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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

24森岡正博『無痛文明論』-2

感想

 

 以下は、『無痛文明論』で得たヒントを元に自由に考えたものである。

 「生きる意味」を考える時に、私は真っ先に「意味は無い」で終わらせてきたのだが、『無痛文明論』を読む中で、「意味は無い」はむしろ、だから気持ち良く過ごせればよい、という無痛化につながるのではないかと感じた。私は無痛の中で生きたいという人々の気持ちに7割方同意するが、残りの3割は「それでは残る人生50年も生きていけないだろう(暇すぎて)」と反抗するので、より明瞭な言語化が必要に思う。

 「生きる意味は何か」「意味は無い」とくれば、その次には「では何故生きているのか」と続くはずだ。私の結論はある種の損得感情に基づくもので、「ここまで生きてきて、生きるということに若干なりとも慣れてきた感覚があり、どうすれば楽しいか、どうすればつまらないか、どうすれば良くなり、悪くなるかが少しづつではあるがわかってきたような気がする。死ねばこれがまたどうなるかわからない。死後の世界があるとすればそこで新たにやっていくのは全てをまたゼロから始めることになるからしんどい、生きている限りは生きているのだから、死ぬ理由がない」といった形になる。この結論では快が前提となっている、自分の良い様に回しうるから、生きている方が良い、ということだ。もともと何ら快が期待できない状況で生きようとするのは無理だと思うから、その点では悪くないが、変化を志向しないというのが例えば森岡氏であれば批判するであろう点だ。

 「生命のよろこび」という言葉で森岡氏が示したものは、私が実感としてわからないものではないから、それを森岡氏の言葉でなく自分の言葉で説明出来る様になる必要があり、またそのように綱領化した生の目的を自分で抱くことが出来る様になれば、私のこれからの生活に「よろこび」が増えるように思う。そのようなわけで、それについて考えてみる。

[先生の言葉]

 ここ二年間ほどずっと気になっている言葉があり、それは私が大学でお世話になった先生が退官の時に自分の生徒達に対して述べた言葉で、正確に覚えていないのだが、以下のようなものである。

「私はみなさんに生きていて欲しいと、ただそれだけ思う。みなさんのような若い人々が、ある日突然死んでしまって居なくなる、そのことを思うとそれだけで涙が出そうになる。私は皆さんの一部が社会的に成功し、また一般的な意味での幸福を手にすることと思う。私は皆さんが幸福になれば嬉しいし、成功すれば喜ばしく思う。しかし、皆さんに成功して欲しいという風には思わない。それどころか、幸福になって欲しいとすら思わないのである。不幸でもいい。ただ生きていて欲しいと思う。」

 私は正直この言葉を聞くまで「幸福論」にとらわれて生きていたため、そしてそれにとらわれていることに気づいていなかったために、この言葉に不思議なひっかかりと、そして同時にある種の安心感を覚えたのである。大学という場で学生達は他の学生と差異の獲得競争をするが、それは大学に入る事で学力がその枠内では平準化し、自分が何ものであるか考える必要性が出てくるからだ。その中で、しかしどの学生にも共通して求められることは、自分が大学生活を良く過ごしている/過ごしたという理由の獲得である。授業に出るか、出ないか、サークルに入るか、入らないか、大学が面白いか、つまらないかということとは関係なく、殆どの学生は、少なくとも自分の生きているこの生活が、良い生活であるという風にラベル付けをするはずだ。そしてこの「良い」は私の語彙では「幸せ」に近い。「不幸」でありたくない、と、勿論私も人並みに思っていたから、以上の言葉を聞いた時に私は少し考える必要性に駆られた訳だ。

[「幸せ」とは結局何か]

 考える過程で「幸せ」という言葉から逃れることはなかなか容易ではないと、その抵抗感にあたった。多くの場合人生全体を記述することばとして、「幸せ」が用いられ、その記述が一番最初に、また、最後にくる。様々な紆余曲折があるにせよ総括としては「幸せ」が来るわけで、そこに落とし込めば大体の清算は済んだということになる。しかしそれは逆に「不幸」と言う風に記述されたものを限りなくおとしめることにならないだろうか。そこに存在し、現に生きているものを、「不幸」としてしまうことは、その生を否定するような残酷なことになってしまうのではないか。しかし、現実に「不幸」であることはいくらでもあるのである。

