SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

あなたにとって戦争はどう見えるのか? 「この空の花−−長岡花火物語」「この世界の片隅に」:早稲田松竹に行ってきた。

 あけましておめでとうございます。年末に読んだ本や観た映画、行った場所の中で面白かったものをまとめます。

 別のブログに以下のような記事も書いたのですがこっちではこっちでまた別に書きます。

 

queerweather.hatenablog.com

 

映画:早稲田松竹に行ってきた。

 今年は一人暮らしを始めたこともあり、大晦日まで一人暮らしの家にいたのだけど、12月30日に映画でも観るかな、とふと思い立って早稲田松竹のページを見たら「この世界の片隅に」がやっているとのことだったので、行ってきた。

 

この世界の片隅に

上映スケジュール | 早稲田松竹

 

この世界の片隅に
 

 

 「この世界の片隅に」に関しては、ちょうど一年前頃はじめて観た際に、色々興奮し、以下のような記事を書いた。今読むと事実誤認の含まれる部分もあるが、基本的には間違っていないと思う。

 

summery.hatenablog.com

 

 しかし、一年ほど前ユーロスペースで観たときは割引デー的な日だったにも関わらず空席も目立ったのだが、12月30日の早稲田松竹、朝一番の回の「この世界の片隅に」は満席だったようである。ずいぶん話題になったからねえ。

 上の記事で、私が感じた同映画の新しさはほぼ書き尽くしているが、今回改めて観るなかで、場面転換やセリフ回しがうまく、安心して観ることのできる映画なのだなと思った。テーマに対する切り口や特定の場面の描写の鋭さに気を取られていて、そうした同作品の根本的な「基礎体力の高さ」に気づいていなかったのだ。

 

「この空の花−−長岡花火物語」 

 ちなみに早稲田松竹は基本二本立てなのだが、二本目は尾道三部作で知られる大林宣彦監督の「この空の花−−長岡花火物語」であった。

 

 

 大変失礼ながら、「この世界の片隅に」のついでのような感覚で観たのだが、第一印象は「なんかすごかった」というもの。色々自分でも書こうと思ったが、私が感じた「なんかすごいな感」が、以下の米光一成さんの記事で割と語られているので、ちょっと参照してみたい。

 

www.excite.co.jp

 

「まるで夢のような、でも本当の話」ってナレーションで、「長岡ワンダーランドに一緒に旅しましょう」とか言いだして、しょっぱなから、ワンダーすぎてついていけない

と思ったら、タクシーにのってる遠藤玲子松雪泰子)がカメラ目線で、「昔の恋人から手紙をもらったのです」って、こっちを向いて、説明台詞で早口で語りかけてくる。
なんで、こっち向くの! って思ったら、その手紙書いている昔の恋人も、書く手を止めて、くわっと頭をあげてこっち向いて、「生徒の劇を観てもらいたくて、手紙を書いたんです」とか言うので、いやいや、客席気にしなくていいから、ふつーに映画進めてくださいよ、と当惑する間もなく、18年前に時空飛ぶ

(引用、上記事より)

 

 いや、ほんとよね。俳優の謎カメラ目線や、その俳優の顔をやけに大きく正面から映し出すカメラワークに困惑。登場人物二人の間の会話でも小津映画みたいにそれぞれの発話を正面から映したりする。

 

ふたりが別れるシーン。
別れ際に、遠藤玲子が「戦争なんて関係ないのに」って、突然、本当に何の関係もない話題を! 男も、そりゃ「せ、せんそう!?」って驚きますわな。しかもテロップで「戦争」って出てくるので、客も驚きますわな。
男(長髪のカツラをかぶった高嶋政宏)、その後、何をとちくるったか、真剣な顔で「痛い! この雨が痛い!」
わけわかりません!
しかも、これが何だったのか、最後までぼくには分からず、っていうか、これぐらいの不思議は、ここから先の怒濤のワンダーにくらべれば些細なことなので、これっぽっちも気にならなくなる。

長岡で先生やっている男の前に、花という謎の少女が突然あらわれます。
「まだ戦争に間に合う」という脚本を持ってきて話す少女はバストショットで映し出され、なぜかゆらゆら揺れていて、どうしたのこの娘?って思ったら、一輪車に乗ってる。
教室の廊下を、一輪車で駆け抜ける花。

(引用、上記事より)

 

 そう、この映画のテーマも戦争なんだけど、特に戦争が出てくる必然性が見えないようなところに突如挿入されてくる。これには驚かされるのだが、一方、私には既視感もあるように思われた。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』である。同作品中で主人公岡田トオルの窮境は、一見なんの関係もなさそうな占い師の老人のノモンハン事件体験記を通して奇妙な形で切り抜けられることになる。このことは、別の記事に詳しく書いた。

 

summery.hatenablog.com

 

 この二つの作品が示そうとしているのは、「今、戦争を体験していない世代にとって、戦争というのは、普段の日常生活になんの関係もないはずなのに、なんだか気になってしまうものである」ということなのかなあ。そういう感覚を出しているのかなあ。ちょっと答えは出ないのだけど。

