SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

「飼っていた猫が死んだ」の記事をリライトした。

f:id:Summery:20151025005755j:plain

 

 標題のとおり、「飼っていた猫が死んだ」の記事をリライトした。現在の自分から見ると違和感のある表現が散見されたため。よろしければご笑覧ください。

 

summery.hatenablog.com

 

合わせてこちらも。こっちは、特に現在から見ても違和感がない。

summery.hatenablog.com

 

そしてまだ生きている二匹目の猫。雌猫の方に関しては、こっちに書いた。今年で18かな。「飼っていた猫が死んだ」エントリで飼いた猫(ニャース)よりも長生きである。

summery.hatenablog.com

 

彼女は以下の記事にも出現していた。この記事は比較的うまく書けている。

summery.hatenablog.com

 

一人暮らしを始めて、これで一年半になる。実家に帰るのが基本的にあまり好きではない私が、それでも二ヶ月に一度ほど帰るのは、 猫がいるからだ。

 

 


 

私を教育した人の複数

 小学校の頃から現在に至るまで、都度都度私は教育されてきたのだが、同じ人に長い期間教育されたことは数えるほどしかなかった。例えば小学生時代。私の小学校では2年に一度クラス替えがあり、担任の先生が交代するタイミングは基本的にクラス替えに合わせてだったので、多くの人は6年間で3人の先生に教育されることになる。もちろん、実際には何かの事情で先生が変わる、ということはなくはないが、6年間の間で3人の先生の元で勉強した、という人がほとんどだったと思う。しかしなぜか、私の担任の先生は産休・育休でお休みになる方が多く、4年生までの4年間で4回変わった。5、6年生は同じ人だったので、小学校時代全体で見ると6人の先生にお世話になった。

中学校時代は毎年クラス替えがあり、3人の先生にお世話になった。部活、生徒会、塾でそれぞれ別の先生にお世話になった。中学時代はとにかく、いろんな人にいろんな側面で教育されていた。そういうのが窮屈な人にとっては無論大変だっただろうが、私は教育される状況によくも悪くも適応した。

高校時代も毎年クラス替えがあったが、1年生の時と2年生の時はたまたま同じ先生にあたったので、担任は2人経験した。大学以降でいえば、学部と修士で指導教官を変えたので一定期間私の教育に責任を持ったのは2人。博士1年目は修士の時と同じ指導教官だったが、その指導教官が今年で定年なので、D2になるタイミングでまた変わる。

他方仕事の方では、まだ2年目終わりなのだが、直属の上司はこれで4人目。といっても1人は1週間だけだったから実質3人目。しかしたった2年で、ということなので十分多い。

ある程度の期間、私の教育者となってくれた人は、この人生で16人。四月から指導教官が変更するとともに、仕事の方でも上司が新たになるので、18人になる。随分な数である。私はどうも、ある一人の教育者のもとで数年なりと落ち着くことの少ない運命を辿っているらしい。

 

私は多くの人を教育者として持てるのはいいことだと思う。ある1人の考え方に強く規定されすぎることはないからだ。

多分内田樹だと思うが、父と母の意見は食い違うくらいがちょうどいい、ということをどこかの本で述べていた気がする。なぜなら、その環境下で、子供は父の意見のとおりにすることも、母の意見のとおりにすることも、また、父と母の意見が異なることを理由に、自分の考えのとおりに第三の道を選ぶこともできるから。この話は自分を教育する教育者についても言えることだと思う。

多くの教育者を持った私は、都度都度の教育者の言っていることに影響を受けながらも、スパンを長くとれば基本的には誰かのいうとおりそのままではない道を生きてきた。小学校の先生が私に期待した道も、中学校の先生が私に期待した道も、結局は選んでいない。それが現在の、働きながら大学院という中途半端といえば中途半端な選択に結びついているのかもしれない。それが成功か失敗かはわからないが、ともかく私は自己の選択をある程度能動的にして来られたのではないかと思っている。

橋本治の死去に驚く:「ずっと若い人」の死

橋本治が死んだ

タイトルどおり、作家・橋本治さんのご逝去に驚いた。

作家の橋本治さん死去 70歳 | 2019/1/29(火) 18:13 - Yahoo!ニュース

橋本治については以前別のブログに書いた。そこから少し長めに引用しておきたい。

 

