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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

「懐かしい」とは何か? 大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』

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 毎日なかなか疲れる。そもそもこれまでずっと座りっぱなしの生活を送って来たのだが、今は毎日、二時間は立っている。もちろん電車で。それなりに空いている電車に長時間乗るのが私の通勤スタイルで、生活のあり方としては、どちらかといえば健康的になったのかな、と思わなくはない。しかし、立ちながらの読書は難しいから、それが問題である。

▽『M/Tと森のフシギの物語』

 最近は、通勤の合間に大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』(1986年)を読んでいた。

M/Tと森のフシギの物語 (岩波文庫)

M/Tと森のフシギの物語 (岩波文庫)

 

  この作品は、79年に大江が書いた、『同時代ゲーム』という作品の書き直しとしての性格を持っている。そのことは、あとがきで大江自身が述べている。

同時代ゲーム (新潮文庫)

同時代ゲーム (新潮文庫)

 

  『同時代ゲーム』は大江にとって大変な力作でありながら、世間からの評価としては、概ね不評であったといって良い。ただし、長く誠実に大江を読み続けてきた批評家の多くは、この作品を(手放しにではないが)高く評価している。

 最近では、筒井康隆が、この作品について語っていた。

book.asahi.com

 『M/Tと森のフシギの物語』は、『同時代ゲーム』と内容的にはある程度被っている。どちらも、語り手に内在的な視点から、語り手の幼年時代に住んでいた森の神話につき、語り手が、年長者から語られたことを改めて語り直していくことを中心とした作品である。

 しかしながら、語り手と語られる神話との関係性は、二作品で大きく異なる。『同時代ゲーム』は、いわば語られる神話自体に潜む現代文明への批評性や、多義性・曖昧性に本領があった。

 それに対し、『M/Tと森のフシギの物語』で主題となるのは自分が経験していない神話の世界と、現代を生きる語り手の生とが、いかに関係性を結んでいくか、ということである。そこでは語られる神話の内容よりも、語られる神話に対して語り手を含む人々がいかなる態度をとるか、ということが、焦点となる。

▽「懐かしい」とは何か

 さて、この作品の中では、「懐かしい」という感覚が、一つのキーワードとなっている。自分の生まれる前にあったとされる、自分が住んでいる村の神話を、祖母から繰り返し聞かされる語り手の〈僕〉。その〈僕〉は、それらが嘘と紙一重であるとわかりながらも、それらの神話に「懐かしい」という気持ちを感じ取る。

 〈僕〉によれば、「懐かしい」とは、通常は自分がすでに体験したことに関して感得するはずの感覚である。しかし〈僕〉はそういいながらも、自分が、直接体験したのではない村の神話に関して、懐かしさを覚える。そして、〈僕〉は、「懐かしい」という感覚を、自分が直接体験したのではないけれども、ある体験が、繰り返し起きたことであるとわかること、と改めて規定していくのである。

 

懐かしいと感じ取ること。それも自分が直接にかつて経験したことのよみがえりというのではないが、しかも懐かしい。それはこの森のなかの谷間で、はるかな昔に幾度も幾度も起ったことだからではないか? そのように僕は感じたのでした。

(引用は上掲岩波文庫版より。26頁)

 

 ここには「懐かしい」という感覚の読み替えがある。このように〈僕〉に内在的な視点から〈僕〉の中の感覚の再規定が描かれることにより、読者もまた、懐かしいという感覚を改めて規定することへと導かれる。

 このような大きな繰り返しの中に自己の生があるという感覚は、しかし、作中で無批判に称揚されているわけではない。むしろ、〈僕〉は、それに殉じるようにして、死の一歩手前までいってしまう。ある日川の底の、岩の中にウグイの巣を見つけた〈僕〉は、それをよく見ようと狭い入り口に頭を突っ込む。そして、見えたウグイの文様に「神話と歴史」を読み取るのである。ことが起きたのはその時だった。

 

