SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

押井守監督『スカイ・クロラ』:諦めることとともに生きる

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 今回は(今回も?)あまり一般読者に裨益する記事ではないのだが、好んで観るアニメ映画『スカイ・クロラ』について書く。現時点でこの作品について言及したりまともに論じているブログ記事などは少ないので、この作品に出会い、どうしようもなく気になってしまってなんとなく検索した少数の人に読んでもらえれば嬉しいと思う。コメントも大歓迎である。

 

 

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あらすじ 

 一応、改めて自分の言葉でまとめておこうと思う。『スカイ・クロラ』は戦争請負会社に所属するパイロットである函南優一を中心とした物語である。

 この世界において戦争は国家間の争いであると同時に、人々が生を実感するために存在するショーとしての位置付けを持っており、そこで実際に戦う人々は人為的に開発された「キルドレ」と呼ばれる特殊な性質を持つ人々である。

 キルドレは思春期以降成長が止まり、殺されない限り生き続けるという性質を持っている。そして、どうやらあるキルドレが死ぬと、同様の癖や性格を持ったキルドレが新たにまた一人生産されるという会社側のシステムとなっているらしい。つまりキルドレたちは戦うために生まれ、死ぬとまた戦うために再生させられる。ここまでが設定。

 物語は新たに草薙というキルドレの女性が司令官をしている基地に配属となった函南がその基地で出撃して死ぬまでを描く。函南の機体の前任者は栗田といい、栗田は亡くなったようなのだが、戦闘で亡くなったということではないらしい。函南は様々な人の噂を聞く中で、栗田が草薙により殺されたということを知る。そしてまた、栗田と函南自身との間に身体的な類似性があることもいくつかの証言から示唆される。物語が進むにつれて、函南は栗田の再生として、繰り返しとしてあることが明らかになっていく。函南は草薙と接近していくのだが、この二人の関係の深まりも、草薙と栗田との恋仲の繰り返しとしてあるようだ。作中の世界における戦争は、このようなキルドレたちの小さな生死の繰り返しと不可分のものである。

 それでは、草薙はなぜ恋仲にあった栗田を殺したのか。草薙自身の告白によれば、草薙による栗田殺人の裏には、繰り返される日常から逃れたいと思った栗田による、草薙への、自殺幇助の依頼があった。草薙は栗田の生を終わらせようとして栗田を殺した。そして、今度は草薙が、栗田の代わりである函南に自分を殺してほしいと依頼する。

 しかし函南は草薙を殺すことはない。函南キルドレたちの生死の繰り返しを必要とする作中における戦争のシステムそれ自体を変えようとする。作中では絶対に勝てない敵であるティーチャーというパイロットがいる。ティーチャーは戦闘機パイロットでありながら、例外的にキルドレでなく大人の男であり、ティーチャーがいるゆえに、函南の陣営は戦争に勝つことがない。また、ティーチャーが時たま片方の陣営から片方の陣営へと転職することで、どちらかの陣営が勝つ形で戦争が終わることはない。ティーチャーはキルドレの世界の外部にいる、戦争を終結に向かわせない理由となっており、ルールそのものを構成するような存在である函南は勝てないことがわかりながら、ティーチャーに挑む。そして散ってゆく。

スカイ・クロラ』に出会った頃の僕

 最初に僕が『スカイ・クロラ』に出会った時のことから書き起こそう。この映画を初めて観たのは高校生のときである。渋谷の映画館だった。当時『崖の上のポニョ』も上映中であり、ポニョを友人と観た僕は、その際に映画館のポスターで目にした『スカイ・クロラ』の絵が醸す雰囲気が気になり、作品の内容に関しても、押井守という監督の名に関しても全く知ることなく、勢いで観に行ったのだった。

 一緒に観た友人二人は別に面白くもない様子だったが、僕はこの映画にどっぷりはまり、映画館で都合三度観たのち、浪人中も折に触れて観た。

 浪人中は英語の勉強という名目で、英語版を繰り返し観た−−−という記憶が残っているのだが、一つのフレーズも覚えておらず、もしかしたら日本語で観ていたのかもしれない(もちろん、 “Enough is enough”は記憶に残っている)。だとすれば全く勉強でもなんでもないのに、よくもあれだけの回数を観たものだと思う。

