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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

内なる差別意識

 twitterで差別をしばしば問題化し、ヘイトまがいのことを平気で述べたり、それほど自覚的でなく、だからこそたちが悪いような、無意識的な差別発言を繰り返す人々と戦うアカウントをいくつもフォローしている。本当に頭がいい人たちだ。私が全く気づくことのなかった、しかし指摘されてみると確かに一種の差別と受け取りうる発言に大変敏感に気づく方々だ。

 今述べたように、私はそのような発言に鈍感な方だ。このことはつまり、自分もまた内なる差別意識を無自覚にいくつも抱え込んでいるだろうことを意味する。それらにいちいち向き合うのは私にとって苦しい。そして、また、私から発せられたそれらを甘受しなければならない人たちは、私以上に苦しい。日常生活の言語活動は、繊細に見ていけば、かくも苦痛に満ちているものか、と思う。私が「繊細」にみていった結果気づかれるものだと思いこんでいるものは、もちろん、それが突き刺さる人々にとっては決して「繊細」にみなければならないものではないということはわかっているが。しかしそれを当たり前にとらえている自分にとって、それが気をつけなければ発見できないものであることも確かだ。それを否定するつもりはない。

 彼ら差別と戦う人々がリツイートや公開リプライにより問題視する発言をみると、そのうちの約3割ほどはみた瞬間に問題であることはわかるけどこれは私も言い得たと思うし、1割ほどはもしかしたら過去に同種のことを言ったかもしれないと思うものだ。

 過去にしたかもしれない/してしまった発言の問題性に気付いた時、どうしたらよいものか。そのことばかり最近は考えている。