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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

物語の創作を授業で行うことについて考えたこと

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 昨日、以下のようなエントリが回ってきて、興味深く拝読した。私も、高校の国語の授業で小説の創作を経験したのだった。

askoma.info

 当時のことを振り返ると、私は創作が好きだったので、「書いた」「書く」という意識だった。しかし一方、周囲を見回すと、「書かされた」という意識を持った人の方が圧倒的に多かったように思う。中学以降に受けたことのある国語の授業とあまり趣が違うにもかかわらず、先生がその意義を十分に説明しなかったため、生徒はそれをすることの意義につき納得しないまま、創作を迫られることになったからだ。

 創作の授業の体験を受けた立場から振り返る

 私が高校で経験した授業は、以下のように進行した。冒頭、先生が簡単に技術の説明をする。それは、修辞技法や語彙の選択、そして焦点化の方法などに関わるものである。それを生徒は、その場で簡単に実践する。そして、個人作業の時間に入る。

 個人作業の時間に先生は何をしているのか。机の間を回って、声をかけたり、創作物を横から読んだりしている。なんだか、先生が手持ち無沙汰のように見えるな。これで授業って言えるのかな、と感じたのを覚えている。権威を持った教師が教える知識なり技術なりを、あまり疑問を持たずに頭に入れ、テストでそれを再現する、という授業の様式が高校生当時の自分の頭の中に第一義的に存在したが故の、違和感である。

 と同時に、当時もう一つ持った感想は、「これは美術の授業のようだ」というものだ。私が経験した小中の美術の授業は大概そうだった。先生が、今度用いる素材や、創作の基盤となる技術について解説する。そして、初めはそれを用いた非常に簡単な創作物を作る。その後、生徒個々人がそれらを応用しながら、自分としての表現を突き詰めていく。先生は、机の間を回って「へぇ」とか「ほお」とか言う…(もちろん指導もしています)。

 創作を授業に取り入れようとすれば、教員は、上のように生徒一人一人の自己表現を支援するという形態の指導を取らざるを得ないだろう。実際、上記エントリの主であるあすこま氏の指導は、書き終えた完成品について評価を下したり、添削をしたりすることを主眼とするのではなく、書き手の書く過程自体を支援する(プロセス・アプローチ)指導であるとのことだ。

 「なぜ学校の国語の授業で物語を書くのか?」

 このような授業を展開すると、当然に「なぜ創作を授業でやるのか」「創作を授業でやる意味があるのか」という問いが投げかけられる。上記あすこま氏のエントリでは、その意味として三点あげられている。そのうち二点目、三点目はいずれも言語を用いての自己表現=語ることの重要性に関わるものである。

 二点目として提示された言語運用の技術の涵養という論点が、技術的な面を重点においた意義づけだとすれば、「生きる力」というクリシェにひきつけることが出来そうな第三点は、表現すること、語ること自体の意味から、創作の重要性に踏み込もうとするものだろう。これらの説明は一応のところ納得できるものであると思われる(もちろん、学校教育という制度の枠組みの中では、第一点目の理由が端的であることは言うまでもない)。第三点目の理由は、個人的には未だ十分に説明されたものではないと思われるが、そもそも十分に書くことが容易ではない上、教育現場で発せられる上記の問いに対する答えとしては、大きな欠陥があるとは全く思われない。私が不十分に感じるのは、端的に私の専門と関心に関わっているので、この私の感覚は別に無視されて良い。

 一方、これを読みながら、私は新たに問いを持つに至った。国語という科目に負わされている責は膨大だ。教員によって養成されることが期待される生徒の能力は多くある。確かに創作をやる意味はあるだろう。それは重要だろう。しかし、他にも重要なことはたくさんある。貴重なリソースを例えば読解力の開発でも、論理的思考力の開発でもなく、あえて創作に割く理由は何か。ということが、気になったのである。

創作に授業時間のどれほどを割くのが適切なのか。なぜそれが適切なのか。

 創作の授業は重要であり、必要だ。それと同時にまた、当然のことながら、創作でない授業も重要であり、必要だ。重要か、必要かでいえば、どれもこれも重要であり、どれもこれも必要である。

 例えば、教科書を用い、黒板を前にして、皆で一斉に短めの文を精読する従来型の精読の授業を考えてみよう。それは今、批判にさらされている。しかし、批判はあっても、それが不要であると言い切る人はいないだろう。精読の授業には限界がある。しかしそれは必要だ。そしてまた、そうではない他の形態の授業も必要だ。色々な形で言葉に触れ、言葉を使うことにより、運用能力が身につく。

 したがって、議論されるべきは、何をどのようなバランスで教育にとりいれていくか、ということだ。そこには、教育者が生徒のどのような力を伸ばしていきたいか。どのような理由によりその目的に正当性が付与されるのかということに関する議論が不可欠である。

 「なぜ授業で創作を扱うのか」という問いの一部は、「(創作が重要なのはよくわかるが、他にも重要なものは多々ある中で)なぜ(あえて今、大変リソースの限られている学校教育という現場の中の)授業で創作を扱うのか」という問いをはらんでいるように思う。

問い

 以上から、上のエントリを書いた筆者にまず私が問いたいのは、①創作の授業は重要だとして、「一年の授業の中で、どれほどの時間を創作重点型の授業に割くことが適切なのか」という問いである。

 次に、②「そのような配分をとる理由は、どのような優先順位によっているのか」という問いが、さらに、③「公教育には多額の税金がつぎこまれているため、公教育を行う主体=教員は、それらを適切に運用する努力義務があるだろう。それでは、③の答えとして提示された優先順位には、いかなる意味で、正当性があるのか」という問いが来る。