 同時に『攻殻機動隊イノセンス』の英語版も盛んに観ていたが、こちらは確実に英語で観た。その証拠にいくつかの英語のフレーズを覚えている。例えば「神は永遠に幾何学する、か」というキムの作り出した幻想世界におけるトグサの認識下でのバトーのセリフは”The god is ever lasting geometry”だった(そして時計の秒針のようなリズムとともにバトーの顔がこちらを向き、開く)。 

スカイ・クロラ』に漂う諦めることのペーソス

 当時の僕にとって『スカイ・クロラ』はいわく言い難い魅力を放つ映画であった。特に僕にとって気になったのは、作中人物同士の会話において現れる独特の離人感覚である。この背景には、人と関係を結ぶことへの諦念があると思う。

 作中の登場人物は互いの気持ちを事前に読み合い、相手にとって不快にならないように配慮しようと心労することはないし、妙なプライドを背景として相手より優位に立とうとするようなこともない。他者による承認を必要とはしていないし、相手にそれを与えようとも、また相手からそれを剥奪しようともしていない。つまり、会話を通して通常人が行うような贈与のやりとりや暴力の応酬を行うことはない。 

 彼らは他者の領域に必要以上に深入りしたり、相互に依存的な関係にならないように、注意深く距離を保つ。必然的に彼らの会話には笑いもなければ怒りも妬みもなく、喜びも悲しみもあまりない。

 しかし、だからといって個々の登場人物が機械のように悩みも苦しみも持たないというわけではなく、むしろ、人間関係や会話からそれらが表に出て来ない故に、細かな行動や目線の応酬などに現れる、表面上の人との距離の取り方と相違するような関係性への希求の匂わせが際立つ。

 この、言葉と相反する行動の微細な部分まで冷静に映し出すが故に映画に生まれるリリシズムと、その背景にある「所詮他人に対して持つ自分の期待や希望が叶えられることはあり得ず、他者と深く関係を結ぶことはできない」というような諦念からくる独特のペーソスが僕にはリアリティをもって感じられた。

 特に、思春期の高校生同士であれば、時に積極的に内面をさらけ出すような関係性もありえはするけれども、通常は自分の守る領域を崩されることが嫌で、大半の人はあまり積極的な自己開示はしないものではないか。

 もしくは積極的に自己開示するタイプであったとしても、自己開示しているつもりで実はぐるぐると真なる自分と異なる外面向けの自分の輪郭をなぞっていたりして、その矛盾に悩んだりするものではないだろうか。

 そのような、高校生だった自分が日常的に、(もしかすると否応無しに)とる/とってしまう他人との距離を、『スカイ・クロラ』の作中人物は自覚的かつ誠に如才なくとっており、自分がとる距離の想像以上の近さや遠さに関して悩んだり苦しんだりすることはない。もともと彼らには他者と関係を結ぶことへの深い諦念があり、彼らの他人と距離をとることの技術は、この諦めの深さ故に身につけてきたものであるというように思われる。

 僕には彼らの諦めが新鮮だった。本当はとうの昔に、自明に諦めていて良いものを諦めきれていなかった自分にとって、当たり前のように諦めてやり過ごしている彼らの生活は自分が拘った面倒なものから解放されている自由さがあるように感じられた。

函南が死んだ世界の現出 

 ところで、この度観てこれまでは全く気にならなかった作中の細かな部分がとても重要な意味を持って自分に立ち現れてきていることに気づかされた。具体的には、終結部に置かれた函南ティーチャーとの戦闘シーンの終わりの部分でのカメラの動きがそれである。

 当該シーンではティーチャーが函南の機体にまず強力な砲を二発打ち込み、コックピッドのガラスに函南のものと思われる少量の血流が観察される状態になる。この時点ですでに勝負は決しているはずである。にも関わらずティーチャーは執拗に、改めて細かい銃弾で函南の機体を蜂の巣のようにしていく。