引用元記事

queerweather.hatenablog.com

 

橋本治という人

 さて、ここで、話を橋本治という作家本人に移してみよう。数年前から、橋本治という人物が私には気になっている。

橋本治というのは誠に変わった人である。まず文壇の中での立ち位置が変わっている。本人の言によれば、橋本が書いた本は小説・評論・エッセイと多岐にわたり、その数180点を超えるらしいが、特定の著作が話題に上らない。


 橋本は評論の分野では小林秀雄賞など権威のある賞を受賞しており、小説も若干説教くさい(後述するが、これは厳密には橋本なりのサービス精神なのだろう)が、とにかく読ませる。実力は十分にある書き手である。

 かつまた、現在進行形で盛んに文芸誌に小説を発表したり、新書を書いたりしている。それも、かなり盛んにしているのだ。例えば最近では『知性の顛覆』が出版されたし、雑誌『新潮』10月号では「草薙の剣」という小説を発表している。

新潮 2017年 10 月号

新潮 2017年 10 月号

 橋本は決して終わってしまった昔の作家というわけではないことがここからわかる。

 にも関わらず、文芸の世界でも、評論の世界でも、橋本治が話題に上ることは少ない。


 なぜなのだろうか。
 その第一の理由は、橋本という人間の区分けしがたさにあるのだろう。橋本は作家でもエッセイストでも評論家でもあり、そのどれか一つに彼を還元して語ることは出来ない。いうなれば彼は物書きであり、それ以上でも以下でもない。だから、小説を論じる文脈でも、評論について語る文脈でも、橋本を登場させづらいのだ。橋本を登場させると、話が小説や評論といった特定の分野におさまりにくくなる。


 第二の理由は、彼の書くものの性質による。たとえば橋本の評論は、彼自身が述べるように、とりとめのなさを孕む。まとまっていないような印象がある。しかし、一方で全体に一本の筋が通っていないのかといわれれば、筋がないわけではない。
 なぜそのような文章になるのだろうか。これもまた、評論家でありエッセイストでもある橋本の性質によるのであるのだろうし、橋本が何本も並行し、多くの執筆活動を行っているが故のものともいえるだろう。議論を精緻に構造化するには、橋本のようなスタイルでは、時間が足りない。それに、橋本の饒舌でわき道にそれる語り口のよさは、それでは発揮されないのではないかと思われる。


 今私が「まとまっていないような印象がある」と評したため、橋本の著作がわかりにくいように想像する人もいるかもしれない。しかし特にそういうわけではない。鋭敏かつ明快な部分は多くある。それと同じくらい、明瞭にいえるはずなのに何かに遠慮し、韜晦を含む部分もある。
 橋本は自分が商売をやる町人の息子であるから、どうしても多くの人にサービス精神を発揮してしまうと自著で述べている。また、これだけ多くの作品を発表している書き手の言葉とは思えないが、注目されすぎ、偉くなりすぎることで目をつけられることを恐れてもいるらしい。このような、外見から見える派手な仕事ぶりの一方で存在する世間への繊細な気回しが、橋本の単にわかりやすいというわけではない部分(わかりづらいというわけではない)を構成しているのだろう。

 この橋本が、老年にいたるまで毎月の返済額が100万円にも上るような巨大な借金をバブル期に作り、それを抱えながら仕事をしていたという事実は、意外といえば意外な話だった。橋本の過剰なほどの多作は、経済的な要請に駆られてのものだったのか…となにやら腑に落ちるような気分になったりもする。
 しかし橋本自身の言を信じるのなら、これは事態が逆なのであって、借金を抱えてしまったから否応無くたくさんのものを書かなければならなくなったというよりは、自分はたくさんのものを書けるし書き続けていけるという確信があったからこそ、借金も出来たということなのらしい。

「ずっと若い」橋本

 正直、私は橋本治の本をたくさん読んできたわけではないのだが、私にとって橋本はずっと気になる存在であった。それは上で引用したように、橋本が文壇でトリックスターのような位置にあるから、というだけではない。膨大な橋本の著作を時たま少量拾い読みしながら、私は橋本について「ずっと若い人」という印象を抱いていて、それが私にとって橋本が気になる存在であり続けた理由である。

