観た−−−という記憶が残っているのだが、一つのフレーズも覚えておらず、もしかしたら日本語で観ていたのかもしれない(もちろん、 “Enough is enough”は記憶に残っている)。だとすれば全く勉強でもなんでもないのに、よくもあれだけの回数を観たものだと思う。

 同時に『攻殻機動隊イノセンス』の英語版も盛んに観ていたが、こちらは確実に英語で観た。その証拠にいくつかの英語のフレーズを覚えている。例えば「神は永遠に幾何学する、か」というキムの作り出した幻想世界におけるトグサの認識下でのバトーのセリフは”The god is ever lasting geometry”だった(そして時計の秒針のようなリズムとともにバトーの顔がこちらを向き、開く)。 

スカイ・クロラ』に漂う諦めることのペーソス

 当時の僕にとって『スカイ・クロラ』はいわく言い難い魅力を放つ映画であった。特に僕にとって気になったのは、作中人物同士の会話において現れる独特の離人感覚である。この背景には、人と関係を結ぶことへの諦念があると思う。

 作中の登場人物は互いの気持ちを事前に読み合い、相手にとって不快にならないように配慮しようと心労することはないし、妙なプライドを背景として相手より優位に立とうとするようなこともない。他者による承認を必要とはしていないし、相手にそれを与えようとも、また相手からそれを剥奪しようともしていない。つまり、会話を通して通常人が行うような贈与のやりとりや暴力の応酬を行うことはない。 

 彼らは他者の領域に必要以上に深入りしたり、相互に依存的な関係にならないように、注意深く距離を保つ。必然的に彼らの会話には笑いもなければ怒りも妬みもなく、喜びも悲しみもあまりない。

 しかし、だからといって個々の登場人物が機械のように悩みも苦しみも持たないというわけではなく、むしろ、人間関係や会話からそれらが表に出て来ない故に、細かな行動や目線の応酬などに現れる、表面上の人との距離の取り方と相違するような関係性への希求の匂わせが際立つ。

 この、言葉と相反する行動の微細な部分まで冷静に映し出すが故に映画に生まれるリリシズムと、その背景にある「所詮他人に対して持つ自分の期待や希望が叶えられることはあり得ず、他者と深く関係を結ぶことはできない」というような諦念からくる独特のペーソスが僕にはリアリティをもって感じられた。

 特に、思春期の高校生同士であれば、時に積極的に内面をさらけ出すような関係性もありえはするけれども、通常は自分の守る領域を崩されることが嫌で、大半の人はあまり積極的な自己開示はしないものではないか。

 もしくは積極的に自己開示するタイプであったとしても、自己開示しているつもりで実はぐるぐると真なる自分と異なる外面向けの自分の輪郭をなぞっていたりして、その矛盾に悩んだりするものではないだろうか。

 そのような、高校生だった自分が日常的に、(もしかすると否応無しに)とる/とってしまう他人との距離を、『スカイ・クロラ』の作中人物は自覚的かつ誠に如才なくとっており、自分がとる距離の想像以上の近さや遠さに関して悩んだり苦しんだりすることはない。もともと彼らには他者と関係を結ぶことへの深い諦念があり、彼らの他人と距離をとることの技術は、この諦めの深さ故に身につけてきたものであるというように思われる。

 僕には彼らの諦めが新鮮だった。本当はとうの昔に、自明に諦めていて良いものを諦めきれていなかった自分にとって、当たり前のように諦めてやり過ごしている彼らの生活は自分が拘った面倒なものから解放されている自由さがあるように感じられた。

函南が死んだ世界の現出 

 ところで、この度観てこれまでは全く気にならなかった作中の細かな部分がとても重要な意味を持って自分に立ち現れてきていることに気づかされた。具体的には、終結部に置かれた函南ティーチャーとの戦闘シーンの終わりの部分でのカメラの動きがそれである。

 当該シーンではティーチャーが函南の機体にまず強力な砲を二発打ち込み、コックピッドのガラスに函南のものと思われる少量の血流が観察される状態になる。この時点ですでに勝負は決しているはずである。にも関わらずティーチャーは執拗に、改めて細かい銃弾で函南の機体を蜂の巣のようにしていく。

 ここでコックピッドに直に打ち込まれた銃弾はおそらく函南を直撃して勢いよく吹き出す血が改めてガラスを染めるのだが、この場面、カメラはコックピッドの中から破壊される函南の身体を描くことも可能だったにも関わらず、徹頭徹尾機体を外から観察したのちに、それ自体が猛スピードで動く戦闘機に乗っているかのように加速し、機体に空いた一つの穴を通過していく。それはもう否応無しに、決して抗えないようなスピードで通過していくのであり、穴の通過は、トンネルを抜けるような明滅のエフェクトとともに描かれている。

