目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

「不幸でもいい。ただ、生きていって欲しい。」船曳建夫先生の言葉をフィクション化してブログを書いた

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 大学の学部生だったころ、僕がよく(しつこく)顔を出していたゼミの先生が退官することになった。僕が東京大学に通っていたことはこのブログではもはや明らかなので、先生の名前も出してしまうが、その先生とは船曳建夫先生である。

 船曳先生は退官記念講演で、僕たちゼミ生に「君たちが幸福であって欲しいとは思わない。そうであれば一緒に喜ぶけれども、そうあれかしとは思わない。不幸でもいい。ただ生きていって欲しい」と言ったのだった。

 もう遠い昔のようにも感じられる学部生だった頃の僕、「幸せであらねばならない」とどこかで思っていた僕にとり、「不幸でもいい」は衝撃的だった。そこで僕は、そのセリフと結びつけるようにして、別のブログで以下のような記事を書いたのである。

 

queerweather.hatenablog.com

 

 

 今から考えれば、「不幸でもいい」くらい当然のことかもしれない、と思う。「幸せな人生」はこの社会で支配的な力を持つ一つの幻想であり、「幸せ」を信じて疑わない者の発する「幸せ」という言葉の裏に、時に多くの抑圧があることは少し考えれば想起される。

 しかしながら、である。僕は退官記念講演という場で、並み居る生徒に向かい先生がそれを発したという事実に、何か根本的な先生の生への姿勢を感じたような気がしたのである。ゼミ生たちや同僚たちの微笑に囲まれながら行われる円満な退官ではなく、そのような退官の「円満」さを構成する一人一人の微笑を問うような姿勢。もしかしたら、それは暗く深いものかもしれないが、そこから慰められるものも数人は確かにいたのではないか?

 

 ところで、上記の別のブログに書いた記事では先生の退官記念の言葉を直接取り扱ってはいない。僕自身の解釈とともに、発言内容とその文脈を微妙に変えてある。基本的に、別のブログで書くことにはフィクションが混ぜられている。

 

summery.hatenablog.com

 

 だからといって不誠実なわけではない。ノンフィクショナルな日常的事柄を描写する中で、どのようにフィクションを織り交ぜていけるかということが今の僕の興味範囲ということだ。ちなみにここでいう「フィクション」とは「現実には起こらなかったこと、ありえないこと、誰も考えないであろうこと」ではない。そうではなく、「そのままの形では起こらなかったかもしれないが、そうであっただろうこと、解釈すればそう見える・そう言いうること」である。

 二つ上のブログ記事で、僕は以下のように書いている

 

僕は君たちに幸せに生きていって欲しいと積極的に願うことはない。そうであったら嬉しいし、一緒に喜ぶけれども、別にそうでなくても構わない。不幸でもいい。ただ、生きていって欲しい。死なないで欲しい。

死ぬことが常に悪い選択か。客観的に言えば、そうだとは思わない。死を選ばざるを得ない状況はあるのかもしれない。そこで、「死ぬな」というのは、場合によっては残酷かもしれない。

だけど、僕は僕のエゴで、君たちに「不幸でもいいから、死なないで欲しい」と、そう思う。君たちが死ねば、僕は君たちと、一生話をする機会を失うのだ。それはなんということだろうと思う。

 本当は死んだ方が楽な場面で、「死ぬな」と叫ぶのは叫ぶ主体のエゴでしかない。そう叫ぶ理由は、「「私が」死んで欲しくないから」という風に、叫ぶ主体と切り離せない形でしか提示できない。

 「生まれたくて生まれたわけじゃない」に対して、僕は何よりも、「君が生まれてきてくれてよかった、そうしてこうして話ができていること、それが僕には、本当によかった」と言いたかったのだ。

 いくら、「僕が」そう感じるからといって、それは彼にとっては全く関係のないことだ。全く関係のないことだが、僕のエゴとして「君が生まれてきてくれてよかった」と思い、また、「死んで欲しくない」と思う。なぜなら、「僕にとって」君がどこかで生きていて、気が向けば話をすることができるということが、重要だからだ。

 

 ここに含まれる引用には先生の言葉が含まれてはいるが、そうでない言葉も多く含まれている。僕は先生が、この引用にあるとおりのことを言おうとしているのだろうと解釈したのだ。それは「はずれ」かもしれない。しかし、それは「おおはずれ」ではなく、「はずれ」だとしても「ありえたはずれ」であるはずだ。

 最後に、二つ上のブログ記事の終結部で僕が言及しているニュースについてだが、

 

僕のエゴ

 教えることだけではなく、人間として関係を切り結ぶこと自体が業かもしれない。

 

www.bengo4.com

 

 大学一年次、上の記事で書かれている飲酒事故でなくなった友人の葬式でわあわあ泣いた僕は、けれどもまた、人が生を送り、やがて死を迎えるというこの行路に対し、異議を申し立てるかのように泣くことの自分勝手さを感じなくもなかった。

 

 ここで書かれている、この記事で紹介された学生の葬式にいったということは事実である。次はそれについて書こうと思う。