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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

23森岡正博『無痛文明論』−1

 知人の何人かが言及していたので、少し読んでみた。まだ100頁ほどのところなのだが、ここまででエッセンスとなる部分は大方提示された様に思われる。ここまでの感想を述べておきたい。

 

 森岡氏は人間に本来的に備わっている身体の欲望に駆動された無痛文明が、同じく人間に生得的に備わる生命のよろこびを脅かすという対立構図を描き、「無痛文明」がいかに巧妙に人々の思考や行動様式を規定してくるかということを様々な例を挙げながら詳説している。これらの筋立てはいずれも理解できるし、同意も出来なくはないが、以下の点について疑問をもった。

 

・「生命のよろこび」が何故「よろこび」なのかわからない。

 森岡氏は「生命のよろこび」を、身体の欲望に駆動されて求める快からは自動的、もしくは作為的に排除されるところの、困難に突き当たって、悩み、苦しみ、自己を変容させていく際に伴うよろこびとしており、そのよろこび方の例として、「生きていてよかった」というような実感を挙げている。そしてまたそのよろこびの根拠として、生命というのが変容していく存在である、という点に触れている。

 森岡氏の立論により、現代文明(この中に内在的なシステムの総体を無痛文明と氏は読んでいる)が恒常的な快を求め、それを是とし、そこからこぼれ落ちるものを非として排除していることはよくわかるし、これは同意できる。しかし、そこからこぼれ落ちるものを肯定する論理が希薄でそれらを再評価する理由がはっきりしない。むしろそれを「生命のよろこび」という曖昧でやや感情的な言葉でしか語れないことに問題はあるのではないかと思う。氏は「生命のよろこび」を説く言説やそれを求める行為自体が、無痛文明の中では消費される物語と化してしまうことを憂えているのでこの点について大いに説く事をしないのかもしれないが、私はこの点については説得的であるべきと思う。意図しない困難に突き当たり、自己を乗り越えるという試みによろこびが宿るとしたら、それは何故なのだろう。もしかするとそれがよろこびであるということは当然の前提であるということになっているのかもしれないし、私もそれが喜びであることとは思う。しかし、何故かと問うと、それはよくわからないのだ。

 

・大人対少年・青年という安易な二項対立が何故持ち出されなくてはならないのか。

 森岡氏は無痛文明に完全に組み込まれた社会の中で、大人達が社会に適応し、自分の生命のよろこびをある面自覚的に覆い隠しているのに対し、思春期の少年・青年達というそのような大人の体制順応的な側面に敏感で、無条件な愛という生命のよろこびに近い感情を求め、暴力行為・自傷行為に走るとしている。

 ところで、子供達は生まれた時から無痛文明の中で生活し、無痛文明の供給するコンテンツの中で逍遊して育ってきたはずであるのだが、とりわけ彼らが何故そのように生命のよろこびに近い存在として描かれるのか、そして彼らはいつ「大人」の側に回るのだろう。この点は非常に違和感を覚えた。より正確に言えば、森岡氏が大人と子供との二項対立を安易に持ち出しすぎていると思うのである。子供達が生命のよろこびに近い、というのはなぜそうなるのか、それは単に社会(学校も家族も社会だとは思うけれども)に出て日が浅いから、ということになるのだろうか。この点についてはっきりと説明して欲しいと思う。これではそれこそ、子供を無批判に肯定して悦に浸る無痛文明において好んで消費される物語を再生産しているように思われる。子供の肯定は肯定する自己の批判をもたらさない。