目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

ラインは本当に疲れる/トーマス・マン『魔の山』

 ラインは本当に疲れる。私がコミュニケーションに期待をしすぎているのかもしれない。返信が来るとテンションが上がり、「すぐに見たい」と思うし、来ないなら来ないで「いつ来るのかな、これだけ遅いということは、何か変なことを書いてしまい、相手が怒っているのかもしれない」と思う。このように一喜一憂することで自分の時間を持つことは難しくなるのだが、それでもそうなってしまうのは、私の神経がすでに、ラインによって悪しき形に馴致されてしまっているということなのだろうか。そうなんだろうな。

 年度末、基本的に暇で、何の役職にもついていない私でも、色々な連絡をすることになっている現在。社会人は忙しいだろう。もちろん、大学も大学院も社会の一部だから、私も「社会」の「人」ではあるのだが・・・

 今日は朝起きてから昼ごろまで『魔の山』を読んだ。昼ごろ市役所に行って必要な書類をとってきた。午後は小学校の頃の塾の先生と連絡を取ったり、親戚からもらったお祝いに対する感謝状を書いたりした。夕方はお世話になった先生のシンポジウムへ。こう書き出してみると、意外と今日色々やったな。

 私は『魔の山』の上巻を四年前に読んだ。そしてそこで読むのをやめていたのだった。理由は一言で言えば、難しくて議論が追えず、集中力が持たなくなったからだ。今読み直しながら、確かに簡単ではないけれど、しかし一方、そう難しくもないような気がするのだが、要するに当時の自分に根気が足りなかったのだろう。

 『魔の山』を再び読み始めたきっかけは、一昨日部屋の整理をしていたとき、タンスの裏に落ちて壁との間に挟まったままのそれを発見したことだ。開いた状態で挟まっていた。壁とタンスとの間で押し広げられたページを何気なく読み、少し気になったのだった。

 

少年は祖父の細い白髪頭を見上げた。それは、祖父がいま話している遠い昔の洗礼のときのように、洗礼盤の上にかがみこんでいた。すると少年は、それまでにも経験したことのあるひとつの感情に襲われるのであった。それは進んでいると同時に止っているような、変転しながら停止していて、目まいを起すようで単調な繰返しをしているような、半分夢のようで、そのくせひとを不安にさせる一種異様な感情だった。これはいままでにも、洗礼盤を見せてもらうたびごとに経験した気持で、実は少年がふたたびそれに見舞われたいと待ち望んでいる気持であった。止りながらも、しかも動いているこの先祖伝来の器を、少年がこんなにたびたび見せてもらいたがったのは、いくぶんかはそういう気持からのことだった。(53頁)

 引用は以下の版より

 

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

 

  三年前に読んだ時、この話は時間に関する話だなと思ったのを覚えている。この感想は0点である。トーマス・マン自体が「どう読んでも時間の話です」というメッセージを作品の冒頭部をはじめとして随所で送ってきている。

 それで、当時の私はその時間という主題を、単に山の療養所でひたすらに無為に時間を過ごすハンス・カストルプ少年の、日毎に変容していく時間感覚の描写に主に読み取っていた。

 しかし、上のような部分を読むと、ハンスの特異な時間感覚は血筋の連続性の自覚とも関わっていることがわかる。それは、単純に血筋が連続しているという感覚ではないだろう。なぜなら、上で書かれているのは、進んでいるにもかかわらず、停止しているという感覚だからである。

 この感覚をどうとらえればよいのだろう。例えば、このようなハンスの感覚は、血筋の連続性の自覚がもたらすような、自己の存在が大きな連続に連なるという充足感が、20世紀初頭においても未だに可能だということを示しているか、それとも、それがもはや不可能であることを示しているのか。

 ということが気になり、なんとなく読み直すに至っている。