 だから、生きていて現に生活していることは幸せであれ不幸せであれ、常に肯定されるべきと思う。これがまず一点だ。そしてそれは今が不幸せでもいつか幸せが来ると言う、将来の幸福を待望するという意味において肯定されるべきではない。将来に幸福が来るかどうかは誰も言えないのである。また、それが「幸せ」という名で呼ばれるものとおいたとき、常にその影の不幸せにおびえることになる。

 森岡氏が「よろこび」として例を挙げながら記述した事柄に、私は一般的に「幸せ」と言われるような幸せは読み取れないと思っている。「幸せ」は森岡氏の言葉では、どちらかと言えば「快」に近い。それは予定調和である。現在の不幸せに対して、未来に来るべきものとして、つまり、現在が不幸せだとしてもそこに萌芽が常にあるものとして、また、振り返ったときに自己の生全体にあまねく見つけられるものとしてある。それは自己を相対化したポジションに立った時に過去もしくは現在もしくは未来の「状態」として、またその状態に至るまでにも常に既にあった潜在的なものとして記述される言葉だ。ところで、森岡氏の言う「よろこび」は「状態」とは異なるのではないか。それは出会いであり、まさに現在において感じるものだ。それは幸せのように、振り返ったときに価値判断によってラベル付けをするものではない。

 「ただ生きていて欲しいと思う」という言葉を聞いたときの私の安心感は、まさに森岡氏のいうところの、「条件なし」の存在肯定だったからだ。とすれば、私は生きていく際に「幸せ」を条件付けしていたことになる。「幸せ」で無ければ、生きている意味がない。しかし、どうなれば「幸せ」かはわからない。したがって、どうすれば「生きている意味」があることになるかはわからない。という風に思考は進み、「生きている意味」が不在の不安感は募ることになる。そしてこれは「不幸せ」な人々を排除する考え方だ。だから人々は皆自分のことを「幸せ」と考え、そして、「幸せ」という感覚に近いものを求めることになっていく。それを「幸せ」と自分の中で言語化してしまうからこそ、逆に当初そのようなことを想定していた、いなかったに関わらず、少しずつ「幸せ」という言葉に含まれ、また付与された意味体系に縛られていくのだ。例えば、「暖かい家庭」「毎日笑って過ごせる生活」「美味しいもの、暖かい布団」等々。これらに共通するのは、それが恒常性をもっているということだ。この点で私は「幸せ」が森岡氏の言う「快」に近いと考える。「幸せ」で例示される事柄は、どれも個々で見れば全く正論で、それを求めることは間違っていない。しかし、それぞれの事例に共通するものを見ていくと、それは昨日も今日も明日も変わらない状態を示すのだ。一方、「不幸」はそこに生じた陥没の様な物である。

 森岡氏の『無痛文明論』は、そのように「幸福」称揚へのアンチテーゼとして読むことが出来るのではないかと思う。そうしたときに私は先生の、「ただ生きていて欲しいと思う」という言葉が浮かんでくる。まずは「幸せ」という感覚をリセットしてみよう、なぜならそれは単なる言葉にすぎなかったからだ。恒常的な状態の中の一部が「幸せ」と言われ、それに人生の意味があるのだとしたら、変動的な状態にも同様に「よろこび」という名で人生の意味を見出すことが出来るはずだ。なぜならどちらももとはと言えばそこにある現象であるだけで、それをどのような言葉で把握し、評価するかは私たちにまかされているからだ。

 そしてこのように書けば、そこにはまた、「よろこび」と「幸せ」に人生の意味を求めるあり方が台頭し、「よろこび」の直面している状況で実感として感じられる性格が薄れ、それもまた意図された、または反省的な思考の中で把握される「無痛化」に加担する物語となる。それに抗うために、以下のことが考えられるのではないか。

[「生きていること」を肯定する。]

 「不幸せ」であれ、私たちは生きている、そしてそれはいま現に起こっている。今何をしていようと、「生きている」という点では誰もが平等であり、幸せか不幸せかということはそのあとに来る事だとはっきり認識する必要がある。

 幸せという範疇で捉えられるのが常に状態であるということに自覚的になれば、次には勿論、それでは変化のフェイズには何が起きるのかという興味がわく。それは常態を突き破る点で、「幸せ/不幸せ」で攫む事のできる次元を超える。しかし変化が常に起きることは有り得ないため、変化の次には平衡がくる。このとき、この平衡が、幸せか不幸せかは変化が起きているときにはわからない。ところで、幸せ/不幸せで捉えることのできる状況をいつも常に脱却できる可能性があるということは重要だ。なぜなら、当たり前のようでなかなか誰も触れようとしないのだが、「幸せ」は「退屈」と紙一重だからだ。