 僕は、この場面が、押井のある種の期待を示しているのではないかと思う。なぜか。以下で説明していこう。

 終結部に至るシーンで、函南は、「いつも通る場所でも違う道をあるくことができる」というモノローグに現れるように、残酷なまでに繰り返される日常性を内破することを目的に、ティーチャーに挑む。

 函南ティーチャーへの挑戦はこれまで幾度となく繰り返されてきたキルドレによる大人の男への挑戦の中の一つにすぎない。函南はそのことに気付きながら、自らの意思で積極的にそれを繰り返す。そしてこれまでとは少し異なったなぞり方をしようと試みるのだ。

 ティーチャーにより手際よく、また執拗に破壊される函南の身体と機体とは、それだけ見れば、これまでティーチャーに破壊されてきたであろう数多の戦闘機の最後の忠実な繰り返しであると考えられる。

 しかしそれを冷徹に外から映し出すカメラは、観客に対して函南の死の一回性を際立たせる効果を持つ。函南と草薙とのやりとりをこれまで映し出してきた同じカメラが、他の機体同様に破壊される函南の機体を冷徹に映し出す時、観客は函南が辿ってきたいつもと同じ道の異なった歩き方を二重写しにして観ることができる。

 それはその他大勢の、無名の死ではなく、栗田の生まれ変わりでありながら、栗田とは異なり、また、同じようにティーチャーに撃墜された篠田や、それに連なる様々な戦闘機パイロットたちと異なる、繰り返しの中にあることを自覚した上で、自分の中の理由により自分で選び取った函南自身の死なのである。

 それを前提としてみた時、銃撃によってできた穴を潜り抜けるカメラワークは、繰り返されるだけの日常性とはやや異なった日常からなる世界への入り口を通過するように見えてこないだろうか。

 それはほとんど全くこれまでと変わらないのかもしれないが、ほんの少し異なる世界だ。なぜならそこには、函南という名前のある死が刻まれたからであり、ぼんやりとして過去のことをほとんど思い出せないキルドレたちにとって、おそらくしばらくは思い出すことのできるような函南の死が記憶に残り続ける世界だからだ。

 これは、草薙によりややあざとく、長いセリフによって語られた戦争がなくならない理由とは裏腹に、明示的に語ることを許されない、しかし確かにある、押井の期待の感覚であるのではないか。函南の死が何かを変えるであろうことへの。

押井の期待

 最近『スカイ・クロラ』の制作を追ったドキュメンタリーを観た。そして、若者たちへのメッセージを託して制作した『スカイ・クロラ』を押井は一番に若者が集まる大学(横浜国立大学)で上映したことを知った。

 アフタートークで押井は人生二周目に入った者としての自分から、一周目の途上にある大学生に語りかけていた。押井自身が、繰り返される日常を、小さな能動性を発揮することにより、少しずつ変容させてきたのだろうと、僕は押井の語りを見ながら感じた。変容させては、変容後の世界の、変容前と同様の日常性にあてられ改めて苦しんできたのではないか。

 あの函南の機体の穴を通り抜ける際の、カメラの臨場感。現実にはダイナミックな変容などまず起きない。日常は緩慢に、微細なところを変化させることを積み上げるしかない。

 にも関わらず、函南の死の直後の、その死により不可逆な変化が世界に刻まれるかのような、そしてそれを通して決定的に世界のルールが組み変わるかのような描写。それに、僕はクラクラするほどの衝撃を覚えてしまう

 クラクラするほどの衝撃とは、そこに託された切実さとの共振である。描かれるべき事柄が描かれている。それまでのストーリーから観て、力を入れるべきところに最大限の力が入れられている。ここを持って、私は『スカイ・クロラ』が賞賛に値する映画だと思う。『イノセンス』には決してなかったものが描かれている。『イノセンス』は正直、私にとって、知的に高度化されたパズルのようなものだ。

 誰にも理解されないと思うが付け加えておくと、『スカイ・クロラ』の機体の穴を通り抜ける描写に似たものを、僕は最近観た。それは、『この世界の片隅に』の時限爆弾シーンである。時限爆弾により未亡人の姉の娘と、右腕とを同時に失ったすずさんが、改めて目覚めるまでの意識の流れ。