 印象的だったのは上引用部にもある「まだ戦争に間に合う」というフレーズ。もちろん、形式的には終戦/敗戦を境に終わったとされるはずの戦争が、戦後もそこに根ざした問題がまだまだ大量に残り続けているという意味で「本当に終わってはいない」という議論はずっと前からあるが、それを彷彿とさせながら、一方ですごく戦争に加わりうるという感覚に根ざす実存的なロマンティシズムを喚起させるようなフレーズである。まだ戦争は続いていて、私たち一人一人はそこに参与し、散華しうるのだ、とでも言うような…。

 戦争なんてない方がよいのに、「まだ間に合う」と言われるとなんらかのことを自分がしなければいけない/したいという気分になる。しかし戦争に参加すること自体が戦争を駆動させる部分があることは確かで、その意味で、若干危険なものを感じさせるフレーズである。

 上引用部で言及がある一輪車に乗った子=花は、新聞記事にあったこのフレーズに触発されて戦争を主題とした演劇の脚本を作り、その上演を試みる女子高校生。この花の演劇にかける一途さも、ちょっと怖い。戦時中だったら、花は優れた戦士になったのではないかと思わせる。

 

あなたには戦争はどう見えるのか

 ところでちょっと与太話はここまでにしてやや真面目な話をしたいのだが

 「この空の花」と「この世界の片隅に」を連続して観て、少し思ったことがある。それは、この二作品が両方とも、「この映画を見ているあなたにとって、戦争とはなんですか?」という問いかけをはらんでいるということだ。

 「この世界の片隅に」ではこの問いかけは割と直接的に現れている。ことりんごによる「たんぽぽ」というエンディングテーマで現れる「あなたにはこの世界どんなふうに見えますか?」という一節がそれだ。

 「この世界の片隅に」はその丁寧な時代考証に注目されることが多い。例えば以下の記事を参照されたい。

www.nhk.or.jp

 

 ここでは以下のような記述が見られる。

 

片渕さんは実際に料理を作り、味を確かめ、作品に投影させていきました。
徹底した時代考証によって、生き生きと表現される戦時下の暮らし。

(引用は上記事) 

 

 確かにそこに力が入っていることは事実だが、見落としてはいけないのは、「この世界の片隅に」という映画の肝心な部分では主人公すずさんのイマジネーションの世界が貫入してくることである。上で紹介した「『この世界の片隅に』で気になった時限爆弾シーンの着物について考えて見た」という記事では、時限爆弾により義姉の娘と自分の右手の両方を失うというシーンで、すずさんの頭の中のことが映画の全面にせり出しているように見える部分があるのだが、その部分について論じた。

 つまり、「この世界の片隅に」は、主人公すずさんにとっての戦争を描いているのであり、時代考証がいかに細かく行われていたとしても、肝心な場面で同映画は決して描写の上で「リアリズム」というわけではないのである。むしろそれは、すずさんのイマジネーションの世界における戦争を描いている。この落差。イマジネーションとリアリズムとの架橋され難い混在こそが、「この世界の片隅に」という映画の本領であると思われる。

 エンディングテーマの「あなたにはこの世界どのように見えますか」という問いかけは、従って映画のテーマに合致した問いかけである。「この世界の片隅に」はまさに、「すずさんは以上のように戦争を認識し、この世界を認識していた。それでは、あなたにとって戦争とは、この世界とは何か」という問いかけを発しているのである。

 ことほど左様に、「この空の花−−長岡花火物語」もまた、今を生きる人々の中の、戦争の認識、戦争へのイマジネーションを問うている。この映画は花という女子高生の戦争演劇作成を中心的に主題化するが、映画という虚構の中で、改めて虚構を作成する過程自体を描き出すこの手法は、ある個人が体験しなかった戦争を想像し、リアリティのある虚構として立ち上げていく過程を映し出しているとも言える。

 花にとっての戦争は、花にとっての戦争でしかない。しかし、それを丹念に追う映画を見せられた読者は、「それでは自分にとって、戦争とは何か?」ということを問わずにはいられない。「これはこの人にとっての戦争だ」と認識することは、「私にとっての戦争とは何か?」を問うことだからだ。

 

戦争へのイマジネーションを問うこと

 二本立てで二つの映画を見ながら、戦後70年。もはや問われるのは「私」にとって戦争は「どう見えるのか」という、イマジネーションの領域なのだなという感想を抱いた。一つ一つの戦争体験を元に、リアルな戦争のありようを復元していくという手法の限界を、表現はこうして乗り越えていこうとしているのだなと思う。

 イマジネーションを問うことは、フィクションの本領である。ウソかホントかの二項対立ではなく、「その「ウソ」は本当に、あなたにとって真実性のある「ウソ」なのか。」「その「ウソ」は、あなたの周りの人々とあなたとの関係をどう変えるのか?」という力強い問いかけを発するウソ=フィクション。二つの映画は、この70年間フィクションが不断に戦争の記憶と向き合い続けてきた、精華なのだなと思った。

 

 この二つを二本立てにする早稲田松竹は優れた名画座だなと思う。結構豊かな体験をさせてもらえた年末であった。