SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

新年になりましたね

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年が明けた。もう2017年か。月並みだが、驚きだ。

「ゆく年くる年」が作る節目

 テレビは基本的に観ないが、ゆく年くる年だけは毎年観る。その理由を、これまではなんとなく厳かな気分になれてよいから、というくらいにとらえていた。

 今年観ていて、その理由を自分の中で明確にすることができた。一言で言えば、観ることで節目を体験できるからだ。もっと正確に言うと、番組を観る事を通して、私にとっての節目が作られるからだ。今年何があったか、そして来年何をしたいかということを考える時間を、「ゆく年くる年」という番組はつくってくれる。

 テレビを基本的に観ないのは、時間を詐取されている気分がするからだ。特に、バラエティ番組は私にとって観れたものではない。

 騒々しい音楽や視覚に訴えかけてくるエフェクト。そして、視聴者の注意を惹きつけるために細切れに挿入される引き。バラエティ番組の中のそれらは、私に帰属するはずの諸々の感覚を無理にかき乱してくる気がする。

 そのような番組を観ている間の時間は、私にとってひたすらに不快だ。子供のころに弄り倒した虫のように、意に沿わない形でべたべた触られ、つっつかれている気分になる。

 もちろん、それが心地よいという気持ちも十分にわかる。感覚をバラエティ番組の作り出す刺激に馴致させてしまえば、それを観る体験は、これほど心地よいものはないだろう。つけて、座ればあとは全部やってくれるのだから。

 私がバラエティ番組に不快感を感じるのは、要するに、私自身がテレビの想定するような視聴者の層から外れたからだ。そして、それはそうなることを選択したのである。テレビから離れ始めた中学時代にはそこまで意識していなかった。しかし途中から、テレビからの離反が、テレビの作り出すテレビ的共同体からの離反を意味することに自覚的になった。

 テレビから離れ始めて以降、私がテレビを観るのは、夕食の時間家族に付き合う形で否応なしにそれを観なければならない時に限定された。そして、私はすっかりテレビが嫌いになった。もちろん、テレビそのものが嫌いなわけではない。上述したように、それが私の諸感覚に土足で踏み込んでくるような気がするから嫌なのだ。

 今日「ゆく年くる年」を観て、久々にテレビ番組をポジティブに捉えることができた。テレビは私に、私が持つことのない時間を与えてくれることもあったなと思い出された。具体的に言えば、私が受け取ったのは節目の時間だ。

 大晦日、新年の明ける10分前。私は毎年思い立ったように居間に来て、なんとなくテレビをつける。そのことにより、年を振り返る時間と来年に思いをはせる時間を持つのだ。節目にあるという感覚が開く、節目の時間。

 自分を観るように強制し・私をしばりつけてくるような番組と、どこか別の場所・別の時間のあり方に私を導いてくれる番組とは異なる。後者のような番組となら、私は付き合っていけるような気がする。

   ずっとテレビにそっぽを向いてきた。そのうちに、テレビにそっぽを向かれた。そのようなテレビとの関係を少し考え直してもいい気がした。ストレスを溜めない形で。

くる年を、希望とともに迎える

 今年「ゆく年くる年」を観ていて、「あぁ、節目が作られている」という感覚を抱いた。来年は一体どうなるんだろう。今年起きた出来事は、来年以降にどうつながるんだろう。そういうことを考え、柄にもなくワクワクしてきた。

 未来は見えない。そして、見えていないことにいつもは不安しか感じない。にも関わらず今日に限っては、見えていない未来が、見えていないからこそ楽しみだ。

    このような期待の感覚は珍しい。しかし、毎年大晦日には、それを感得してきた気もする。なぜ新年を迎える際に、見えない未来を考えることは楽しみなんだろう。

 その理由はおそらくこういうことだ。節目の時間の中において、来年を、今年や今年に至るまでに生きてきた年月の延長上でとらえる作業を行っているのだ。

   未来は未確定だが、これまでも未確定さの中をなんとか泳いできた実績が、私にはある。それらの経験を思い起こすことが次へと向かう力を作ってくれる。

 日常生活における細事で、このような連続性はなかなか意識できない。意識する余裕がない。こんなに時間にゆとりのある生活を送っていてなおそうだから。来年以降はまず無理だろう。

    だから、自分で意識的に節目を作ることができるようになる必要がある。もしかしたら、その方途の一つが家族を持つということなのかもしれない。全然真面目に考えたことはないが。

ということで、新年を希望とともに迎えました

 今年は多くのことが決まった年だった。だからこそ、不安も多かった。しかし結局、どれもなんだかんだなんとかなった。できなかったことも多かったが、できたことの方が多かった。来年も、そうなるだろうとなんとなく思う。