 これは奇異に映るかもしれない。なぜなら、何の著作で言ってたのか、もう忘れてしまったのだが、(多分『貧乏は正しい』というシリーズ的評論のどれかで。ないし内田樹との対談で)橋本は早く年老いたい、早く50になりたい、というようなことを若い頃思い続けていた、と述べていたからだ。

貧乏は正しい! (小学館文庫)

貧乏は正しい! (小学館文庫)

 
橋本治と内田樹 (ちくま文庫)

橋本治と内田樹 (ちくま文庫)

  

 しかし私の目からはむしろ、橋本は年老いてなお、若さを温存しているように見えた。たとえれば、「ずっと若い人」という感じである。特に『勉強ができなくても恥ずかしくない』三部作(ちくまプリマー)は、大学受験勉強に向かう周囲に違和感を覚え、最後まで躍起になって勉強しようとしない高校生の姿を描いて終わる。

 高校生の姿を描いているからと言って橋本が若いということにはもちろんならない。しかしこの著作からは橋本の、受験勉強という社会が用意した競争システムに乗っかっていく前にあり得た少年少女たちの共同体への憧憬が見られる。そしてそうした共同体にありがちな、大人の社会の論理に対して真っ向から素直に対抗していくことを、橋本はその人生をかけてやってきたのではないだろうか。

 上で引用したようにいくらでも物を書いていく自信があるから、多大な借金を負っても大丈夫、というような無謀さ、多大な借金をして買った住居の価値が無残に暴落することに現れるような暴力的な資本主義の支配する、大人たちの世界に対して、一人ペン一本でどこまでも対抗し続けようとし、実際にそれをやりきってしまうという無謀さは、私に痛快な「若さ」を感じさせた。

 そして翻って、橋本よりもはるかに若い私がいかに「嫌な大人」になりつつあるか実感したりした。それが私が本を通してしか知り得なかった「橋本治」という人物に関する経験だった。

 内面がない登場人物たち

 ところで上の引用部でも紹介した橋本の最近作『草薙の剣』は11月に野間文芸賞をとった作品である。選評では登場人物たちに内面がないことが特徴として指摘され、橋本自身は昭和以降の日本の時代自体を主人公にした、と述べていた。

草薙の剣

草薙の剣

 

 橋本はこの作品で近代以降の日本の小説の大概がそうであるように登場人物の複雑な内面心理を描かなかった。色々なエッセイを見ていると思うのだが、橋本は複雑に考えることを好まないのだと思う。それは橋本のエッセイが簡単だということではない。上引用部で言及している『知性の顚覆』をサクサク読める人は多くないだろう。単純素朴な問いを積み上げることで高いところまで行くのが橋本のやり方だった。『草薙の剣』は単純素朴な人間を幾人も描くことで時代の像を捉えようとした作品である。

 複雑なものを大人の側、単純素朴なものを若さの側に置くとしたら、橋本はやはりここでも若かったと思う。70年生きていて若かった。

 

***

 そういえば、最後に読んだ橋本治のエッセイは以下のリンク先だった。

www.webchikuma.jp

 

 面白かった。ご冥福をお祈りいたします。 

 

「どうでもいい」仕事との付き合い方がわからない

f:id:Summery:20160809150217j:plain

 

書き出しによって文のスタイルが結構変わるので、雑感の文体なら読む、という読者少数いてくれると、それは嬉しいことだなあと思ったりする。一応この系列につらなる記事の複数を末尾に貼り付けておく。

 今週は決断について考えることが多かった。本当に仕事で憂鬱だったから。といっても、全然大したことではないのである。こんなことで憂鬱なんて、バカにしてんのかと私が聞く立場だったら言ってしまうだろう。私は今年修学旅行担当をしていて、その中で文化体験プログラムを盛り込むかどうか。そのようなことで火曜日の午後丸々悩んでいたのだった。なぜ憂鬱なのだろうか。それは、決めてしまうと、そう決めた理由を全方位に説明しなければならなくなるからだ。1時間やそこらでちょっと風呂敷や扇子に絵付けをしたり、よくわからない安っぽい石で変な腕輪を作ったりしてもそれで文化を体験したことになるのかなんて微妙なのはわかりきっているから、反対の先生もいるし、それでもまあお寺とかを見ることを続けていてもマンネリなわけだから何か体験要素を入れる方がよいし、実際に持ち帰られて楽しいし、という先生もいるし、様々。行程が決まった後、その責任者である私にみんなが好き勝手色々なことを言ってくるので、その都度修学旅行の理念や教頭・校長の意向や私自身の意思など様々な基準に照らしてそのプログラムを取り入れた理由を説明しなければいけないのだ。

