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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

久々にどっぷりと読書に浸る。 谷崎潤一郎『細雪』

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 久々にどっぷりと読書に浸っている。「小説の先が気になって、夢中で読みふける」という体験の只中にある。

修論執筆中は、「夢中で読みふける」ことはしなかった

 思えば、修士論文執筆中にはこのようなことを経験しなかった。修論で対象にしたのが牽引力を持った物語が展開されるタイプの作品ではなかったことが、その一番の理由だ。読みにくいけれども、なんとなく気になる。そして気になったところを掘り下げていくと、思いもかけなかった細部同士がつながっていく。つながった時点から、もう一度読み直すと、細部の意味合いが変化して見える、そのようなタイプの作品を扱ったのだった。

 ここ2日ほど夢中になって読んでいるのは谷崎潤一郎の『細雪』である。

細雪 (上) (新潮文庫)

細雪 (上) (新潮文庫)

 

  実は、一度授業の主題にとりあげられた際に読もうとしたのだが、その時はあまり入り込めなかった。今回も、上巻ではうまく入り込めなかったが、中巻あたりから一気にどっぷりと浸かることになった。

揺らぐ蒔岡家と女たちの生

 この作品では、戦中における、関西の旧家蒔岡家の女たちの生活が描かれる。

旧家なりの気品とプライドが見える

    私自身は完全に庶民の生まれであるので、作中における幸子の、自分たちと位が違うと認定した人々に対する鋭利な眼差しが読んでいて突き刺さってくる。そうか、名門旧家に特有の気品とプライドとはこういうものなのだなと素直に感心する。

    いや、本当にそうなのか、それは谷崎の頭の中にだけある名門旧家ではないのか、という疑いはあるが、この点に関して詳しくない私はとりあえずそうであるということにして読む。

揺らぐ蒔岡家と、その中の女たち

    旧家特有の気品とプライドなどと書けばいかにも旧弊に感じられるし、私もその内閉的な雰囲気が嫌で、初読時は上手く入り込めなかった。

    しかし、作品の力点は旧家が旧家として存続し続けることができない状況を書くことにある。蒔岡家は家主の交代や経済状況の変化により、有り体に言えば没落していく過程にある。その背景のもと、多くの私生活上の事件や複雑な時局下の社会情勢の変化に対する対応をせまられる構成員に、語り手は内的に焦点化する。

    主に女たちに内在的な視点から、小事件や他人と相対する時の、彼女らの対応や細かな判断、感情の動きをつぶさに描くことにより、一方で、旧家の規範とそれに基づく行動様式を保持し続けるからこそ守られる精緻な人間同士の関係や家と家との緊密かつ互恵的な関係が克明に描かれる。

    無論そしてまた、他方で、家という制度が自己保存と再生産を繰り返すことの空虚とそこにがんじがらめにされる女の苦悩、そして悲哀が描かれる。

家制度という文化的構築物の体系が克明に描かれる

    作中には、どうしてここをこんなに細かく書かなければいけないのか?と思われるような細かな描写や固有名の連続が多々見られる。私には勉強不足でわからないが、微に入り細に入り見ていけば、それら一つ一つは実は効果的に配置されており、全体として家という一つの制度を描き出すために不可欠な装置として機能しているのであろう。

    ここまで徹底的に家制度や、そこにおける生活の様式が描かれると、精緻に描き込まれた一つの絵画を見ているようだ。細かな描写それぞれが、全て内在的な論理に貫かれているように思われる。ここに書かれているのは一つの体系である。

    しかし残念ながらこれは依然浅い読みで、書き出される体系と語り手の位置との関係を問わねばならない。「夢中」で読んでいるので、今はそこまでいかないが、これを書く意味はなんだろう、ということはおいおい考えていきたい。

そして、お見合いの行方は…?

 ではなぜ、「夢中」で読むのかといえば、最大の原因は、なんといっても物語の中心に据えられた三人の女たちのうち、二人のお見合いの行方であろう。「どうなっちゃうんだろう、これは」と野次馬根性をむき出しにして、ハラハラドキドキしながら読んでいる。焦点化されることの多い人物幸子が、まだ結婚のあてが見つからない二人の姉妹の今後を案じたり、お見合いの段取りを整えながら、その成り行きに気を揉んだりする部分を読むと、「いや、ここは妙子を先に片付けてもいいのでは?」とか「この男を雪子と一緒にすると、雪子がかわいそうなのではないか?」とか幸子に並行して考えてしまっている自分がいる。

 物語の世界に入っていくことの快感を、久しぶりに味わっている。

 このように夢中になって物語の世界に入ることは、快感だが一方で、こういう読みは、批判的な読みではないな、と思う。語り手が繰り出す物語世界に乗っかって、驚いたり、喜んだり、悲しんだりしているのだから、小説の装置を相対化して読んではいないのである。

 やっぱり夢中になって読むことと、作品について論じることは違うな。大学院生を終える私は、これから物語とどう付き合っていこうか、などということを少し考えている。本当に、少し。とりあえず先を読む。