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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

勉強して、お願いだから

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えーと、なにがわからなかったんだろう…

 長く家庭教師を続けている。家庭教師をしていて一番難しいと思うことは、生徒が何をわかっていなかったのかを把握することだ。

    特に、私が教えている国語において、それは難しいと感じる。読むことも、書くことも、非常に複雑なプロセスだ。その上、それらの大半は、計算の場合とは異なり頭の中で行われる。したがって、本人に質問をすることを通して、何がわかっていないのか見つけ出す必要がある。

どこがわからないかを把握するのは至難の技

 この、質問を介した「わからないこと」を発見するためのやりとりは、ほんとうに難しいといつも思う。生徒が傷つかないような言葉選び・会話運びになるよう配慮しなければならない。一方、あまり配慮しすぎると問題の核心にたどりつかないため、時には食い下がって同じ形式の質問を繰り返し、掘り下げる必要もある。

 そして、残念ながらたいていの場合、はっきりした答えは返ってこない。「わからないこと」を言葉にするのは難しいからだ。例えば、ある文を理解していない時、理解していないことはどうやってわかるだろうか。理解している状態がわからなければ、理解していない状態もわからない。

 したがって、こちらからの発問に対し答える態度から推測し、仮説を立てて質問を考案し、配慮した言葉遣いに直して発する必要がある。非常に頭を使うため、毎回、家庭教師が終わった後はくたくたである。

「わからないこと」はわからない

 ちなみに、大学院生の私も、「わからない」ことがどうわからないのか、適切に言語化することはほとんどできない。それどころか、たいていの場合「わかっていない」ことにすらすぐに気づくことはできない。

全然わかってなかった勉強会

 例えば、私は文学を専攻しているが、2年ほど前から興味本位で歴史の先生の勉強会に参加していた。今だから言えるが、2年前は何もわかっていなかった。先生が問題にしていることの重要性がわからず、今議論していることがどのような脈絡からくるのかもよくわからなかった。

 断っておくが、私は何一つわからなかったわけではない。というか、上述したように、当初は勉強会における議論を、自分が根本的な部分でわかっていないとは思っていなかった。議論されている事柄それぞれについて知識はあった。また、10分20分というスパンでは、議論を追うことができたからだ。

 しかし、議題に挙がっていることがなぜ今、どのような連関から議論されているのかはほとんどの場合、曖昧だったのである。したがって最初の一年間、私にはその勉強会が瑣末な知識を開陳しあうだけのものに見えた。それ以上のものには見えなかった。

 二年目に、やっと何が行なわれているのかわかった。要するに、議題に挙がっているテクストが当時の言説構造のなかでどのような位置付けを持つものとして書かれ、読まれたのかということを先生は明らかにしようとしていたのだった。それがわかってから、勉強会は俄然面白くなった。もっと早く気付いていればな、と強く後悔した。

 大学院生としての私の経験に比べると、解答を見ることでとりあえず正しいか間違っているかがわかる受験勉強は、少なくとも間違いの所在をすぐに特定できるという点で、楽だなと思う。しかし、もちろん、それはスタート地点に過ぎず、解くまでのどのプロセスで間違っているのかわからなければ解決にならない。なんか良い方法はないかなぁ。

自分を変える意味は、変える前からわからない

 それはそれとして、教師として生徒を導くこと自体を、双方の納得づくで行うこと自体にも限界を感じることがある。

 「わからないこと」を特定し、それを改善するプロセスは、改善している最中に改善後のことがわからないものとしてある。家庭教師としては、やる前にはそれにどういう意味があるのか本人にとってはわからないことを、やってもらわなければならない。

なんだかいじめてるみたいだな

 何が問題か一緒に発見する過程で、しばしば私は、「なんだかいじめてるみたいだな…」と思ってしまう。うーん。これ、私の心が弱いのかもしれないけど。そういうときは大抵、生徒くんの集中力は切れている。そして、行っている最中のやりとりが終わるのを待っているのがわかる。

 それに応じて、一旦やめてもよいし、実際にやめることもある。一方、固執することもある。放置してもどこかでまた同じ問題が噴出するからである。言い方を変えたり、「疲れた?」とか聞いたりしながら、質問を続けようとしたりするのはしばしばだ。

どうやって納得してもらおう

 このプロセスを正当化するために最善なのは、今問題を解決することが、将来どう役に立つのかを説明することである。しかし、しばしば長話になる上、将来のことをありありと想定することは誰にとってもできないから、あまり意味がない。

 そこで、功利的な話に偏りがちになる。それが、生徒にとって一番切実だと思われるからだ。具体的には「こうすれば試験が解ける」、「点が取れる」という言い方だ。しかし、私はたいてい、点数自体にはあまり意味がないということを生徒にどこかで(しかも、一定の期間を挟んで繰り返し)伝えてしまっているため、この話をしだすのは、疲れている時である。

 わからないことを発見することも、それをわかるようにするために自分を変えていくことも本当に大変だ。本人にその意思がない時はいうまでもなく、その意思がある時も、往々にして難しい。

お願いだからやって!信じて!

 「わからないこと」を一緒に探していく最中で、生徒が疲れた顔をするときがある。そんな時、私がどうしているかというと、最初はやはり、「わからないこと」をわかるようにすることにどれだけ価値があるかを伝える。一応、教師=大人という立場から。

 先に述べたように、わかるようになった状態を生徒は知らない。したがって、今の状態にどう問題があるのか本当のところは納得していない。だから、この説得はその説得内容自体としてはあまり意味がない。

 しかし、この説得は、「お願いだからやって!絶対重要だから信じてやって!」というメッセージとして機能する。そのはずだと私は信じているし、実際多分そうなっている。話の内容自体は、だから、お題目のようなものだ。「私を信じてください」というようなことを述べているわけだ。つまりは。

 そして、案外これは効果的だ。どこがわからないのか、特定しようと四苦八苦し、つついたりなだめたりすかしたりする。それで、生徒の方がのってこないと、それがどう重要かと納得してもらおうと色々ひねり出す。「どう?なんかわかってきた」「やっぱり今解決しておくべきかもしれないよね?」とか、問いかけの形で、必死こいてわかってもらおうとするのだ。

にやっと笑う彼

 生徒はそのように私が試行錯誤していること自体を、案外とよく見ている。納得するのではなく、見守ってくれている。そして、私が疲れてしまい、「はあ〜。なんか疲れたね笑」とか言うと、それを待っていたようににやっと笑ったりする。

 そのにやっとした笑いに「よくわかんないけど、やってやるよ」というメッセージが読み取れたりするものだから、私は彼に教えるのを毎週楽しみにしているのである。