 自分のしたいように物事をできるのだから、それ自体は楽しいはずではないか、と言われるかもしれない。ふむ。確かに。だから一番の問題はどこにあるかというと、私にとって修学旅行がどうでもよすぎることだ。一般に「決断」というと何か自分の中の意思にしたがってしているはずと思われがちである。だから決断をしたんだったら、その人がやりたかったのだろう。やるにたる理由があったのだろう、と周囲から思われる。

 残念。私にとって修学旅行に文化体験プログラムがあるかないかは、本当にどうでもいいのだ。こんなどうでもいい仕事からはさっさと手を引きたい。あまりかかずらいたくないと思う。自分の意思がなく、面倒なことを避けたいと思うとどうなるかというと、ひたすらに誰からも何も言われないような無難な道を選択したくなる。ここで目的はよりよい修学旅行を作り上げることからずれる。けれども周囲の皆は、私がよりよい修学旅行を作り上げようとしていると、その目的は当然共有しているものと考えている。いやいや、そもそもやる気ないんですけど、とは口が裂けても言えないのが辛いところ。自分の中の目的が「誰からも何も言われない無難な選択肢をとること」である以上、この件に関して誰かが何か聞いてくるたびに、その目的が達成されないことの不満が自分の中で募りまくるわけだが、そもそも誰からも何も言われない選択肢などないので、こうした目的を設定してしまうこと自体が間違い。だったのだがねえ。

 心の底からどうでもいいと思う二択に関して、担当者として決断を迫られた場合、誰からも何も言われない選択肢を選ぼうとすると正解がなくなって決められなくなる。それが今回の失敗だった。しかし、どうでもいいのにどうでもよくないふりをするの、普通にきつくないですか。現実的には、どうでもよくてもどうでもよくないふりをするしかないのだが。というか、自分にとってはどうでもよくても、それを実際にやる人たちの身に立てばどちらがよいかはある程度きまるはずで、自己を中心にしないで考えようと思ったのでした。

ところで「どうでもいい」は私の口癖なのですが、この言葉すごく使いやすくて、なんでも大抵「どうでもいい」で済ませられてしまうのですが、過去に個別指導を初めて二ヶ月くらいで生徒に「どうでもいい」がうつって「テストの点とかどうでもいい」と言われた時はちょっとダメージを食らいました。いや、どうでもよくないだろ、と言いかけましたが、私自身が「テストの点とかどうでもいい」と彼に伝えてしまっていたからな・・・。どうでもいいんだけどね。ダブスタであることです。

 

 

 

summery.hatenablog.com

 

 

summery.hatenablog.com

 

 

summery.hatenablog.com

 

 

summery.hatenablog.com

 

 

 

駒場の西側

 昨日午後は久々に午後の街をゆっくりと歩いた。駒場キャンパスを西につっきり日本近代文学館の側に抜けるとある、閑静な街並みが最近のお気に入りである。一つ一つの家が比較的大きな空間を持っており、かつその空間を余すところなく使い切ろうとはしていない。そうした空間利用に豊かさを感じる。豊かなものがある、と思う。玄関と玄関前の空間の間にひっそりと設けられた、土の露出する一メートル四方の小さなスペースから、物語のカエルが傘にするような、幅が広く厚みもある緑の葉っぱが数多顔を出し、ほとんど土が見えなくなっている。

 縦に背の高い細い白木の板が合わせられて壁になっている家、コンクリート打ちっ放しの壁が道にせり出している家。素材やその素材の組み合わせ方として手が込んでいても、決して過度に自分自身を主張してこない。そしてよく見ると、相当に大きな空間を持っている。チラリチラリと見える内部と合わせ、それらの家の空間は、その空間を構成した主体の身体や時間感覚と不可分な印象がある。

