目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

32臆病に抗する/救いを求める


 僕は臆病だと自己批判することに実質的な効力がなくなってきたように思うため、それがどのような形で自分にくっついてきてしまっているのかを考える必要が生じる。

 『山月記』を待つまでもなく臆病さと自尊心は場合によっては全く表裏一体と感じられる。ここでの「臆病」は身体的な暴力に対する臆病ではなく、自分の世界が崩れる、自分の依拠してきたものが崩れるという意味で、社会の中で得られる物に対する、その瓦解への怖さである。もう少し言えば月並みに、自分が何者でもない、何でも無いことに気づかされる、そのようなことへの恐れだ。確かにそれは怖い。

 その恐れに抗するということを主な目的として、「そんなこともともとわかっているじゃないか」という呼びかけを自分の中に聞く。「わかっているじゃないか」を繰り返すことで、わかっている自分を作り、その影に全くわかっていない自分が隠れる。演技することは簡単だ。学芸会の時、僕は全く自分の台詞にシンパシーもリアリティも感じずに、それを話すことが出来ることを発見した、そしてそれは別に自分が特別なわけではなく、誰にだってそういうことは出来るのだとわかった。しかしこれは欺瞞だ。「わかっているじゃないか」という時の「わかっている」という部分には何の根拠も無いからだ。
 
 言葉に依拠して自分の臆病さを克服することは、そう簡単ではない。上のような言葉の使い方ではそれは甘いということだ。それではどのようなあり方があり得るだろうか。
 
 どこかで読んだか誰かに言われたのだが、上で言った意味での臆病に起因する、緊張をほぐす方法として、自分の現状を客観的に述べてみるというものがあるらしい。それは以下のような形でおこなわれる。あなたは今、非常に大切な口頭発表の直前で、それを聞く人々の知識(多くの場合、知恵も。)はあなたを遥かに越えている。あなたが積み上げてきたものは、場合によってはそれらの人々の一言によりばっさり切り捨てられる。そしてそれを聞く人々にあなたはこのように刻印づけられる。「案外伸びなかったね」「結局あんまり頭がよくないんだ」。そのような局面に今まさに入らんとするあなた、そのあなたはこうつぶやく。「いま、僕は緊張している。この発表で僕はダメになってしまうようなショックを受けるかもしれない。それが理由の一つ目である。理由の二つ目は、これが勝てない戦ではないということだ。つまり僕は自分の一言が致命傷につながりうるし、そしてそれを上手に回避しうる可能性も同時にあることをしっている。僕はその未決定性に、それゆえ自分が上手くやれるかに、大きな不安を覚えている。だから僕は緊張している。」
 
 客観的に自己を分析する際、何が「緊張」を沈めていくのかと言えば、それはその分析の正しさに起因するのではなく、その緊張を見つめる眼差しが最低一つは存在するということだ。緊張の中で闘う自己を、すくなくとも一対の目が見ている、見ていてくれるということだ。結果を求める眼差しばかりを内在させると、それが緊張を呼び起こすのは当然であり、また多くの場合、多くの人々は結果のみを見ている。過程を見よというのが、臆病さに対して抗する一つの方法だ。過程において結果を見ることは出来ない。それならば、結果のためだけの過程を排することが重要だ。
 それは単純化して考えれば、「案外伸びなかったね」に対して「でも僕は楽しかった」を対置させることだ。しかし注意すべきは、その中でやはり結果を気にしてしまう自分を見つめるべきだということで、そのような自分を無視して過程を楽しむ態度だけに飛びつく行為はまた一つの息苦しさにつながるだろう。なぜなら誰にだっていつでも楽しくできるとは全く限らないからだ。それら二つの背反した価値観の狭間で揺れ動く自分を、一方で離れて見つめ、冷静につぶやいていく。「僕は「あいつはダメだ」と切り捨てられてしまうことを恐れている。」「僕は自分のことを頭がいいと思っている。つまり、頭が悪いと言われるのを恐れている。」「僕は今やっていることは面白くないと思っている。そのようなことで今のこの大事な時期を過ごしてしまうことを恐れている。」「僕は面白くないことを続けて、しかも結果も出ないことになることを恐れている」・・・。
 
