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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

変身:『燃えあがる緑の木』

 書いたことを公にするのに倦んでいた。日記はひたすらに書いていたのだが、それらは公にするにはあまりにも私的だったり、文章がおぼつかなかった。webライターと呼ばれる人々が呼吸をするようにいつもの文を紡いでいるのだったら、確かにそれは技術だと思う。私は、やろうと思えば複雑な、そして最低限のレベルにおいては読むに耐える文章を書くことができるが、それはあくまで「やろうと思った」時であって、とても疲れている時に、電車の中で吐き出すように書いた文章は、とてもブログなどには載せられない。それが私の弱さでもある。

 高校生の時、口語演劇に触れる中で、私の書く脚本も、口語に近づけることができたら、と思ったのをきっかけに、言文を一致させようとして、書き言葉は口語に、口語は書き言葉に近づいた。その効用として、私の口語はより論理的になり、私の書き言葉はより非論理的になった。だから、私が発する言葉は往々にして複雑で曖昧。私の書く言葉は往々にして微妙に非論理的で分かりづらい。それらは演劇で許される言葉として受容したのだったから、仕方がないが。

 タイトルにある「変身」に戻る。大江健三郎を読んでいた。『燃えあがる緑の木』第1部の「転換」と題された章で、ドゥルーズによる、カフカの「変身」論を想起した。残念ながら、ドゥルーズの論はまだ読んでいないから、それは本当に、想起しただけだったのだ。大江は70年代以降折に触れて、今ある身体でない身体に変身・転換する人物を描く。『燃えあがる緑の木』では男性から両性具有へ。この著作においては、「転換」を友人の「てんかん」の発作を止めようと試みる中で受け取ることになっている。

 同著における転換のポイントは、明らかに、その転換が起きることの無根拠性と、それに意味を見出そうとする主体の模索であると言える。何によってかわからないが、いつの間にか両性具有となった自己の転換に、なんらかの意味があると考えること。柄谷が大江の『ヒロシマ・ノート』に言及した時に述べた洞察と同様、ここでも無根拠に起きたはずの出来事に対して意味が問われている。『ヒロシマ・ノート』における無根拠性の意味への問いは初発に近いものだったが、70年代の大江の作品を見ると、それがある種戦略的に用いられているとわかる。意味を措定することは、祈りと結びつけられ、宗教的な「微光」を発するようになる。この微光はおそらく『洪水はわが魂に及び』において初めて、「性的な微光にむかって」などの章題に現れるように、意識的に選び取られるようになったのだろう。

 自分と異なるものへの変身(転換)は、いつの間にか行われている。そのことは、しかし、小説の中でのみ可能な特殊で一回的な出来事では必ずしもない。例えば私は自分が男性として生まれてきたこと、この顔でこの場所(日本)に生まれてきたことは不思議でたまらず、そして、それに意味を見出そうとも時にはするのだ。そこに意味がないことがわかりきっているからこそ、意味を創出しようとすることは、ある種の賭けとなる。この賭けが賭けであることが強調されればされるほど、いかに弱いものにぶら下がって、私が私であるのかということが明らかになる。『燃えあがる緑の木』第1部では、痛ましいほどに「転換」の理由は卑小なものとして紹介される。今のようにあることの無根拠性に繰り返し立ち戻ろうとする大江の姿勢は、正直、滑稽ですらあると思うのだが、それを問うことに意味があると思われるのは、それが今の自分でない自分へと転換したのちの、転換というある意味最も不明瞭なまま終わる事象に対する祈りを通した解釈の闘争を提示しているからだ。ここで私は、なぜ私が今の私なのかについて、それを本当に検討したことがあるのか、という思いにかられる。それをある強度で無理やり肯定することの意味はともかく、そもそもそれに対して本当に考えたことがあるのか、ということを。それを考える中で、私は、もしかすると今のようでない自分が、あるかもしれないと思うのだ。それはつまり、何か意識できない働きにより変身・転換が起こった後のものとして、実は私は今いるのではないか、残念ながらどのように変身したかはすっかり忘れてしまっているけれども、本当は、変身前の私も昔生きていて、もしくは変身前の私の亜種が今も自明にそこらに散らばっていて、それをそれと気づかず、変身後の私は、暮らしているのではないか、というような感覚だった。

 小学生の頃に私の大変尊敬する先生は日々自分を新たなものに変えていくような努力が必要だとおっしゃった。その言は私にとって一つの規範であったのだが、それが今初めて問いに付されるのを感じている。つまり、私は自分を変えようという当為とは全然別なところで、自分に全く制御できず、簡単に記憶もできないようなところで、やはり日々変わってしまっているのではないか、ということだ。だとしたら、変わってしまう自分を変わったと認識し、変わった理由を問うことは、どのように可能なのだろう。変身していく私。『洪水はわが魂に及び』で当為によって自己否定を遂げる登場人物は、その後の著作ではいつのまにか転換しており、転換をトラウマ的に反復する主体へと、これまた「転換」してしまう。そのことの意味が、少し気になっている。つまり、変身後として与えられた自己から、どのように、本当の意味では想像できない変身前に想像を及ぼすか。そのことによって、私は、今の私がどのように要請され、新しい私をどのように要請するかのヒントが得られる気がするのだ。しかし、存在は場合によっては明瞭ながら、変身の無意識性はその内実としては最も不明瞭である。グレゴール・ザムザは自分が変身後にあることに、どのように気付いたのだったか、手に届く範囲に『変身』がある、狭い部屋で、それを手にとって紐解くこともなく、無責任に疑問に思っている。