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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

カウンセリングについて

 恥ずかしい、ことではないと思うが、ご多分に漏れないことではある。その意味で、多くの人と同様の挙動をとる自分のミーハーさへの恥の感覚はある。

 私は、カウンセリングに関わる本に関心を持ってきた。ここ一年ほどのことだ。とりわけ好んで消費したのは、現場で長年働いてきたカウンセラーが書く本だ。以下、これをカウンセラー本と呼ぶことにする。とりわけ、塾講師をしていた時の経験がどこかで共鳴したのか、カウンセラー本の中でもスクールカウンセリングや、ケーススタディとして紹介される体験談の中に児童・生徒・学生が出現する本を進んで消費した。そして、時に胸が締め付けられるような気持ちになった。つまり、自分自身のことが書かれているような気持ちになったのだ。そして、心当たりのあることについてラップトップに延々書き連ねたりしていた。ある種のカタルシスが、そこにあった。同時に、容易に言語化できない、疑問をどこかに抱いてもいた。それがなんだったのかを少し書こうと思う。

 学生以下の年齢を対象とするカウンセラーの本で紹介されるのは、多くが、クライアントと問題について話し合う中で、クライアントによって曖昧な言葉で語られるそれが少しずつ明確化してくると同時に、その根が子供時代の体験にあると気づかれる事例だ。

 このような体験をもととしているのだろう、カウンセラーが書く本はしばしば、親子関係のあるべき姿について焦点を当てるものが多い。例えば親による子供への過干渉、親が子供のためを思ってしていることが多くの場合親による子供への微弱で曖昧な、しかし一種の支配となっている構造の指摘、など。そこでは、理想的とされる親子像が見方を変えればいかにいびつなものでありうるかが紹介される。

 同様に、親がこれをしてはいけない、というインストラクションも、そのような本で頻繁に紹介される。これは、厳しく叱ってはいけない、かといって、褒めすぎるのもよくない。子供の前でもう片方の親の悪口を言ってはいけない、子供のためと思ってあれこれやってあげてはいけない、結果を責めてはいけない、云々。。。

 それらを親のもとで暮らす、庇護者として読む分には良い。しかし、私もある程度の歳を経てきて、親になりうる年齢となった。その観点から見ると、違和感を感じなくもない。親はある時、突然親になるのであって、プロの親というものはない。だから、彼らが何もかもうまくやれるとは思えない。

 カウンセラーが親を告発する意図を持ってそれらを書いているわけではないだろう。しかし、書かれたものを読む限り、それは十分に一種の告発として受け取れる。それも、容易に償いはできない形での告発。なぜなら、それが現実に、子供のある種の歪みとして現前してしまっていることが、それらの話の前提をなすのだから・・・。

 親は子供に対して相当に強い位置にいる。この権力関係を無視して家族という制度を見ようとすることは、確かに、今日、もはや一種の時代錯誤である。その意味では、何をどのようにしようが、親は子供に対して親として君臨するだけで、なんらかの力を及ぼし、何かを押し付けている。そして、それに自覚的な親が少ないのもまた事実だろう。しかし、だからといって、無条件にある親の振る舞いが良くないということが言えるのだろうか?もっと人間関係というのは微妙ではないだろうか。もしくは、それによって子供に問題が生じてしまうというとき、それは何を意味するのだろうか。理想的な人格を持った人間というこの世のどこにも存在しないフィクションを措定したことにより、反作用として生じてしまった、それ自体高度なフィクションこそが、「問題」の内実ではないだろうか。

  最初に戻る。私はカウンセラー本にはまっていた。過去形である。ある程度読んだので満足した、というところはある。しかし、それ以外の理由でも、もういいだろうと思うに至った。

 その原因は、カウンセラー本が、しばしば、良きビジョンを提示してしまっているからだ。とりわけ、使命感に駆られて自己の体験談と共に現代の家族関係・人間関係の諸問題をカウンセラー個人が語る本にその傾向が強い。

 学問的色彩の強い、もしくは単純にカウンセリングの技術を扱った本に良き親子関係の形、良き青年のあり方、そのようなビジョンは決して提示されていない。これがカウンセリングが学問の一部として立つ際に必要な倫理性を供給しているのだろう。何が良きことなのかということを提示することで、多くのことが排除され、不可視化される。そのことに自覚的にならなければ、研究が研究として存在する意味は失われる。

 私にとり違和感として残るのは、カウンセラーが個々で述べる体験談においては、多くの場合、カウンセラー主体に固有の偏見やそのカウンセラーの中にしかない理想の家族関係、人間関係がありありと浮かび上がってしまっていることなのである。

 先の話に通ずるが、私は、カウンセラーは何が良きものなのか、何が悪しきかということを前提にしないところにこそ価値があると思っている。だからこそ、クライアントに寄り添うことができると考えるからだ。したがって、カウンセラーが個人的な体験談を出版しどのような家族がよいのか、どうすべきでないのか、ということを提示するのは、相当な注意書きと共にでなければ、もしくは、それを読む読み方の規定なしには、害しかないと思われる。

 カウンセリングのプロセスでは時間も体力も大変多く必要とされる。しかも、クライアントが結果として良くなったのか、悪くなったのかということはほとんどの場合、明確に言えないだろう。だからこそ、カウンセラーの本に〈治癒(=良くなった)〉と思しき体験談が多くなってしまう事情は十分に理解できる。あえて医学的色彩の強い〈治癒〉という言葉を用いたのは、多くの場合、クライアントが問題を解決するに至ったということで話を終わりにしようとする欲望を、カウンセラー本の臨床的な体験談に感じてしまうからだ。

 治癒したのか、そこに至らなかったのかが明確でないような人の心の問題に関わるカウンセラーの苦悩は察するにあまりある。だからこそ逆に、あるカウンセラーの実存に付き合い、あるカウンセラーの頭の中にしかない良きビジョンを滔々と語られても、鼻白んでしまう。外科ほど〈治癒〉がはっきりしないのはカウンセラーの大変な部分だと思う。だからこそ、安易に〈治癒〉も、そして〈予防〉も語らないでほしい。