目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

高校演劇という不幸/高校時代の同窓会に参加してきた

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 昨日、高校の友人たちとの小規模な同窓会に参加して来た。かつて皆で作った演劇を放映し、会は盛り上がりを見せた。

 会を通して、当時はどうしようもないと思い、それを作ったという経験を思い起こすたびに自己嫌悪に陥っていた劇が、案外面白かったという嬉しい発見をした。それとともに、未熟な高校生に未熟な演劇を作らせることの教育的意味に関して、考えたことがあった。

 

 唾棄すべき「未熟さ」を伴う劇

 高校生があまり観客のことも気にせずに作る劇なのだから、当然だがつっこむべきところは限りなくある。当時はそれが気になって仕方がなかった。

 もちろん、演劇は誰か特定のものの占有物ではない。未熟な高校生こそが作るべき演劇というものがあるはずだ。だから当時の僕も、何もその未熟さから、自分たちの作り得た演劇に否定的評価を下していたのではなかった。「未熟さ」が唾棄すべき「未熟さ」としてしか現れないことに苛立っていたのだ。

 どういうことか。

「未熟さ」を生かす枠組み

 例えば、テレビに出るような俳優が出演する、一般的な舞台芸術、オペラ、劇団四季のような舞台を想像されたい。

 そのような舞台の上である役者の体の動きが、役者にふさわしくないような動線を描いたり、妙に左右に傾いていたりすれば、観るものは「役者としての身体」の「未熟さ」を感じるだろう。そして、その原因として、練習不足などを想起するだろう。

 しかし、前提とする舞台が変わればそこで要求される「身体」の規範も変わる。むしろ「役者としての身体」から逸脱する余剰など、「未熟さ」と名指されていたものこそが、通貨となる舞台を想定することは可能だ。実際、チェルフィッチュのように本来正統的な劇の舞台から切り捨てられて来た身体の動きをむしろ前景化させる劇を想像すれば、そこで要求される身体が、劇団四季のような身体と大きく異なることがわかるはずである。

 話を戻そう。

 だから、演劇を生業としていない高校生−−−どうあがいてもプロほどの練習時間をとることができないし、それほど技巧を凝らした脚本を作ることができないという意味で「未熟さ」を抱えた高校生の、その「未熟さ」が、むしろ強みとなるようなあり方は可能であると当時の僕は考えていた。

 それには、その「未熟さ」が生きるような枠組みの転換が必要だ。完成した「役者としての身体」を持つ役者らが、よく通る声できびきびと動くような、規範的な演劇像から脱却した劇の枠組みを設定できなければ、僕たちの劇はどこまでも「プロの作る演劇の劣化版」、悪い意味での「未熟さ」を抱えたものになるだろう。

新しい演劇は生まれず…

 そして、端的に言えば、僕たちは高校生なりの未熟さを武器へと変えることができるような劇の新たな枠組みを設定することができなかった。「僕たち」と書くのは不適当かもしれない。この問題意識がそもそも共有されたとは言えないからだ。どちらにせよ、僕たちの劇は凡庸で未熟な高校演劇に終わってしまった。それが、僕の後悔だった。

 そうしてまた、劇団などではよくあることかもしれないが、作劇の過程で一人が離反してしまった。全員でゴールを切るにはいたらなかったのだ。これも、それなりに辛かった。