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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

25頭

頭良くありたいと時々思うときはあるけれども、それは私の場合には「馬鹿にされたくない」ということだと自分で分かっている、だから、本当に頭が良くなる必要はない。頭が良いふりをすればよいのである。

しかし、「振る舞い」だけでは、はったりをかまし通すことは出来ないので、ある程度の頭のいい「印」が必要になる。手っ取り早くは学歴だから、それをとりあえずとりましょう、ということで取ってきた、、ということは勿論なく、そのようなクールな人がいたらかっこいいし、そのような人は実際そうするだろうけど、私はそういうのは無理だ。けれどももう学歴がどうという人生のフェイズはすぎたから、私は新しく実利的・社会的な目標と別に、これからの自分のあり方をどうしていくか、どうしていきたいのか考えなければならない。

私は常に「馬鹿にされたくない」と考えて来たが、最近馬鹿にされているかもしれない、と思う場面の八割は「馬鹿にされたくない」という私の気持ちが勝手に作り出しているとわかった。私を馬鹿にしていたのは私だったのであるので、私はこの内面の私に馬鹿にされないためには、本当に頭が良く、自信家にならなければならないと思う。しかし、「自信家」であることは私は絶対に出来ないから、本当に頭が良くならなければならない。

ところで、この人は頭が良いという時に、それはどういう人を示して言っているのだろうか。逆に、私が「馬鹿だ」と思うのは、自分が昔脱却した考え方や態度を未だにとっている人だ。私はそこに昔の自分の馬鹿さ加減を見ているのである。上に述べたように、私を馬鹿にする急先鋒は私であるから、これは当たり前だ。私は常に昔の私を馬鹿にしているし、昔の私のような物が顏を出せば、昔の私を馬鹿にするようにしてそれを馬鹿にする。

私が最も敏感でありうるのが私自身の馬鹿さ加減にあるとすれば、それらを解決すればよいので、簡単なのだが、私は一方で自分の馬鹿さ加減に信じられないほど盲目なのだ。これらの蒙昧さが手伝っていつまでも私は未来の私から見ればこびりついたナイーブさの固まりだ。それをどのように脱却していくかが鍵で、これは頭がよくなるということではもうないのかもしれない。それは「変わる」こととは違う。私の中心は変わらないので、その周りにはりついてしまったものをガリガリとはぎとって清潔にしたいと、ただそれだけ思う。賢い人というのはスカッと正しいことを言う。私はそのような場面に直面したときに、どうしてそのような考えを自分が出来なかったのか、そのことを考えるのだが、その理由として常に上がってくるのは、そのような考え方と自分の間を不通にする角質のようなものがあったという事実なのだ。それを一つ一つそぎ落としていくのがここで言いたい「頭の良さ」であり、おわかりの通り、私はここで新しい事を言おうとしているわけではない。やはりそのようなところに落ち着くか、と答え合わせをするように書いている