目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

俺は、このまま本に埋もれ続けるのか?

f:id:Summery:20170216130812j:plain

 このブログをある程度義務的な形で、更新し始めたのは最近になってからだ。就職するのなら、大学の授業で供給されてきたような書く機会はなくなるだろう。それは僕にとっては寂しいことだった。書けない書けないと思いながら書こうと試みることの中で気づくこと、はまって行く精神状態があるということをこの6年間に知ったから。それは自己認識の深化と言っても良いかもしれない。

 もう一つは、このように書く機会を担保しなければ、職場が要請する書き方以外が難しくなるかもしれないという思いだった。それは、自己の一部の固定化を意味する。ある書き方をとろうと努力することは、自分の中の何かをその書き方に向けて方向付けるということだからだ。そこから抜け出すようなモメントを有していなければいけないのではないか、そう思われた。

 ところで、このブログ自体は、2012年から折に触れて更新していた。今ではほとんどその内容を覚えていない。今朝、2014年のいくつかの記事を見て、気づいたことがある。

 

summery.hatenablog.com

  上の記事で、僕はこう書いている。

駅で久々に会った友達は、君はどうしたんだと声をかけたくなるほど、やつれているような顔つきをしていた。僕はその表情から受ける感覚を少し考えた末に、やつれているというより老いてるんだ、彼の中に老いの兆候を見たのだと思い当たった。疲れてそうだった。

 打ち込んでいたサークル活動は殆ど終えてしまい、今は大学の近くで主に本を読みながら生活をしているという、彼は古い図書館のホコリっぽい雰囲気を身体から発散させているようだった、僕の嫌いなあの泥のような眠気をいつまでも喚起する成分なのではないかと、そういま僕がにらんでいるところのものだ。眼鏡も随分厚くなったし、頬は垂れ下がってきている。

 

 覚えている。僕はその頃特定を避けようと現実との対応をあえてずらした書き方をしていた。実際には、彼に、市の図書館で遭遇したのである。しかし、彼が老いているように見えたのは、無論真実として書いたのだった。イタリア文学を専攻している彼の漠然とした疲労の感覚、「俺は、このまま本に埋もれ続けるのか」という小さな吶喊まじりの声が聞こえてきそうだ。

 ところで、今思い返すに、これはもしかしたら、彼が僕自身に感じた印象だったのかもしれないと思われてくるのである。今となってはその時のことを正確に思い出せるわけではないから、余計そのように感じられてくる。

 確かに老いていた、彼から老いの印象を感じた。しかし事実は全く逆だったのではないか?彼は実はそこまで老いてはいず、やつれてもいず、別にそこまで埃っぽい雰囲気を体から発散させていたわけでもない。2014年のブログは、僕による彼の認識を書いただけなのではなかったか。

 そう考えるのには、理由がある。おそらく、彼を見て僕が受け取り、書き下すにいたった印象を、僕は自分自身に対し、自己認識として持っていたからだ。

 当時、僕は倦んでいた。卒論のテーマが全く決まらなかったからだ。探求すべき事柄自体を自分で設定しなければならないこと、そしてそのために、とっくの昔に乗り越えられた学説や、発表当初からほとんど誰も見向きもしなかったような専門書の類を漁らなければならなかった。いや、そんなのは実は読む必要もないのだが、どこから手をつけてよいのかわからない僕は、それらを読み、あとで無駄だったと気づく体験を重ねなければならなかったのである。それは徒労そのものだった。

 僕は僕の友人に関して書きながら、実のところ自分自身のことを書いていたのではないか?「俺は、このまま本に埋もれ続けるのか?」という、僕が哀れんだあの彼の心の声は、自分自身の声だったのではないか?自分自身の生活と、本を読むことが結びつかない時期が、僕に到来していたのだろうと思う。

 当時もわかっていたかもしれない。しかし、今あえて当時の自分に言葉をかけるなら、「本を読むのはそんなに簡単ではない」となるだろうか。「継続的に読むには」と言った方がよいかもしれない。読書から自己の生活に結びつくものを発見し、生活の中で読書の原動力を見つけて行くこと。そのようなサイクルを作り上げて行くのは容易ではない。それは、知的好奇心を満たす、というような読書とは全く別である。知的好奇心には終わりがある。今は幸い、その衰えを感じない。しかし、それにはいつか終わりが来る。その先も、人生はずっと続く。