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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

快楽の対象としての後輩、学生

 gmailの過去のフォルダをみていて、過去の自分に世話を焼いてきてくれた人々のことを数人なりと思い出した。おそらく大学生の私が可愛かったのだろう。まだ多くの可能性に開けており、言えばいったとおりにし、話もきちんと頷きながら聞く私は、面倒をみてやろうと思える学生だったのだろう。アルバイトで先生をしていると、そういった可愛気のある生徒と、そうでない生徒がいることがわかる。

 学生としての立場で考えると、あれこれ世話を焼いてくる先生は、私の場合、あまり積極的に好意を向ける対象とはならない。彼らが私に世話を焼いてくれたこと、そのこと自体は大変時間を要するものであるし、よって尊かったのだ、ということを彼らの身になって慮ることによって初めて、自分を納得させるようにして感謝の気持ちがわいてくる。しかし、そのように自分を納得させなければ、何か私の道を決めてこようとする人、という印象ばかりを強く持つことになる。私が自由を重んじすぎることはわかっているのだが。

 私が嫌なのは、「一言言ってやりたい、もう一つアドバイスしたい、けれども、それはやりすぎだからやめておこう」という、逡巡が相手の表情に見える時なのである。そのような時、私は自分が欲望の対象となっているような印象を受ける。つまり、年下の相手にアドバイスをすることは一種の快楽であるから。その快楽を我慢しなければならないという気持ちで、実際に我慢しているのが見える時、私は、その我慢自体は喜ばしく思うが、この人が我慢できない時、私は一体どうなってしまうのだろうという一種の恐れを抱く。

 職業意識から、言わなければいけないことを淡々という人が、私の好む先輩、もしくは教員である。行動原理がわかりやすく、風通しが良い。さらに人間として付き合ってみたくもなる。そうでない、例えば学生に嫌われたくない教員、もしくは教員としての職務以上のアドバイスを自己の快楽のために行いたい教員の、そのような気持ちを私は時折、生々しく読み取れてしまう。そして、私に嫌われたから何なのか?好かれたらどうして嬉しいのか?そのように思って、もはやあまり積極的に近寄りたくなくなってししまう。好意を受けるのが怖いのではない。好意の底がどこにあるのかわからないから怖いのだ。

 私の学科の新設コースが開かれた時、そのうちの無愛想で強面の教員が思いがけずこういったのが印象に残っている。

「僕はあんまり学生に関心をもってこなかったのだけど、なんだか可愛いと思っている自分がいる。お世話したいとなぜか最近思うんですよ」

 全く正確ではないが、彼はこのようなことを言っていた。私はそのことを皆の前で言ってしまえる先生に好感を持った。そして、「この先生も、あまり先生からべたべたされるのは嫌いなんだな」とすぐにわかった。にもかかわらず、自分が開いた新しいコースについてきた学生を思いがけず可愛く思っている。そこには自分のエゴイズムがひそんでいる。もともと、自分はそのように年下にたいして職務を超えて面倒をみようと思ってしまう教員のエゴイズムがあまり好きではなかったはずなのだ、にもかかわらず、その気持ちを今自分がもっている、これはいったいなんなのだろう。そのように、戸惑いつつも自分を客観的にみようと努力された発言だったと思われる。