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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

うちらめっちゃ面白くない?

 自分のやってきたことが、本当に意味があったのか。その問いは、鋭く、大部分切ない。「意味はなかったのではないか」−−−そのような答えを含意するからだ。

 その問いを発するものは、「意味がない」という答えを想定している。その怖さと戦い、時にはとても軽い言い方で、時には意味なんてどうでもいいんだ、というやさぐれた形で問いかけてくる。

 5年前の僕にとっては、発問者のその態度が嫌だった。卑屈で、保身に走る。にやにやしながら、「このサークル面白いでしょ?」と問いかけてくる、二留してしまった先輩。「面白くない」とは決して言えない状況を作っていることを自分でわかりながら、素知らぬ顔で問いかけてくる彼の、しかもそういう時は大抵酔っ払ってにやけながら。その顔をみながら、僕はその弱さを、叩くことしか能がなかったのだ。5年前は。

 今は、もっと余裕がある。それを叩き潰すよりは、むしろ彼らが、それを言わざるを得ないくらい、なんらかの悩みを重ねながら、しかし勇気を振り絞って、年下の僕に彼らの裁定を委ねてくる。そのことが気になる。

 僕が「いや、つまらないですね」「こんなの意味あるんですか」と言いうる可能性を、自分たちで誘発する、その態度に、若干なりとも、敬意を覚えるのである。僕が「つまらないですね」という必要はない。

 つまらなそうに「面白いですね」と答えればいいのだ。そちらの方が残酷だし、それで十分何もかも伝わる。けれど重要なのは、「俺たちは面白いのか」という問いをそもそも発することができるところまで、十分に批判的なことではないか。そこから先、「つまらない」と言われることに耐えられる必要はない。貧弱な人と、筋骨隆々な人がいて、別にどちらもいいだろうと思われるように、心に関しても強い人と弱い人がいる。それらは正直、大して変わらないのだ。

 僕は多くの人を許せるようにならなくてはならない。もちろん、それには体力が必要だから、ある程度体力がある限りにおいて、ということなのだが。くたくたな時は、人に構っている余裕はない。

 どれだけ余裕があるかということは本当に大事だ。