 自分の気持ちと矛盾した状況で引き裂かれた自己を、どのように救い得るのだろうか。とても大きな問いで僕には正解はわからない。しかし一方で、大きな問いに対峙したとき、「私はそれに答えられるとは思わないし、答える権利があるとも思わない」といって明確なことを言うことを回避する態度は僕の嫌悪するところである。というのも、それは大きな問いに答えようとすることを避けると同時に問題を問題のまま放置しながら、しかも一方でそれに安易に答えようとしない謙虚で自らの態度を粉飾する行為だからだ。勉強の足りなさを恥じる素振りを見せながら、実のところ勉強が足りないと自分に対して謙虚かつ客観的な判断を下せる自己を持ち上げようとする行為とそれは同じだ。それを悪いとは言わない。ただそこには人間が見えないため、これ以上そのような人の話を聞いても仕方がないと思う。あまりひどいと時間の無駄だとさえ思う。
 
 求める結果を望めそうも無く、そしてそれにむかう過程も決して面白くない、そのような時にどのような救いを求められるかというのが問いであり。僕はそれについてここで少なくとも何らかの応答を試みるけれども、恐らくそれはこれまでに僕が読んだ書物や与えられた人生訓、そしてストレスが溜まった時にその解消として一気に読む自己啓発本で言われていることの混合体にすぎないだろう。すなわち僕は実際にそのような状況を突破したことが無いのだから、そこに生の言葉が入りうるはずもない。ではなぜそのような問いにある種の切実さを感じるかというと、近いうちに僕はこれまでの人生であまり体験したことのなかったような、緩慢な窮屈さに締め付けられるのではないだろうか、と思うからで、そのような状況が近づいて来ている、ひたひたという足音を感じるからである。どのような形でそれが訪れるかわからない。出来れば回避したい。けれどもそれとはきっといつかは対峙しなければならないし、そのくらいのイベントが僕の大して起伏のない人生にあってもいいのではないかと思うのだ。
  
 救いを求める際に心に留めておくべきなのは、そのような状況は一人で領有し、突破することは不可能だということだ。従って、僕は人と話さなければならない。それはとりあえず最初は誰でもよい。ただ自分と利害が離れた人が良いだろう。ただ話す。何でもよいから話すのが第一歩だ。日常生活の変化はこれまで話したことのない人と話す事、もしくはこれまで話した事のないことを話すこと、そこからしか生じない。僕の内部に届くのは僕自身の眼差しだけだ。僕は窮境を可視化しなければならない。それが出来なければ駄目になってしまう。全く窮屈で不愉快だ。だから僕が今、その打ち寄せる波のような足音を聞いているだけの、何らかの危機の到来に対して準備しうることがあるとすれば、それは話すことができる相手を見つけること、出来ればそれを増やすことだ。もちろんこれはそんなに簡単なことではない。しかし、誰にでも掛け値無しに出来る事だ。これをしない(できない)のは――本当に、文字通りの意味として――自殺に等しいと僕は考える。「人と話す」には自分と話すことも含まれる。自分の窮境は、それを言語化する中ではじめてはっきりとした輪郭をえることが出来る。言葉は便利である。というのも、言語にうつしていく中で、それは自然とある種の論理性を付与されるからだ。漠然とした問題を抱えた時、「〇〇が問題である」と言えれば、「〇〇が解決である」という文をその後に導けばよいとわかる。「〇〇は解決であると思ったけれど、解決ではなかった」と言う事ができれば、「それでは●●が解決であるかもしれない」という文を導こうと思える。言語化するとは、言語の力を借りるという事である。言語化は面倒くさいプロセスではなく、深いところから発した緊急の呼び声を人間でない何らかのシステムに聞いてもらうということである。言語化は対話といえるかはわからないが、それは解決の一歩手前の「分析」にとどまらず、それ自体が何らかの力に駆動されて解決を希求する試みである。
 以上が僕の導き出す答えで、そこにはどうしても逃れられない月並みさがあるが、一応の回答を提示している。途方に暮れた人間に対して必要なのは、断じて「将来何がおこるかわからない」などの訓示や「我執を離れよ」といった異なった見方の提示ではない。それは確かに重要だが、一番最初に重要なのは、次に何をするかを提示することである。そしてその答えは、僕の考えでは「多くの人と(に)話す」ということだ。一言でも人に話すことが出来れば、それは前進ではないかと感じる。