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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

26

「あなたは暗い部屋にいる、光源は小さな窓から漏れる街灯の光だけだが、それにより部屋の輪郭はぼんやり見える。しかも、あなたはその部屋について知っている様子である。半分手探りのようにしてパソコンを見つけたあなたの耳に、カチャカチャという金属音が聞こえる。窓から外を見ると、そこに一人の男が歩いてくる。その顏はうつむいているため暗闇に包まれている。

 彼はその窓から見てこの家に近い壁の死角に入ってしまい、あなたはそれからなお少し窓の外を見ていた。しかし、階下の方から細かい金属音が響いてきたため、少し驚きを覚える。その音が少し続いて、ガタン、と大きな音がし、扉が開いたような高音が聞こえてきたから、この家と外とをつなぐ、どこかが開いたということが分かる。それを知ってあなたは少しく動揺し、どうやら残された時間が多くないことを知る。

 5分ほど経って、階下でものすごい叫び声、ドタドタと階段を下りていく音がして、怒号が飛び交い、ほどなくそれらが消えていく、それをあなたは一つ一つ確かめる様にして聴いている。無意識に小指の爪を噛んでいたあなた、断続的な物音と階段を上がる音、あなたの部屋の前を足音が通り過ぎていく。続いて子供のむせぶような泣き声、それもすぐに消えてゆく。あなたは扉を開けてこのほど逃げ出そうとするのだが、それは内側からは開かない。何故開かないのだろう。何かの条件を満たしていないのかもしれない、とあなたは考える。部屋にはパソコンと自分のベッド、小さな窓、電話、それしかないからパソコンを触る他に何もしようがない。

 扉の方でがちゃりと鳴り。あなたは飛び上がるほど驚くが、それは内側から開かないのと同様、外側からも開かない。ノブが何度かぶるんぶるんと動いてそれは軟体動物の様にそれだけで綺麗だった。今何かに守られていると思った。窓は大体地面からあなたの肩ほどの高さにあり、その窓の下の壁に背を向けて、あなたは固まっていたのだ。外から叩かれる壁をあなたはじっと見つめる。そうすればそのうち、外に居るものが見えてくるかのようなそのような気持ちで見ていたのだ。でもそれは不可能だった。最後にどすんという音がして向こうにいたものは消えてしまった。それでもあなたはずっと固まったままだった。あなたの目は自然にテーブルの上の電話に固定されていたから、それが鳴った時、それはなるべくして鳴ったと思った。来た、と感じたあなたはそれをとらない。着信音には何か都会的なポップスのオルガンバージョンのようなものが採用されており、あなたは、あの時の曲だ、と気づく。あのときは電話は鳴っていなかったけれども、それは電話の様に何かを伝えようとしていたのだ。

 20回ほどベルが鳴って、留守電録音に切り替わる。相手が話しはじめるのを息を殺してあなたは待っている。10秒ほどの沈黙を置いて、それははじまった。冷たい風が吹いてくる。

「昨日妹が死んだんだ。僕はそれを僕のベッドの下で見つけた。黒こげになっていて、最初はわからなかったけれど、炭と骨だけになっても、よくよく見ているうちにやっぱりなんとなくわかるものだね、確証は無いけれども、確かに妹なのだ。何日か経ってしまっている様子だった。いつも寝る場所の下なんて滅多に覗かないから気づかない。それで多分ここ何日か、僕は熱い火に何時間も焼かれて炭のようになった妹と、同じ場所で寝ていたのだ。そのことを僕は信じられなかった。妹と30センチも離れていないところで僕は、穏やかな夢を見ていたのだ。青い空に浮かぶ僕は、360度全てを雲に囲まれている。いつも以上に穏やかな夢だった。それを思うにつけ、僕は妹が静かに横たわっている、白濁した目とかりかりに焼けた肌、しかし、何故だかすやすやと眠っているような横顔をみて、この妹に気づかなかったら僕は、そのままあの夢を見続けられたように思った。それをそのまま見なかったことにしてベッドの下にいれておこうとすら思ったのだ。それは何の匂いもしなかった。なにか別の物質で出来ているのではないかと疑った僕は、特別炭化している部分を爪でガリガリと削ってみたりした。削られた妹の尻から発生した炭を少し眺めて、親指と人差し指をこすり合わせることでそれをはらった。確かに炭だ。これは妹が炭化したものであるのだ。けれども僕にはそれがまるでむしろ炭で作られた妹の形をしたもののようにも感じる。」

 ゆっくりとあなたは立ち上がると電話の方に近づいていくが、電話は近づく度に遠ざかり、あなたの部屋は回廊のようにいつまでも伸びていく、歩けば歩くほど伸びていくこの道を更にのばそうとするようにして、あなたはいつまでも近づく試みを止めず、これはそういうゲームなのだ、とあなたは思う。ある地点をすぎた時、電話からの声は殆ど聞こえなくなる。けれどもその直前、何が語られたのかをあなたは覚えている。

「妹は飲まれたのだ。ごくりと、その喉がゆっくりと妹を消化器官へと送る。どの段階で妹は灰になったというのか?」

 部屋に敷かれた絨毯が、もうかなり先に行ってしまった、伸びてゆく電話の足下から波打って、それは月の光に砂漠の様に見えた。あなたにはその電話が遥か先で誰かによって取られるのを見る。けれどもその声はもう聞こえなかった。」

 