 そこでもまた、トンネルをくぐるような明滅が描かれる。ここでも同様に身体の欠損により、不可逆的な変化が世界に刻まれる。それにより、世界のルールが組み変わる。実際に、あのシーンでは着物が組み替えられているのだ。これについては以前書いたので、参照されたい。

 

summery.hatenablog.com

 

 押井は自分の住む世界を内破させ、そこにおけるルールを組み換えようとした函南の試みを実際に成立させようと試みている。それは作品の物語内容としては成立していないかもしれないが、それを映し出すカメラを通して物語を観る観客の内部では、一定程度有効性のあるものとなっていると考えられる。

 なぜなら、内でも外でもなく、境界というもっとも危険な領域で、血に染まる函南のコックピッドを観た後に観客は、作中で自明視されている世界のルールの振るう猛烈な暴力を目の当たりにするからだ。

 函南は決して自分の試みにおいて他者の協力を要請しない。上で述べてきたように、そもそも他者の協力など、最初から諦めきっている。しかし押井のカメラは函南の試みを共同性に開こうとしている。作中でこれ以上ないほど強調されてきた諦念は、最後の最後で反転し、観客に対する問いの分有の希求として指し向けられる。もともと、あることを100回諦めることは、逆にそのことをどれだけ強く求めているかということの証左でもあるのだが…。

無名の死が名のあるものとして受け継がれる世界 

 とここまで書いてくると、函南の死を特権化しすぎていると言われるかもしれない。確かにそうだ。なぜなら、函南以前の死もまた、作中の登場人物にとっては名前の有る死であったはずだからだ。

 例えば、栗田人狼の死は草薙の記憶にも笹倉の記憶にも刻まれているし、また栗田の記憶の権化とも言えるような娘草薙瑞樹の大人になる生が草薙にはまとわりつく。

 『スカイ・クロラ』という作品の本領は、作中で強調されるキルドレたちの数多の死の、ショーとしての戦争を見ている観客の側にとっての無名性とは裏腹に、実のところ彼らの一つ一つの死がキルドレらの間では、名を持って密かに受け継がれていることを示している点であろう

 この意味では、函南の死は唯一の名を持つ死ではなく、いくつもの統計上は名を持たない、しかしその死の周りにいた人の中には分有されている名を持つ死の複数の中の一つであるはずだ。

 もしかすると、記憶が持続しにくいキルドレたちはそれらの死をすぐ忘れてしまうのかもしれない。しかし、諦念とともに生きる彼らは名の有る死をもしかするとすぐに忘れてしまうかもしれない自分について十分自覚的である。

 映画の問いはこうまとめられるだろう。すなわち、私たちは名のある死の固有性、一回性をすぐさま忘れ去ってしまうかもしれない。私たちはそれをいつまでも覚えていることを諦めなければならないかもしれない。それでは、諦めてあることを抱えて、どのように生きればよいのか。もしくは、覚えていることを諦めることの強度において、逆説的にも覚えているということはいかにして可能なのか

 『スカイ・クロラ』はこの問いには正面から答えていない。もしかすると、この問いは押井が『スカイ・クロラ』に込めた問題意識とは全く違う明後日の方向の問いかもしれない。それはそれでよい。作品はそれを生み出した作者だけのものではないから。

 

 

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 『スカイ・クロラ』と同じく、戦争を描いた映画として『この世界の片隅に』と『風立ちぬ』について注目しています。

 

summery.hatenablog.com

 

 

summery.hatenablog.com

 

あなたにとって戦争はどう見えるのか? 「この空の花−−長岡花火物語」「この世界の片隅に」:早稲田松竹に行ってきた。

 あけましておめでとうございます。年末に読んだ本や観た映画、行った場所の中で面白かったものをまとめます。

 別のブログに以下のような記事も書いたのですがこっちではこっちでまた別に書きます。

 

queerweather.hatenablog.com

 

映画:早稲田松竹に行ってきた。

 今年は一人暮らしを始めたこともあり、大晦日まで一人暮らしの家にいたのだけど、12月30日に映画でも観るかな、とふと思い立って早稲田松竹のページを見たら「この世界の片隅に」がやっているとのことだったので、行ってきた。

 

この世界の片隅に

上映スケジュール | 早稲田松竹

 

この世界の片隅に
 

 

 「この世界の片隅に」に関しては、ちょうど一年前頃はじめて観た際に、色々興奮し、以下のような記事を書いた。今読むと事実誤認の含まれる部分もあるが、基本的には間違っていないと思う。

 

summery.hatenablog.com

 