 静かに落ち着いた場所でひっそりと布置される生活空間の記号。そこからは、背景となる物語の存在が透けて見える。文字によって伝達される物語に倦む。そうではなく、私の体がもしその中にあったら、私自身が感化されてまた、別の存在に変わっていくだろうと思わせてくるような、物語の時間と空間に入っていきたいと思ったりもする。読書はこちらから相手の物語を積極的に聞き取ろうとしてはじめて成立するもので、それは多かれ少なかれ一種のトラバーユなのだが、そうではなく、気づいたらそこにいた、という物語に会いたい。私の体の波長を通常とは異なるように読むことができるような、異なる文脈の総体としての物語の場にいたい。鳥が飛ぶごとにその影がさっと横切っていくような、それほどにも多くの面積と単一な淡い灰色のコンクリート壁を見ながら思う。

   決断が出来なくなった。仕事で自己の裁量を与えられていないから、というのは簡単だが、残念。そういえば昔から決断は苦手だった。不確定要素が大きすぎる、思い切った決断はできる。できないのは細かい決断。例えば二つの店の食べログを見て、忘年会の場所をどちらにするか、など。今の生の延長線上に、決断があるのか微妙

 

 

 

一人暮らしでできるようになったこと

f:id:Summery:20160120130254j:plain

 

 たまにすごくライトなことが描きたくなるので、今日は一人暮らしでできるようになったことを書く。

 一人暮らしを始めたのは一昨年の7月で、これを書いている2019年1月で今ちょうど1年半になる。全く完全にいいことづくめというわけではないが、主観的には大満足である。個人的な感慨を元にしながら、一人暮らしを始めてよかったことを挙げていきたい。

 

1:圧倒的に便利になった

 やはり調布の方の京王線沿線にある私の実家は、駅に近くはあったけれど、不便だったのだなと思う。私は勉強するときによく喫茶店を使うのだが、徒歩でいける距離に喫茶店はなく、一番近い喫茶店は電車ないし自転車で少なくとも20分以上かかった。しかも20分でたどり着けるのは駅前の喫茶店で、基本的に人でごった返しており、騒がしかった。地域の図書館は自転車で30分、通っていた大学までは電車を二度乗り継いで1時間かかった。社会人になってから一人暮らしを始めるまでの半年間は、職場が埼玉だったこともあり、電車で片道1時間半かかった。さすがに参った。

 今は都内の下町エリアに住んでおり、職場も異動により都内になった。通勤時間は片道30分。自転車で10分圏内に休日でも午後までは比較的空いている喫茶店が二つあり、大学にも同じく自転車10分でいける。国会図書館にも30分でアクセスできる。本当に、本当に楽になった。多少高くとも、便利な場所に住むということは重要だと思う。生活コストの低さから実家暮らしにこだわり、毎日往復2時間ほどかけて会社に通っている人たちには是非一人暮らしを試してもらいたい。自分が充実した生を送るためには、多少のお金は使うべきである。

 

2:食事の時間を自由に決められるようになった。

 実家にいると大抵夕食は作ってもらうことになる。すると、家族と同じ時間に同じテーブルに座って食べることになる。自分の都合で食事の時間を決めることはできなくなる。もちろん「食事は自分の好きな時にとるから」と言っておくこともできるし、実際そうすることも多かったが、そういうことをすると、ただ親に作らせているだけとなってしまい後ろめたい。もちろん、一緒に食べたからってその労力に報いている、というわけではないのだが・・・。

 また、「自分の好きな時に食べる」宣言をした上で、両親が食卓で食事をとっているところをスルーしてお風呂に入ったりキッチン周りの設備を利用したりするのはやりにくい。何かの作業に集中したい、などという特別な理由がなさそうであるにも関わらず、あえて一緒に夕食をとらないというのは家族を避けているのか、という風に捉えられてしまうのではないか、などと思ってしまう。そこで両親が食卓についているときは家の中での行動が制限されることになる。

 結果、家にいる間は基本的に、家族と夕食をとるか、そうでない場合には自分の行動がなんとなく拘束されている気分になってしまう。

 食事の時間を自由に決められるようになったことは、本当に大きなメリットである。

 