 振り返るとそこは砂漠だった。一瞬だけだったが、視線の先にきらりと光るものを見つけて、見られている、と思った。それは如何ともしがたいのだ。僕は決してそれから目を離すことが出来ない。見返している僕の目には彼の姿は決して明瞭には写らない。目をこらしてかろうじて、その顏の輪郭のようなものが見える。その輪郭は狼のようにすっきりとしていて幼い。それだけわかればあとはもう大体推測することが出来る。そんな日は大抵カフェインを摂取しすぎていて、彼のある鋭さを持った視線を想像するだけで僕はほとんどガチガチに勃起している。「これは如何ともしがたいのだ。」僕はそれを解消するすべを知らない。彼が僕のものにならないことは明瞭だからだ。それは、恐らく僕が知っている全てのことの中でもっとも明瞭だった。僕はその明瞭さの周辺をまたその明らかさで照らすようにして少しずつ推し量っていくのだ。起源にあるもっとも明瞭な不可能性の周囲に海藻の様に絡まり合って明瞭になっていく、不審でときに卑猥で汚いようなこと、僕は鏡で自分の身体を見ていてもそれに出会う。僕が僕の身体を持っていることが僕にはたまらないのだ。僕には全くその問題以外、殆ど関係がなかった。彼には手が届かないけれども、それ故にこそまた逆に彼はどこにでも居るのだと思う。

 僕はそんなことばかり考えていたから、砂嵐のように強く生暖かい風が吹いてきていることに気づかなかった。高い空がそこでは僕の為にあった。この世界は僕の他に誰もいないのかもしれない、それで気づいたんだけどもね、僕はやはり結構大変な事件に巻き込まれているんだよ、今。

 開いた扉、真っ暗な回廊、ほこりくさいその狭い廊下の両脇にある部屋には二三の死体があった。吐瀉物が散らかっていた。号泣しながら土下座して許しを乞うたけれどもそのまま後頭部を砕かれた死体の横の小さなテレビに、ぼこぼこにされて裸になり、青あざだらけになったその人が頭を床にこすりつけたまま緩慢に殴り殺されていくのをビデオに撮ったものが何度も繰り返し映されていた。最後はぐったりしてしまったから、もう抵抗も出来ないのだ。3人ほどの男がその人の横顔を文字通り踏みつけて、そのまま体重をのせていって目玉が少しずつ飛び出し、顏の骨がとうとうつぶれてしまったのだけれど、その時、多分まだ生きていたはずなのに、彼はもう何も反応しなかった。人間でなかったようだった。正確に言えば人間であったことがあったことを思い出すまいとしているようだった。それはただ可能な限りの残酷な方法で壊されていく状況において、むしろ逆効果なだけであった様子で、自分は動物なんだと自分に呼びかけていそうなその人の顏から僕は最後まで目が離せなかった。

 本当はそんなこと僕にはどうでも良いのだ。僕にどうでもよくないことはほとんどなかった。ただ僕は明晰に生きたい。僕はカフェイン酔いする直前の、頭がすっと外の世界のあらゆることより一つ前に行くような感覚を心の底から求めている。土下座しながら死んでいった男のことを考えると僕の頭はそこまでいかないけれどもやはり何らかの明晰さを得る心持ちがする。それは見ている僕が安全であるという喜びもある。しかしそれ以上に、僕はその安全な環境にいながら、最も悲惨な出来事をも知り得たという事実が大きい。僕は本来そのようなものを見ては行けないしそのようなものがあることを知ってはいけない。しかし、それを知ってしまった。それはありえてはいけないことだったのだ。あのような救いようのなさは僕に見られたということでもっと救いようのないことになったのだ。僕は男の悲惨さがまさに自分が今それを見ているということによって増しているということを知っている。

 僕はどこからか僕を見ている、彼との同一化願望と戦いながら事情聴取を受けた。僕は、僕がこの事件の犯人だったら面白いだろうと思った。けれどもそれは状況証拠からしてもありえないということだったから、そう考えるのはとりあえずよしておいた。家に帰された僕は、次の日もその次の日も出頭を命じられた。それは主にどうして僕が助かったのかという話だったと思う。何かに守られているような気がしたんです、ドアの取手が生き物のように動いて、という話を繰り返しした。ややあって何人かの犯人像が割り出されたらしく、少しでも顏を見ている可能性のある僕に、その写真が5枚ほど渡ってきた。そのうちの一枚は、どのような角度から見ても闇にしか見えない顏を表していた。これが犯人だと僕は特定する。それに顏は無いのだ。裏にCと書いてある写真が犯人であると僕は述べて警察署を出るけれども、もう世界はつげ義春の漫画の輪郭線のような奇妙な単純さで構成されていて、僕はダメになってしまったのだと思った。世界の不確かな実相、僕は身体的な暴力を憎むよ。二三回と殴られただけで僕はもうダメになってしまうのだ。この生きてきた20年以上の間に構成されてきた大半は、二三発殴られただけで簡単に崩壊する。それ以上の痛みを逃れるために僕はあらゆる僕の尊厳をかなぐり捨てることが出来るし、命じられればあらゆる非人間的なことをするだろう。その「二三発」が何十発に変わろうが大した違いはない。皆そんなのわかっているのじゃないかと思う。そのもろさに直面して僕は少しずつ、それを回避するすべを身につけなくてはならないと思う。一発KOのゲームだから、一発目を食らわないようにするしかない。もしくは、相手との交渉の不可能性を読み取ったら素早く回避する方法を考えなくてならない。素早く死ぬこと、それもまた生き続けることと同時に場合によってはなかなかに不可能だ。