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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

『騎士団長殺し』における「メタファー」という言葉への違和感、それと雑記

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  どうしてもうまく寝付けず、今日は4時に起きてしまった。猫を抱いたために両手がふさがり、本を読むことができなかったので、宙を眺めていたのだが、そうしていると、これまでのこと、そしてこれからのことが渦を巻いて頭を占拠してくるようで、たまらなくなった。ものを考えたくない…。

 

 猫を傍らに置き、机の上においてあった『騎士団長殺し』を読もうとした。けれど、ラスト50ページのところまで来ているのに、それ以上読み進む気が全く起きない。それで、結局今日もほとんど読まなかった。

 つまらないわけではない。しかし、どこかで読んだ気がするセリフや展開、思考の流れの連続で、すでに読んだものを読まされているような気がして、あまり積極的になれない。

 ここまで読んできた部分で、ワーストは、騎士団長が「わしを殺せば、顔ながが現れる、早く」というようなことを言った部分。オーブを集めれば道が開ける、とか、中ボスを倒せば奇跡の薬が手にはいる、とか、本当にそのような展開だ。

 

 もともと村上春樹作品の根本的な構造はRPGゲームのように単純なものであると言われている。だから、このような記述もさもありなんなのだが、ゲームに見られるような構成・構造を現実世界の記述に適用する手つき、本来的に混沌としている世界を、ある秘められたルールがあるものとして小説の中に立ち上げていく手つき、そこにこそ村上春樹の本領があったはずではないか。これでは構造があまりにありありと露出するため、その性来の単純さが際立ち、鼻白んでしまう。現実世界がそこに立ち上がってくるというリアリティはない、と思う。

 

 あらゆる内的な連関を「メタファー」という言葉により一元的に説明しようとする点も、もはや驚きながら読んでいた。少なくとも、『ねじまき鳥クロニクル』はアレゴリーに満ちていたように思うのである。ノモンハン事件の話が、岡田の話とつながりそうでつながらない。この二つの強い物語の間の距離から岡田は力を得るし、この二つの物語の間の距離の深淵からこそまた暴力も湧いてきたのではないか。

▽ 

 再び抱いた猫は、そのような時間に抱かれることがこれまでになかったせいか、意外そのものであるという顔で、目を見開いてこちらを見ていた。彼女の驚いた顔と対面していると、何か抜き差しならないことが進行しているようで怖い。もしかしたら、私は叫びそうになる直前なのかもしれない、と思うことで、そのように客観的に自己の状態を把握できることに安心する。とても憂鬱な明け方だった。

 

 宮沢賢治の、どの作品だったか忘れたが、「山猫のにゃあという顔」という表現があったように思う。高校生だった当時の私は、この記述に出会って、なんとシンプルで、なんと適切な形容なのだろうと感嘆したのだった。私以外誰も乗っていない在来線の車両で。両側にすすきのある、周囲よりもやや低いところを抜けると一気に視界が開け、進行方向左手側に延々と田園が見える。田舎めいた場所に住んでいてよかったと思うことは、都会に住んでいないために不満を感じるのと同じくらい多い。