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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

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 明晰な思考をするということについて少し考えたけれども、それは私にとっては現実に今向き合っている状況・対象を客観視して、そこに現れてくる構造や規則を取り出し(言語化し)、把握するということなのだろうなと思った。それが出来ないのは、とどのつまり私が肉体を持っているからで、その力に常に左右されてしまうからだ。

 わがままというのが肉体に依存しているとは一概に言えないとは思うけれども、わがままで一過性の快楽を得られることは事実である。肉体は快楽を求める。僕も快楽を求める。いかに禁欲的でありうるか、それはもはや自分が「禁欲的である」ということすら見ずに済ませられるような。それは私には難しいかもしれない。私は快楽主義者であらざるを得ず、そしてそこから脱却したいと常に思っている。時折そのような切迫した叫び声が肉体を凌駕するが、そのような時はごくわずかだ。

 大江健三郎の『厳粛な綱渡り』や『われらの時代』を読むと、大江が性欲に対して、また現実から逃避して一瞬の快楽を求めることに対してどれだけ苦悩して戦おうとしたかがよくわかる。安吾も三島もそうである。そして彼らが小説家として高い地位を確立したからと言ってその苦悩が昇華されるわけでは全くない。ここからは想像になるけれども、例えば自分の中の抑えがたい性欲に嫌悪感を感じながら、一方でそれから抜け出そうともがいていた大江は、いかに優れた小説を書こうとも、筆をおけば自分の中にこみあげてくるそれらの足音を聞いてしまうことに対して無力感を覚えたのではないか。

 一見すると、そのような性欲、現実を一時的に回避する快楽から殆ど無縁である様な人が実際におり、そして彼らは往々にして優秀な形で思考を進めているのを目の当たりにするから悩みは深まるのであり、そういう人は性欲がこみ上げてきてもこれは自分が人間的身体を持っている以上当たり前の欲求であり、機械的に処理すればよいのだ位にほとんど等閑視している——ように思われる。これも私の勝手な想像かもしれない。彼らは彼らなりに悩んでいるのかもしれない。しかしながら、それは自身の明晰な思考が遮られてしまうという意味においてそれにうっとうしさを感じているということなのではないか。そうであるとすれば私に関してはそうではない。

 快楽を制御するには運動が必要だ。だから近いうちに運動を始めよう。きっと上手く行く。