目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

物語の力の物語:村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

f:id:Summery:20160813181724j:plain

 

ノモンハン事件の話って、本編に関係ないのでは・・・?

 日本の第二次世界大戦に関わる話を、一見その戦争とは全く関わりのないように見えるフィクションに挿入することの効果について。また、それがどのような意義をもつのかについて、何故とりわけ戦争の話なのかという点について。まだもう少し考えているのだけれど、あまりしっかりとした答えが出てこない。しかしどうやら一つの地点には到達したように見えるので、それを以下でまとめてみる。

 ここで論じるのは『ねじまき鳥クロニクル』についてであり、同作品を取り上げる理由は、間宮中尉によって語られるノモンハン事件についての挿入話が私にとって印象的だったこと、そしてそれが印象的であるにも関わらず、ストーリーにどのように関わるのかということを考え始めると、上手く答えが出せないこと、むしろ、その大本の岡田トオルに関わる話と一見関わりがないからこそ、それが挿入されていることに大きな魅力が加わるのではないか、しかしそうだとしたら何故なのかということが気になったこと、以上の三点が挙げられる。

語りの強度

 人はそれぞれが自分の過去について、家族について、自己の所属する共同体についていくつもの物語を持ち、それに規定されまた、それによって自己を能動的に規定して暮らしている。それら各々の物語の強度は一様ではない。一般に、広く社会的に共有される物語、例えば歴史は、それを支える国家と言う後ろ盾のもとに、教育機関や公共施設で繰り返し語られ、人々の自己規定において大きな影響力を与える。このような、広範に深く影響力を与える物語をここでは、その語りにおいて強度をもつ物語と言う事にする。

 語りの強度にはそれが広く一般に共有されるか否かという点がどうしても関わる。逆に、それが現実の生活や実感から遠ければ遠いほど、その物語の強度は弱っていく。また、現実の生活に近くとも、ある種の語りの主題としやすい事象がわかりやすく提示されれば語りは成功しやすいが、それが無ければ難しくなる。

 例えば、平凡な日常生活を記述するよりも東北関東大震災が起きた、あの3月11日に何をしていたのか、ということを語る方が容易だ。「容易」という言葉が不適切なら、そちらの方がより「語るに値する」と思いやすいのだ。何故だろう。それは語るという行為が本質的に語る相手を想定しているからだ。誰かに向けて語る以上、その相手との共有可能性に、語りは開けていなければならない。

 平凡な日常生活(例えば昨日朝起きた時どのようであったか)を語れと言われて、そんなことを語って何になる、と思うとすれば、それはその生活が他人と共有するに値しないと思うからだ。

語るに値する話とは?

 それでは、共有するに値する事項とは、どのようなことだろう。そのような事項は、本質的に自分一人でそれをもっていることが難しい事柄なのである。当たり前のように過ぎ去った出来事に関して、普通、それを領有することに困難さを感じたり、共有したいと思う事はない。

 しかし、目立った「事項」「出来事」という形で名付け、意識化することはできないけれども、語るに値すると思われてしまう感覚がある。何も起こらないこと自体を主題にしたいとき、それを私たちはどのように語ることが出来るだろうか。何一つ起こらないことを他者と共有することはいかにして可能なのか。

語るに値する話、語るに値しない話

 『ねじまき鳥クロニクル』はこのような語りのとっかかりを見つけることのできない事象と、大文字の「語るに値する」物語との間の語ることに関する力学を提示しているように思われる。

 後者が間宮中尉の戦争譚であると考えよう。この戦争譚はそもそも如何なる性格をもっていたのだったか。

 舞台設定を「日本の第二次世界大戦」に置くとき、それだけで物語はかなり堅固に決定されてくることになる。その舞台設定から読み手はいくつかの物語を想定することが出来る。

 どの物語においても共通の規定は、日本が最終的には敗戦したこと、そして戦争の物語を語る個人は常にその敗戦を生き抜いたことだ。これらの前提を確実に、聞き手は想定することができる。想定することが出来ると言う事は、その想定と異なった際には異なったこと自体を一つの発見として楽しむ事が出来ると言う事だ。

 一方で、主人公岡田の話には上の意味での強度が希薄だ。岡田の物語は、それを本当に物語る必要性があるのか疑問に思われる「何も無さ」である。しかし、岡田はその中で何かを探している。岡田が何かを探していることの切実さにおいてかろうじて岡田の物語は強度をもつが、それは読み手である私たちがその物語に価値を認めてやることではじめて読もう、という気になるものだ。

