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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

『騎士団長殺し』についてイマイチピンと来ないこと

 今日朝twitterをみていたら、この間『騎士団長殺し』について考えるエントリを書いた時に参照した記事の評者の一人である鴻巣友季子さんが中島京子さんと対談している記事が回ってきた。

dokushojin.com

 この間のエントリも合わせて貼っておく。

summery.hatenablog.com

  今回の鴻巣さんと中島さんの対談記事は、個人的にうなづけるポイントがいくつもあった。例えば、鴻巣さんが、地の文における語り手の自己認識と、実際に語られる語り手との乖離について述べた以下の部分(引用は、一つ目に貼ったリンク「対談=…」より)

どうも「私」が語る自分自身と、読者が読まされる人物像が、乖離しているように感じるんです。「私は人見知りをする性格で」といいながら、「機会をつかまえて」女性を誘い、妻に別れを告げられてからすぐに二人の女性と関係を持っていることとか。慎重で二度より三度考えるタイプだ、といいながら、アトリエで少女と二人きりになり、おっぱいトークをしていることとか。

 私は、 上記エントリで「語り手が自己の認識機能の限界を自覚している」ということを書き、別エントリで、「語り手が何かを隠しているような気がする」というようなことも書いた。おそらく、それらは、鴻巣さんのいう「乖離」に関係していると思う。もちろん、それになんの意味があるのか、ということをはっきりさせなければならなくはあるのだが…。

 あとまあ、同じく鴻巣さんの発言の

今回は背景にアンシュルスナチスオーストリア統合)や南京事件などはあっても、『ねじまき鳥』や『海辺のカフカ』のように、根源的な悪と対峙して殺めることも辞さない、というところまで外へ乗りだして行くことはなかった。あくまでコンセプチュアルなレベルでの「殺し」に留まっています。

 という部分も、「ねじまき鳥に比べて弱いな」と思った自分の感想に一致している。

 おそらく、この「コンセプチュアルなレベルでの「殺し」に留まって」しまった原因が、「乖離」にあるのだろう、と私は推測している。「ねじまき鳥」は自己内部の悪と対峙することが、社会的に存在する巨悪と対峙することと接続してしまっているところに魅力があったのだが、語り手の自己認識と、描かれる語り手自身の描写との乖離は、自己を特定することを妨害し、結果的に内部にある悪との対峙という試みへの道を絶っているのであろう。

 それでは、この作品は、自己内部の悪と戦うことを、現実変革へと通じるような仕方で行うことが、もはや不可能になっているということを言おうとしているのだろうか?うーん、そうかもしれないけど、あんまりピンと来ないので判断留保