目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

物語の力/創作の力とは何か

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 最近、twitterで自分と同じように、中高の教員をしている人をフォローするようになった。そうしてフォローした中の一人がつぶやいた以下のようなつぶやきが、昨日私のタイムラインに投稿された。二つの企業に内定した卒業生に対して、教員をしているツイッタラー、「あすこま」氏が投げかけた言葉に関するものである。

  

進路相談してきた彼に言ったのは「どっちを選んでも楽しいよ」ということ。人間の、「自分の人生もなかなか捨てたもんじゃないな」と信じたがる「物語創作」のパワーを僕は信じてる。まして言葉の力のある彼なら、どっちを選んでも、きっと満足する物語を作り出せると思う。

— あすこま (@askoma) 2017年6月30日

  

 上記のつぶやきに関し、僕は違和感を覚えたのである。

 

「「物語創作」のパワー」とは

 違和感を述べる前に断っておけば、僕は上のあすこま氏の、生徒の背中を押すような指導のあり方と、生徒がどのような選択をしようが「自分の人生もなかなか捨てたもんじゃない」と思うことができるようにあれかしと願う気持ちには好感を覚える。教師はそうあるべきだと、無責任な同意を送りたくなる。

 

 しかし一方で、「「物語創作」のパワー」を自分の人生を肯定することに結びつける氏の議論には首をかしげてしまう。

 何か語ろうとする事柄があり、それを語りたいという欲望があり、そしてそれを仔細に語りつくそうとすること。それを徹底的に行おうとすれば、多くの場合、当初自分の想定したものと異なるような結末に至るものではないだろうか。もしくは、何ということのないはずの細部や断片が思わぬ意味を持ち始めて、物語が単一的な線を逸脱し、自己瓦解に導かれるものではないだろうか。

 「「物語創作」のパワー」は、自分の生き方を、自分にとって肯定的なものとして認識するための、単なる技術に還元されるものではない。そう僕には思われるのだ。

 

 創作は必ずしも人を幸せにしない

 おそらく、あすこま氏は、物語創作を授業に取り入れることで、生徒たちが「自分の人生もなかなか捨てたもんじゃない」と思うことができるような技術を生徒たちに授けたいと思っているのだろう。氏の教育実践との関わりから、上のつぶやきは読まれるべきであると考えられる。

 もちろん、それができるのは一つの力だ。いかなる状況にあっても、「「物語創作」のパワー」により、「捨てたもんじゃない」と思えるのなら、その人は大丈夫だろう。国語科の目的に「生きる力」の養成を置くのであれば、あすこま氏の主張は一定の正当性がある。

 

 しかし一方で、僕自身は、それをどうしても行うことができない生徒の立場に立ちたいと思っている。

 そもそも、それができない生徒らは、「「物語創作」のパワー」を持たない故に、そのような状態に陥っているのだろうか。むしろ、事態は逆であろう。

 「捨てたもんじゃない」と言い切ってしまうことに違和感を禁じ得ず、常に「本当は自分の生などどうしようもないものなのではないか」という不安と戦う生徒の、その不安もまた、「「物語創作」のパワー」により生じてきている。なぜなら、彼らは、「捨てたもんじゃない」で語りを終えることができず、さらにまた、語るべきことがらを見つけてしまうからだ。彼らは創作のパワーを有するが故に、創作が終わってもなお創作を続けるのである。

 自己の人生を肯定的にとらえたいという自分の中の欲望や、「お前は自分が幸せでないとでも言うつもりか?」という周囲の無言の圧力。それらから不可避に生まれてくる、「「捨てたもんじゃない」人生」という名の支配的な物語は、都合のいいところで終わることに争い、終わってなおも創作しようとする強靭な語りの力の前では往々にして、掘り崩されてしまう。

 

 物語の創作を、徹底的に行おうとすること。それは必ずしも人を幸せにしない。それはむしろ、幸せと自認していた生活が思いがけず抑圧していたものを暴露することになりかねない。結局、創作の力の極北には、創作が創作でなくなってしまう地点がある。 

 

創作を破壊する創作の力

 そこまでいかない段階で、自分にとって都合の良い物語を作れるような技術を学び取り、人生を幸せに生きていこう、という主張はよくわかる。と同時に、物語る力の欠如ではなく、むしろ物語る力の過剰によって、それがどうしてもできない人たちがいることが、繰り返しになるが、僕には気になってしまう。

 そして、僕自身の中には、そのような物語る力の過剰さとともにある生徒らに対する願いがある。

 それは、「本当のところ自分の人生はどうしようもないもの(捨てたもの)かもしれない」という不安を持ちながら、「しかしそれがなんだというのだ、それでも僕は生きる」といきりたって生きていってほしい、という願いだ。「なかなか捨てたもんじゃない」というような脆弱な物語でかろうじて生きながらえるのではなく、否定性の中でも立ち上がって欲しい。どうか語るのをやめないで欲しい。

 

 物語る力の過剰さの中で、いくつもの物語を最終的に完結させずに終わる子らは、綺麗にまとまった物語のうさんくささを知るだろう。そうして、自分を究極的な局面で生かすのが、いま自分を支配している物語の枠組みの論理から考えた時、むしろ違和感を感じさせるような言葉だということがわかるはずだ。

 どういうことか。

 例えば、物語があなたを破滅に導こうとする際に「それでも僕は生きる」と生を引き受けるときの、「それでも」という言葉は「どうしようもない生」という不安を抱えた時の「なら死んだ方がマシ」という自然な帰結における「なら」に比べて、順当な接続ではないという意味で、物語内論理に従わない接続をもたらしている。しかし、そこで「それでも」と言ってしまうことで、私たちはその地点から、また別の物語を立ち上げることができる。

 

 支配的な物語から逃れ、新たな物語、自分自身の物語を開始することは、支配的な物語のストーリーラインから見れば奇妙に思われるような接続、または文法の破格によってもたらされる。それは、既存の物語の枠組みから見た時、むしろ話者の創作の力の欠如・瓦解を意味する言葉の使用だろう。

 しかし僕は、それもまた創作の力に他ならないと思う。それは、すでに創作されたものに対する破壊の一撃を加える。体裁の良い物語、耳障りのよい物語を生産することとは少し異なるところにある、物語の破壊と表裏一体の物語る力。それを僕は、幸せな物語に容易に安住できない子らに、身につけていって欲しいと思うのである。

 

*以上の記事は、一つ前の記事

 

summery.hatenablog.com

  

 で述べたブログからの転載である。