 そのような何も無い生活に岡田自身は勿論自覚的だ。物語の中盤で、本田の死という裂け目において開かれた、間宮を媒介とする、戦争の物語への接続可能性が、岡田の何一つ確定しない宙に浮かんだ生活を際立たせる訳だが、その中で岡田は、ともかくも何かをしようと試み始める。

何もない生活を語る

 何をしてよいかわからない。どこが目的なのかわからない。そもそも何をしてよいか、何が目的なのかということが決められることなのかわからないし、それをどのように決めるかもわからない。毎日が何もせずにすぎていく、「何もしなかった」という感覚を持つ事でかろうじてその日に「何かをしなければならないがそれがわからず、何もしなかった」という空虚な苦痛を上書き保存することに成功する、その生活の中で、しかし「何もしないこと」に抵抗する、そのことは、漠然とした日常を生きるのでないあり方があることを知る中で行われていく

物語から力を得る

 間宮の話が直接に「クロニクル」に関わるわけではない。岡田は間宮の話の中で間宮によりぽつりと語られた、ノモンハン事件の驚くべき空虚さについて知るのだ。それは間宮が先の大戦を後から回想していく中ではじめてわかっていくことだ。

 そのなかで岡田は、そのような戦争の空虚さを押し進める主体が、間宮にとって見えていなかったものであったということを知る。間宮の戦争譚と岡田の日常が共通性をもつとすれば、それはこのように非常に抽象的な意味においてだ。しかし、そのような共通性を見つけた岡田はそれについて考え抜く事で、綿谷ノボルに対する突破口を切り開いていく。

 岡田自身、何気ない日常の中で透明に迫ってくるものにより、緩慢に首を絞められているような感覚があるものの、それに近づく手がかりを得られない、それを特定することは叶わない、そういうものが存在するという確証もないから、本当だったら誰にもそのことは言えないのだ。

 しかし彼はそれがあると考え、それになんとか近づこうとする、そのようなものが実際にあるということだけは岡田は確信を持っているからだ。それは彼が間宮を始めとする様々な人々の話から鋭敏さをもって引き出してきたものであり、同時に根拠の無い妄想と始めのうちは紙一重だ。ねじまき鳥クロニクル』における岡田の綿谷ノボルへの反感はほとんど妄想に近いところから始まる。しかし、それはどうやら正しいことは少しずつ明らかになっていくのだ。

「クロニクル」へ

 自分の小さな感覚に鋭敏にあること、そして時が来たら、運命の駆動力との接続を試み、必死な抵抗を試みること、戦争ほどにわかりやすくはないが、しかしともすれば自分をつぶそうとする悪がこの世に潜んでいる可能性があることを、その敵の曖昧さ故に語る言葉自体も曖昧となりながら、しかし告発する村上春樹の手つきを見ていると、この作品が確かに「クロニクル」を描き出そうと試みていることが分かる。

 それはもちろんある年にある事件が起き、それがどのように歴史的・社会的な現象となったか、という意味でのクロニクルではもちろんない。しかし、岡田個人を描く事によりつむぎだされる「クロニクル」もまたあり得る。

 岡田が作中で間宮を初めとし、笠原メイ、加納クレタその他様々な人の話を聞きながら自己の立ち位置を冷静に見定めていったように私たちもまた、岡田の「クロニクル」を媒介に日常に抗する可能性が開けているといえるかもしれない。

同時代性のクロニクル

 そして岡田の「クロニクル」が今私が大いに刺激を受けているように、仮に他者と広く共有する可能性に開けているとすれば、それは彼自身にとって明らかにならない部分が明らかにならないものとしてそのまま描かれているからだ。「クロニクル=年代記」という言葉で示される対象を国家の年代記でなく、また岡田の個人史でもなく、岡田とその岡田の生きた時代、その曖昧さの中に私たちもまた生きていたという同時代性に読み替えることで筆者は開かれた歴史の可能性を探っている様にも見える

 岡田と綿谷ノボル(=漠然とした悪)との戦いは、大文字の歴史を一方に起きながら、敢えて個人の一見強度をもたない物語が、時に驚くほどの抵抗感をもつ様を描き出す、作中の物語間の力関係の相似形と見ることが出来る。そしてその中で同時に、強度をもち、広範に共有される物語の中にも、生き延びてしまった間宮固有の空虚さの体験のように、無数の個人史が潜んでいることが明らかにされる。

 

 *リライト記事ですが、随時更新します。