3:19時ころから仮眠を取れるようになった。

 2に関連して、夕食の時間を自分で決められるようになったので、通常夕食をとる時間帯である19~21時に仮眠をとることができるようになった。

 18時頃まで集中して何かの作業をしていると、大抵頭は使い物にならなくなる。そこで2時間ほど寝られればいいのだが、夕食があるとこれができない。結果、実家ではあまり夜の時間帯を有効に使うことができなくなっていたので、ここで寝られるようになったのは大きなメリットである。

 

4:深夜の喫茶店・ファミレス利用が容易になった。

 1と関連する事項。自転車ですぐに行ける距離にファミレスやマックがあるので、夜遅くになってもふと思い立って行き、作業できるようになった。家族とともに生活していると世間の目もあるし戸締りにかかる騒音もあるので夜遅くに、特段の理由なしに外出するのがためらわれる(するときはしていたけど)のだが、一人なので自由にできるようになった。

 

 総じていえば①自分の自由になる時間が増えたし、②自分の時間をよりよく使うことができるようになった。支出は増えたが、一人暮らしには満足している。今の感慨だけでいえば、これから先何年も、この生活を続けて行きたい。

 

 

四年ぶりの『風立ちぬ』考:叶わない夢を追うことのペーソス

 

f:id:Summery:20160807090410j:plain

 

久しぶりに『風立ちぬ』を観た

 四年前、『風立ちぬ』を観て急ぎ以下の記事の感想を書いた。タイトルのとおり、『風立ちぬ』を批判した記事だ。

 

summery.hatenablog.com

 

 その後、大学院でさらに勉強を進めたり、映画『この世界の片隅に』を観て戦争とその表象について考えた経験から、現在は若干異なる感想を持っている。昨日見直してみて、少し書いておかなければならないと思われたので、自分の『風立ちぬ』批判に対して四年後の現在の自分が応じておきたい。

 ちなみに『この世界の片隅に』について考えたことは以下のとおり。

 

summery.hatenablog.com

 

 戦争を映像作品で表象することについて少し考えたことは以下のとおりだが、この記事はちょっとおちゃらけ過ぎていて、近日中にリライトする予定。

 

summery.hatenablog.com

 

風立ちぬ』を批判する?

 「風立ちぬ」で私が興味深く思うのは、堀越二郎が足の骨を折ってしまった菜穂子の女中を背負って転んだ時に大汗をかきながらふと見つめた空の上の方にカプローニの作った飛行機と、それが飛ぶ美しく夢想的な色彩の空を観てしまうところである。そのような純粋な飛行機の美しさへの憧れ、それが人の手の届かぬ高みを優雅に舞うロマンを夢想的世界として挿入し、二郎が飛行機技師として成功を修めるという単純すぎる美談と結びつけることで、宮崎駿は物語の審美主義的色彩を強めているように思う。そう考えるとこれはかなり罪深いことといえるのではないか。

 四年前に書いた記事の一部で、殺人機械を審美的に描くことの危険性を指摘しようとしている。しかし、作品が完全に審美主義的ビジョンに中心化しているわけではない。そうそう簡単にわかるものではなくとも、危機の伏在はあちこちに描かれていた気がする。

 映画が二郎から見た世界観だけを描き出しており、それが揺らぐことがないのであれば、批判に値する。争点は二郎の世界が相対化される契機が導入されているのか、ないし、二郎の観念の世界を突き詰めていった結果、それが破綻をきたし自壊する様が描かれているのか、というところである。二郎が二郎だけの世界に自閉し、そこに安住する様だけが描き出されているのであれば映画は閉じたものであり、観客に二郎の思想への共感を要求するだけのものになるだろう。

 しかし、どうもそうではないような気がする。私はむしろ二郎の悲哀を感じる。悲哀を感じるというのはつまり、二郎自身の人間としての苦しみが、私に共感可能な形で描き出されている気がする、ということである。

