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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

1.29

船曳先生は「青春の墓標としての卒業論文」を甘い考えだと書かれていたように思う。曖昧な記憶の中でフレーズから自分なりに解釈をすれば、それは以下のようなことだった。

 卒論がうまく書き進められない人はどうしてそうなってしまうのか?それは、自分が大学に入り、人文学を専攻したという「青春」の終わりを意味すると同時にそのような時期がかつてあったことを回顧するときに恥ずかしくない、「墓標」を論文という形で打ち立てようとするからだ。

 しかし、ことはそう単純ではない。論文を書く際に必要とされる能力はこれから公私問わず様々な面で要請される。それは最後の一筆では決してありえない。それは墓標ではないのだ。だから、これまでも必要とされてきたし、これからもそれが必要とされることを認識しながら、その中の小さな一つの里程標として淡々と冷静に書くほうが好ましい。そう簡単に人文学とも、論文という制度とも決別できないのだから・・・