 しかし、一年ほど前ユーロスペースで観たときは割引デー的な日だったにも関わらず空席も目立ったのだが、12月30日の早稲田松竹、朝一番の回の「この世界の片隅に」は満席だったようである。ずいぶん話題になったからねえ。

 上の記事で、私が感じた同映画の新しさはほぼ書き尽くしているが、今回改めて観るなかで、場面転換やセリフ回しがうまく、安心して観ることのできる映画なのだなと思った。テーマに対する切り口や特定の場面の描写の鋭さに気を取られていて、そうした同作品の根本的な「基礎体力の高さ」に気づいていなかったのだ。

 

「この空の花−−長岡花火物語」 

 ちなみに早稲田松竹は基本二本立てなのだが、二本目は尾道三部作で知られる大林宣彦監督の「この空の花−−長岡花火物語」であった。

 

 

 大変失礼ながら、「この世界の片隅に」のついでのような感覚で観たのだが、第一印象は「なんかすごかった」というもの。色々自分でも書こうと思ったが、私が感じた「なんかすごいな感」が、以下の米光一成さんの記事で割と語られているので、ちょっと参照してみたい。

 

www.excite.co.jp

 

「まるで夢のような、でも本当の話」ってナレーションで、「長岡ワンダーランドに一緒に旅しましょう」とか言いだして、しょっぱなから、ワンダーすぎてついていけない

と思ったら、タクシーにのってる遠藤玲子松雪泰子)がカメラ目線で、「昔の恋人から手紙をもらったのです」って、こっちを向いて、説明台詞で早口で語りかけてくる。
なんで、こっち向くの! って思ったら、その手紙書いている昔の恋人も、書く手を止めて、くわっと頭をあげてこっち向いて、「生徒の劇を観てもらいたくて、手紙を書いたんです」とか言うので、いやいや、客席気にしなくていいから、ふつーに映画進めてくださいよ、と当惑する間もなく、18年前に時空飛ぶ

(引用、上記事より)

 

 いや、ほんとよね。俳優の謎カメラ目線や、その俳優の顔をやけに大きく正面から映し出すカメラワークに困惑。登場人物二人の間の会話でも小津映画みたいにそれぞれの発話を正面から映したりする。

 

ふたりが別れるシーン。
別れ際に、遠藤玲子が「戦争なんて関係ないのに」って、突然、本当に何の関係もない話題を! 男も、そりゃ「せ、せんそう!?」って驚きますわな。しかもテロップで「戦争」って出てくるので、客も驚きますわな。
男(長髪のカツラをかぶった高嶋政宏)、その後、何をとちくるったか、真剣な顔で「痛い! この雨が痛い!」
わけわかりません!
しかも、これが何だったのか、最後までぼくには分からず、っていうか、これぐらいの不思議は、ここから先の怒濤のワンダーにくらべれば些細なことなので、これっぽっちも気にならなくなる。

長岡で先生やっている男の前に、花という謎の少女が突然あらわれます。
「まだ戦争に間に合う」という脚本を持ってきて話す少女はバストショットで映し出され、なぜかゆらゆら揺れていて、どうしたのこの娘?って思ったら、一輪車に乗ってる。
教室の廊下を、一輪車で駆け抜ける花。

(引用、上記事より)

 

 そう、この映画のテーマも戦争なんだけど、特に戦争が出てくる必然性が見えないようなところに突如挿入されてくる。これには驚かされるのだが、一方、私には既視感もあるように思われた。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』である。同作品中で主人公岡田トオルの窮境は、一見なんの関係もなさそうな占い師の老人のノモンハン事件体験記を通して奇妙な形で切り抜けられることになる。このことは、別の記事に詳しく書いた。

 

summery.hatenablog.com

 

 この二つの作品が示そうとしているのは、「今、戦争を体験していない世代にとって、戦争というのは、普段の日常生活になんの関係もないはずなのに、なんだか気になってしまうものである」ということなのかなあ。そういう感覚を出しているのかなあ。ちょっと答えは出ないのだけど。

 印象的だったのは上引用部にもある「まだ戦争に間に合う」というフレーズ。もちろん、形式的には終戦/敗戦を境に終わったとされるはずの戦争が、戦後もそこに根ざした問題がまだまだ大量に残り続けているという意味で「本当に終わってはいない」という議論はずっと前からあるが、それを彷彿とさせながら、一方ですごく戦争に加わりうるという感覚に根ざす実存的なロマンティシズムを喚起させるようなフレーズである。まだ戦争は続いていて、私たち一人一人はそこに参与し、散華しうるのだ、とでも言うような…。