飛行機を作っていたせいで殆ど顧みる事が出来なかった結果として死んだ妻が生き続けることを命じる最後の夢は、純粋な愛から来たものというよりも、何かデモーニッシュな力による生き続けることへの強制のように思われる。というのも、二郎は作中で飛行機を作る事、そしてまた、恋愛に全てを傾けていたように見受けられるから、「生きて」と言われても観客はそのあと二郎が何を糧に生きていくのかほとんど全く想像がつかないからだ。そこで本来は感動的な言葉であるはずの「生きて」が宙に浮いて、何もなくても生き続けなくてはならない、その後の生のはじまりを予感させる。

 最後のシーンで菜穂子が二郎に「生きて」というのは今回観返しても、あまりよい台詞と思えなかった。二郎にとって都合のよい台詞だと思う。そもそも二郎は生死の葛藤を抱えて来ていなかったように思うので、端的に最後の最後で生死の話を持ち出すのは的外れだと思う。もしそうしたいのなら、例えば二郎が、自己のつくった戦闘機が一機も帰ってこなかったことに対する何らかの形の責任感を感じ、死を選択せんとするとか(本当に「例えば」に過ぎないのだが)、そういう少なくとも二郎が生死の問題に拘っていることを示すシークエンスが挿入されるべきだと思う。

 

 自分の作った飛行機は一機残らず落ちて一つも帰ってこなかったにも関わらず、自分が技師という立場上戦争を生き延びてしまったこと、それについての問いを発しようとした直後に「生きて」という言葉に押されて感謝とともに生き続けることを選択する二郎、私が二郎に共感できなさを感じる原因は、彼の中の葛藤、問いかけの不在なのだ。彼は考えていない。そしてそれはある時には「働くのは男の義務だ」「この仕事を途中で辞めてもらう訳にはいかない」という社会の声によって、あるときは菜穂子の後押しによって許される。そして最終的に二郎はただ純粋なだけの人になっていくのが、面白いと思った。

 これに関しては、今も同様の感慨。むしろ、二郎が常に自分の中に抱いた夢に対して目的合理的にしか行動できないところに、どうやらペーソスがありそうである。つまり、彼の夢想する美しい夢の世界は本当は存在しない。そのことに彼は絶対に気づかない。夢の世界と現実との距離は二郎がいかに努力しても縮めることができない。

 本当は超越的世界に近づき得ないことに気づいて立ち止まる際にこそ他者との交感の可能性が開かれるのではなかったか。にも関わらず、菜穂子の「生きて」はむしろ、夢への追求をやめないように迫っているように感じられる。生きるべきか死ぬべきかと悩む地点から本当ははじまりうる周囲への開かれを、夢の中の菜穂子はあらかじめキャンセルしてしまったように思う。二郎は菜穂子と対話を交わす地点から二郎は始めなければならなかった。しかし夢の中で、菜穂子は一方的に「生きて」と言って消えて行く。

 

考えないことを許されている二郎を羨ましく思う。私は最近「考えろよ」と言われてばかりだ。菜穂子に最後「あなた、考えて」と言って欲しかった。それで二郎が「ありがとう」と返したらすごく笑えたのに。あーさすがにわかってたんだな、何にも考えてないということに、と思えたのに。

 四年前の私はこのように書いているのだがやはり菜穂子と二郎とが話し合う場面を四年前の私も期待していたのだと思う。

 もちろんこの菜穂子は二郎の中の菜穂子である。だから、最後の場面は、葛藤が生まれようとする瞬間にそれをキャンセルし、ひたすら自分の中にしかない、絶対にたどり着けない理想を求め続けなければならない二郎の、生きづらさの源泉とでもいうべきものと思う。二郎はあのあとも、周囲の他者を犠牲にして夢に邁進するだろう。そしてそれだけ真摯に夢を追い求めても追い求め切れることのない夢は、二郎の中でますます美しいものになるだろう。その美しさが、むしろ悲しい

 

 『風の谷のナウシカ』でも現れて来たテーマだが、生命を闇の中のまたたく光に例えたように、宮崎駿は決して美しい人間のありようを理想としているのではない。苦しみ、悶え、這いつくばりながら生きようとする生命の姿を描こうとしている。

 それではなぜ美しい風景が必要なのか。それは一つには美しい理想を追い求めようとしてしまう人間のありようを示すためであり、また一つには、美しい理想と現実との間の乖離をこそ描こうとしているからだ。