 ここでコックピッドに直に打ち込まれた銃弾はおそらく函南を直撃して勢いよく吹き出す血が改めてガラスを染めるのだが、この場面、カメラはコックピッドの中から破壊される函南の身体を描くことも可能だったにも関わらず、徹頭徹尾機体を外から観察したのちに、それ自体が猛スピードで動く戦闘機に乗っているかのように加速し、機体に空いた一つの穴を通過していく。それはもう否応無しに、決して抗えないようなスピードで通過していくのであり、穴の通過は、トンネルを抜けるような明滅のエフェクトとともに描かれている。

 僕は、この場面が、押井のある種の期待を示しているのではないかと思う。なぜか。以下で説明していこう。

 終結部に至るシーンで、函南は、「いつも通る場所でも違う道をあるくことができる」というモノローグに現れるように、残酷なまでに繰り返される日常性を内破することを目的に、ティーチャーに挑む。

 函南ティーチャーへの挑戦はこれまで幾度となく繰り返されてきたキルドレによる大人の男への挑戦の中の一つにすぎない。函南はそのことに気付きながら、自らの意思で積極的にそれを繰り返す。そしてこれまでとは少し異なったなぞり方をしようと試みるのだ。

 ティーチャーにより手際よく、また執拗に破壊される函南の身体と機体とは、それだけ見れば、これまでティーチャーに破壊されてきたであろう数多の戦闘機の最後の忠実な繰り返しであると考えられる。

 しかしそれを冷徹に外から映し出すカメラは、観客に対して函南の死の一回性を際立たせる効果を持つ。函南と草薙とのやりとりをこれまで映し出してきた同じカメラが、他の機体同様に破壊される函南の機体を冷徹に映し出す時、観客は函南が辿ってきたいつもと同じ道の異なった歩き方を二重写しにして観ることができる。

 それはその他大勢の、無名の死ではなく、栗田の生まれ変わりでありながら、栗田とは異なり、また、同じようにティーチャーに撃墜された篠田や、それに連なる様々な戦闘機パイロットたちと異なる、繰り返しの中にあることを自覚した上で、自分の中の理由により自分で選び取った函南自身の死なのである。

 それを前提としてみた時、銃撃によってできた穴を潜り抜けるカメラワークは、繰り返されるだけの日常性とはやや異なった日常からなる世界への入り口を通過するように見えてこないだろうか。

 それはほとんど全くこれまでと変わらないのかもしれないが、ほんの少し異なる世界だ。なぜならそこには、函南という名前のある死が刻まれたからであり、ぼんやりとして過去のことをほとんど思い出せないキルドレたちにとって、おそらくしばらくは思い出すことのできるような函南の死が記憶に残り続ける世界だからだ。

 これは、草薙によりややあざとく、長いセリフによって語られた戦争がなくならない理由とは裏腹に、明示的に語ることを許されない、しかし確かにある、押井の期待の感覚であるのではないか。函南の死が何かを変えるであろうことへの。

押井の期待

 最近『スカイ・クロラ』の制作を追ったドキュメンタリーを観た。そして、若者たちへのメッセージを託して制作した『スカイ・クロラ』を押井は一番に若者が集まる大学(横浜国立大学)で上映したことを知った。

 アフタートークで押井は人生二周目に入った者としての自分から、一周目の途上にある大学生に語りかけていた。押井自身が、繰り返される日常を、小さな能動性を発揮することにより、少しずつ変容させてきたのだろうと、僕は押井の語りを見ながら感じた。変容させては、変容後の世界の、変容前と同様の日常性にあてられ改めて苦しんできたのではないか。

 あの函南の機体の穴を通り抜ける際の、カメラの臨場感。現実にはダイナミックな変容などまず起きない。日常は緩慢に、微細なところを変化させることを積み上げるしかない。

 にも関わらず、函南の死の直後の、その死により不可逆な変化が世界に刻まれるかのような、そしてそれを通して決定的に世界のルールが組み変わるかのような描写。それに、僕はクラクラするほどの衝撃を覚えてしまう