 戦争なんてない方がよいのに、「まだ間に合う」と言われるとなんらかのことを自分がしなければいけない/したいという気分になる。しかし戦争に参加すること自体が戦争を駆動させる部分があることは確かで、その意味で、若干危険なものを感じさせるフレーズである。

 上引用部で言及がある一輪車に乗った子=花は、新聞記事にあったこのフレーズに触発されて戦争を主題とした演劇の脚本を作り、その上演を試みる女子高校生。この花の演劇にかける一途さも、ちょっと怖い。戦時中だったら、花は優れた戦士になったのではないかと思わせる。

 

あなたには戦争はどう見えるのか

 ところでちょっと与太話はここまでにしてやや真面目な話をしたいのだが

 「この空の花」と「この世界の片隅に」を連続して観て、少し思ったことがある。それは、この二作品が両方とも、「この映画を見ているあなたにとって、戦争とはなんですか?」という問いかけをはらんでいるということだ。

 「この世界の片隅に」ではこの問いかけは割と直接的に現れている。ことりんごによる「たんぽぽ」というエンディングテーマで現れる「あなたにはこの世界どんなふうに見えますか?」という一節がそれだ。

 「この世界の片隅に」はその丁寧な時代考証に注目されることが多い。例えば以下の記事を参照されたい。

www.nhk.or.jp

 

 ここでは以下のような記述が見られる。

 

片渕さんは実際に料理を作り、味を確かめ、作品に投影させていきました。
徹底した時代考証によって、生き生きと表現される戦時下の暮らし。

(引用は上記事) 

 

 確かにそこに力が入っていることは事実だが、見落としてはいけないのは、「この世界の片隅に」という映画の肝心な部分では主人公すずさんのイマジネーションの世界が貫入してくることである。上で紹介した「『この世界の片隅に』で気になった時限爆弾シーンの着物について考えて見た」という記事では、時限爆弾により義姉の娘と自分の右手の両方を失うというシーンで、すずさんの頭の中のことが映画の全面にせり出しているように見える部分があるのだが、その部分について論じた。

 つまり、「この世界の片隅に」は、主人公すずさんにとっての戦争を描いているのであり、時代考証がいかに細かく行われていたとしても、肝心な場面で同映画は決して描写の上で「リアリズム」というわけではないのである。むしろそれは、すずさんのイマジネーションの世界における戦争を描いている。この落差。イマジネーションとリアリズムとの架橋され難い混在こそが、「この世界の片隅に」という映画の本領であると思われる。

 エンディングテーマの「あなたにはこの世界どのように見えますか」という問いかけは、従って映画のテーマに合致した問いかけである。「この世界の片隅に」はまさに、「すずさんは以上のように戦争を認識し、この世界を認識していた。それでは、あなたにとって戦争とは、この世界とは何か」という問いかけを発しているのである。

 ことほど左様に、「この空の花−−長岡花火物語」もまた、今を生きる人々の中の、戦争の認識、戦争へのイマジネーションを問うている。この映画は花という女子高生の戦争演劇作成を中心的に主題化するが、映画という虚構の中で、改めて虚構を作成する過程自体を描き出すこの手法は、ある個人が体験しなかった戦争を想像し、リアリティのある虚構として立ち上げていく過程を映し出しているとも言える。

 花にとっての戦争は、花にとっての戦争でしかない。しかし、それを丹念に追う映画を見せられた読者は、「それでは自分にとって、戦争とは何か?」ということを問わずにはいられない。「これはこの人にとっての戦争だ」と認識することは、「私にとっての戦争とは何か?」を問うことだからだ。

 

戦争へのイマジネーションを問うこと

 二本立てで二つの映画を見ながら、戦後70年。もはや問われるのは「私」にとって戦争は「どう見えるのか」という、イマジネーションの領域なのだなという感想を抱いた。一つ一つの戦争体験を元に、リアルな戦争のありようを復元していくという手法の限界を、表現はこうして乗り越えていこうとしているのだなと思う。

 イマジネーションを問うことは、フィクションの本領である。ウソかホントかの二項対立ではなく、「その「ウソ」は本当に、あなたにとって真実性のある「ウソ」なのか。」「その「ウソ」は、あなたの周りの人々とあなたとの関係をどう変えるのか?」という力強い問いかけを発するウソ=フィクション。二つの映画は、この70年間フィクションが不断に戦争の記憶と向き合い続けてきた、精華なのだなと思った。

 

 この二つを二本立てにする早稲田松竹は優れた名画座だなと思う。結構豊かな体験をさせてもらえた年末であった。