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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

27「風立ちぬ」を批判する

 「風立ちぬ」で私が興味深く思うのは、堀越二郎が足の骨を折ってしまった菜穂子の女中を背負って転んだ時に大汗をかきながらふと見つめた空の上の方にカプローニの作った飛行機と、それが飛ぶ美しく夢想的な色彩の空を観てしまうところである。そのような純粋な飛行機の美しさへの憧れ、それが人の手の届かぬ高みを優雅に舞うロマンを夢想的世界として挿入し、二郎が飛行機技師として成功を修めるという単純すぎる美談と結びつけることで、宮崎駿は物語の審美主義的色彩を強めているように思う。そう考えるとこれはかなり罪深いことといえるのではないか。

 二郎の成功は、彼がその時代の需要に適合した飛行機技師を将来の夢に選択したことによるところが多く、彼が例えば作家を志していたら恐らく暗黒の荒野をさまよっていただろう。また、あの映画は非常に社会的に高い階層のみを映し出していることも明白であるから、テーマや内容についてその限界を指摘することは容易である。それらをヴァレリーの詩や堀辰雄の「風立ちぬ」にある純粋恋愛の形、また両作品のポエジーを援用しながら、一時的に隠蔽し、最後のシーンでしらじらしく菜穂子に「生きて」と言わしめるのは一体どういうことなのだろう。この作品がもし仮に何らかの批評性を帯びているとすれば、それはどこに求められるのだろう。結論から言うと、現時点ではそのような批評性はないのではないかと私は考えている。(もしくはそれは、もしかしたら、考えようとする二郎と考える必要はないと迫る周囲の声とのせめぎ合いに辛うじてみられるとは言えるかもしれない。)

 多くの人が二郎と菜穂子というキャラクタ、特に菜穂子のキャラクタ造形の異様さを指摘しているが、私はこれは飛行機技師という職業の美化における矛盾の一つの現れだと思う。つまり、飛行機技師の美談と詩情を結合させて美しく描き出した結果として、菜穂子は(二郎もだけれど)自分の死を恐れず、二郎に対して抱く恋心以外の現実に一瞥もくれない、機械のようになってしまったのだ。最も美しく機能的なものがもっとも力を発揮する飛行機となったごとくに、最も美しい恋愛と戦時下での技術者の成功談を構成する主体である二人が、もっとも威力を発揮する機械となって戦争を駆動させて行った。飛行機を作っていたせいで殆ど顧みる事が出来なかった結果として死んだ妻が生き続けることを命じる最後の夢は、純粋な愛から来たものというよりも、何かデモーニッシュな力による生き続けることへの強制のように思われる。というのも、二郎は作中で飛行機を作る事、そしてまた、恋愛に全てを傾けていたように見受けられるから、「生きて」と言われても観客はそのあと二郎が何を糧に生きていくのかほとんど全く想像がつかないからだ。そこで本来は感動的な言葉であるはずの「生きて」が宙に浮いて、何もなくても生き続けなくてはならない、その後の生のはじまりを予感させる。

 自分の作った飛行機は一機残らず落ちて一つも帰ってこなかったにも関わらず、自分が技師という立場上戦争を生き延びてしまったこと、それについての問いを発しようとした直後に「生きて」という言葉に押されて感謝とともに生き続けることを選択する二郎、私が二郎に共感できなさを感じる原因は、彼の中の葛藤、問いかけの不在なのだ。彼は考えていない。そしてそれはある時には「働くのは男の義務だ」「この仕事を途中で辞めてもらう訳にはいかない」という社会の声によって、あるときは菜穂子の後押しによって許される。そして最終的に二郎はただ純粋なだけの人になっていくのが、面白いと思った。

 考えないことを許されている二郎を羨ましく思う。私は最近「考えろよ」と言われてばかりだ。菜穂子に最後「あなた、考えて」と言って欲しかった。それで二郎が「ありがとう」と返したらすごく笑えたのに。あーさすがにわかってたんだな、何にも考えてないということに、と思えたのに。