 クラクラするほどの衝撃とは、そこに託された切実さとの共振である。描かれるべき事柄が描かれている。それまでのストーリーから観て、力を入れるべきところに最大限の力が入れられている。ここを持って、私は『スカイ・クロラ』が賞賛に値する映画だと思う。『イノセンス』には決してなかったものが描かれている。『イノセンス』は正直、私にとって、知的に高度化されたパズルのようなものだ。

 誰にも理解されないと思うが付け加えておくと、『スカイ・クロラ』の機体の穴を通り抜ける描写に似たものを、僕は最近観た。それは、『この世界の片隅に』の時限爆弾シーンである。時限爆弾により未亡人の姉の娘と、右腕とを同時に失ったすずさんが、改めて目覚めるまでの意識の流れ。

 そこでもまた、トンネルをくぐるような明滅が描かれる。ここでも同様に身体の欠損により、不可逆的な変化が世界に刻まれる。それにより、世界のルールが組み変わる。実際に、あのシーンでは着物が組み替えられているのだ。これについては以前書いたので、参照されたい。

 

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 押井は自分の住む世界を内破させ、そこにおけるルールを組み換えようとした函南の試みを実際に成立させようと試みている。それは作品の物語内容としては成立していないかもしれないが、それを映し出すカメラを通して物語を観る観客の内部では、一定程度有効性のあるものとなっていると考えられる。

 なぜなら、内でも外でもなく、境界というもっとも危険な領域で、血に染まる函南のコックピッドを観た後に観客は、作中で自明視されている世界のルールの振るう猛烈な暴力を目の当たりにするからだ。

 函南は決して自分の試みにおいて他者の協力を要請しない。上で述べてきたように、そもそも他者の協力など、最初から諦めきっている。しかし押井のカメラは函南の試みを共同性に開こうとしている。作中でこれ以上ないほど強調されてきた諦念は、最後の最後で反転し、観客に対する問いの分有の希求として指し向けられる。もともと、あることを100回諦めることは、逆にそのことをどれだけ強く求めているかということの証左でもあるのだが…。

無名の死が名のあるものとして受け継がれる世界 

 とここまで書いてくると、函南の死を特権化しすぎていると言われるかもしれない。確かにそうだ。なぜなら、函南以前の死もまた、作中の登場人物にとっては名前の有る死であったはずだからだ。

 例えば、栗田人狼の死は草薙の記憶にも笹倉の記憶にも刻まれているし、また栗田の記憶の権化とも言えるような娘草薙瑞樹の大人になる生が草薙にはまとわりつく。

 『スカイ・クロラ』という作品の本領は、作中で強調されるキルドレたちの数多の死の、ショーとしての戦争を見ている観客の側にとっての無名性とは裏腹に、実のところ彼らの一つ一つの死がキルドレらの間では、名を持って密かに受け継がれていることを示している点であろう

 この意味では、函南の死は唯一の名を持つ死ではなく、いくつもの統計上は名を持たない、しかしその死の周りにいた人の中には分有されている名を持つ死の複数の中の一つであるはずだ。

 もしかすると、記憶が持続しにくいキルドレたちはそれらの死をすぐ忘れてしまうのかもしれない。しかし、諦念とともに生きる彼らは名の有る死をもしかするとすぐに忘れてしまうかもしれない自分について十分自覚的である。

 映画の問いはこうまとめられるだろう。すなわち、私たちは名のある死の固有性、一回性をすぐさま忘れ去ってしまうかもしれない。私たちはそれをいつまでも覚えていることを諦めなければならないかもしれない。それでは、諦めてあることを抱えて、どのように生きればよいのか。もしくは、覚えていることを諦めることの強度において、逆説的にも覚えているということはいかにして可能なのか

 『スカイ・クロラ』はこの問いには正面から答えていない。もしかすると、この問いは押井が『スカイ・クロラ』に込めた問題意識とは全く違う明後日の方向の問いかもしれない。それはそれでよい。作品はそれを生み出した作者だけのものではないから。

 

 

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 『スカイ・クロラ』と同じく、戦争を描いた映画として『この世界の片隅に』と『風立ちぬ』について注目しています。

 

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