[...]僕はこの「ウグイの巣」が、ウグイの群れの魚体の斑点でなにもかもを書きあらわしている図書館だ、と感じたのです。それならば、森のなかの谷間の神話と歴史こそがここに書かれているのだと、いまひとり村の子供が溺れようとしていることすらも書かれているはずだと考えた時、僕はわれにかえりました。そして出口へ向けて急ぎ戻ろうとして、岩棚に頭を挟みとられたのでした。

(同上、53-54頁)

 

▽懐かしさと傷

  川の底で頭をはさみとられた〈僕〉は、たまたまつけてきていた母親に強引に引き摺り出される形で助けられるが、その際に、頭に傷を負ってしまう。そして、その頭の傷は、〈僕〉が繰り返し聞かされた、村の神話上の英雄たちが有していたものと、同様の傷であった。

 村の神話と歴史をみて取るという行為に殉じようとし、そこからぎりぎりのところで逃れ得たことから受けた傷こそが、むしろ自分自身が神話と歴史の繰り返しの中にあることの証拠そのものとして機能するのである。

 だとしたら、神話と歴史、そして、それらに醸される懐かしいという感覚から逃避することは不可能なのではないか?懐かしさに従って「神話と歴史」に惹きつけられるように殉死することから、逃れ得たということ自体が、懐かしさを補填する「繰り返してあること」の刻印となるとしたら、どこに外部はあるのだろうか。

外部への手がかりとしての傷

 ここで外部への手がかりとして大江が提示しているのは、繰り返しの根拠そのものである「傷」であると思われる。

 先に述べたように、傷は、〈僕〉と神話上の人物の共通性を示しており、傷があるからこそ、〈僕〉が、神話の繰り返しの中の一個として捉えられる。

 しかし、傷は本来、一つ一つ一回的なものであるはずである。一つ一つ一回的なものであるはずの傷が、一度つけられると繰り返しの記号として機能する。その繰り返しの感覚から完全に逃れることは難しいのかもしれないが、繰り返しの感覚に取り込まれながらも、当初の傷の一回性にたちもどろうとすることは、いかにして可能なのだろうか。

 そのことが、「懐かしい」という言葉とともに、「傷」というモチーフの頻出する『M/Tと森のフシギの物語』の中心的問いだと言えるのではないか、と私は考えている。。

 大江は、思想的にはサルトルから出発して、70年代にポスト構造主義の薫陶を受けている。そのような背景を知るものからすれば、刻まれた瞬間に繰り返しの一部としてある痕跡の、一回性を問う実存的な問いだては、わかりやすいかもしれない。少しわかりやすすぎるので、以上のような読解はむしろ、私の読み取りの浅さを露呈させてしまっているのかもしれないが。

▽懐かしさと傷とが重なる

 この問いに作中で明確な答えが出ているわけではない。しかし、大江は作品内の終結部で、傷と一体化した懐かしさというビジョンを提出しているように見える。懐かしいという感覚を、到達し得ない傷の一回性への憧憬としてさらなる読み替えを試みているように思われるのである。

 それは、マスターナラティブとしての神話と歴史に感得する感覚ではない。むしろ、マスターナラティブに回収される過程で切り取られた断片、傍流の神話、欠落という形で存在が示されるそれらを拾い集め、再構成することによってこそその片鱗が見られるような、伝承されてきているものとは別様であり得た原初状態への憧憬である。

 詳しくは、ぜひ作品を読んでみてください。

▽作家の一つの乗り越え点を刻んだ作品

 どうやら大江のあとがきなどを見ると、この作品の執筆を通して、大江は、散逸する断片をつなげ、あり得た可能性を再構成すること。そのことを、自分の作家としての役割として引き受けるに至ったようである。

 そのことにどのような意味があるのか、明確に言語化はできずとも、とにかく、自分の仕事を明確化しえた、という感覚。その作家としての一つの乗り越えの感覚、安堵感が、『M/Tと森のフシギの物語』という作品のやさしく肯定的な作風につながっているのかもしれない、と思われた。