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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

34『それから』の代助の耐えられない若さ

 大学に入ってから『それから』を何度も読んでいるが、私はかなり自分勝手な読み方をしており、例えば今日このエントリを書くために一応と思って調べてみるまで、主人公の代助が30歳だということを思ってもみなかった。もっとずっと若いと思っていた。椿の花が落ちてゴムまりのようにはねたような気がした夢の中から始まり、高等遊民としての生活がゆるりと展開される導入部、毎日大してやることもないだろうに、漱石の筆致のせいか不思議と代助の生活は透き通るような明瞭さなのだ。旧友の平岡に働くことはくだらないと言ってみたり、父親からの働け、結婚しろという命を軽くあしらったり、もちろん友達の奥さんと駆け落ちしようとする描写を含め、彼を見ているとどうももっと若いような、私と同じか少し上くらいの人間に見えるのだから不思議だ。私は勿論三回も四回も読んだのだから、当然代助の年齢が示唆された場所は何度も読んだのだろう。しかし未だにそれがどのように描かれていたか覚えていないしなかんずく傍らに本をおきながら調べる気も起きない。自分から小説をつまらなくしてどうするのだ、と思う。ただ、今回少し意識して冒頭を読んだところ、代助がひげを携えている描写があったり、書生の門野とのやりとりが案外理知的であったことは確認した。

 むしろそのように、それなりの歳を重ねているにも関わらず容易に色あせることのない代助の若さが私にとって興味深いのだと思う。それはほんの少しのことで崩れ、また、一滴の絵の具で濁る水のように簡単にくぐもってしまう。けれども代助に関してはそれがどうしたことか留保されているのである。どこかの誰かが書いた『それから』に関する文章に、「代助が羨ましくて溜まらない」というのがあったけれども、私もまたそう思う。代助を取り巻く環境やその社会の中でのあり方が羨ましいのではない。そうでなく、私の場合は代助の物の見方や感じ方、その行動へと至る過程の感性の清潔さが羨ましいのである。そしてそれを担保しているのは恐らく、嫂の存在である。嫂の慈愛は、代助が代助であることを小説の仕掛けとして下支えしていると感じる。すなわち、嫂がいなければ代助が有り得ているということはあんまり胡散臭いと思う。

 「お前は馬鹿だ」と言われる代助の馬鹿さ加減や、なかんずく平岡のような生活を見下し自己の生活を第一とするエゴイズムは美しく配置されていてそれが本当の意味で「馬鹿」だとか、「エゴイズム」だとか、そのような気質的欠陥として読み取られるのを拒み、「結局主人公が馬鹿なだけじゃんか」という感想を除け、一つの時代的布置の中で矛盾に悩む若者像として代助を描き出す方法が見事であると思う。こう考えれば、漱石は人物を描いているのでは本当のところ無いのではないか、もしくは、人物を描くことが時代を描き出すことと陸続きで有り得た、奇跡的な瞬間を描出しているのかもしれず、そうだとすると、私の代助への羨ましさは代助が生きた時代への憧憬であり、そしてまたその時代が不可避に抱えた、自然への一点の疑いもない真直な憧れの影に見え隠れする耐えられない若さへの幾分斜に構えた地点から発せられる羨望の眼差しなのである。