SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

戦後70年の年に祖父が死んだ時のこと

 

 このブログで一番読まれているのは、勢いだけで書いた猫の死に関する記事である。

 

summery.hatenablog.com

 

 飼っていた猫の死は当時僕が体験した、もっとも身近な死であった。必然的に強く印象に残った。

 それから一年後の2015年、僕は母方の祖父の死を経験する。先に観た大林宣彦監督の「この空の花−−−長岡花火物語」を改めて観た今日、祖父の死にまつわる大きな失敗を鮮明に思い出したので、ここに書いておこうと思う。

 

 祖父が死んだのは三年前の冬のことだ。祖父は癌であったが、それを知らされずに死んでいった。

 

 やや遠方に住む祖父に、僕が会いに行くのは小さい頃から決まって半年に一回だった。夏休みと正月。しかし、祖父の状態が危ないと聞いて、僕は例外的に、祖父が死ぬ年の秋、会いに行った。

 愚かな僕は特になんの意識もなく、「おじいちゃんが危ないかもしれないらしい」ということで飛んで行ったのだったが、祖父にとっては夏休みと正月以外に僕が会いに行ったのが衝撃であったらしい。

 そして、何も知らされていなかった祖父はことの重大さを知ってしまった。「この時期に孫に会ったことはこれまでになかった。わざわざ孫の方から、この時期に訪ねてくるということは自分は本当に悪い状態にあるのだろう」と祖父は推論したみたいなのだ。僕の顔を見て、「会いにきてくれて嬉しい」という趣旨のことを言いながら文字通りぼろぼろと涙を流す祖父の姿を見て、僕は「やってしまった」とようやく気づいた。

 そして、小学生時代にいつも楽しみにしていた、夏休みと正月に祖父母の家に行くイベントは、中学校に上がってから家族との集団行動全般が面倒臭くなってしまった僕の方がほとんど意識しなくなってからのちも、祖父にとっては重要だったのだ、と改めて気づかされた。「旅行のついでに寄ったのだ」と必死でごまかしたが、ここまできてまだ浅はかにもごまかしつづけようとする自分の卑しさばかりが汚い油のようにその場にこびりついていくようで、いたたまれなかった。

 折しも戦後70年を迎える年だった。予科練に所属し、8月15日に特攻命令を受けたものの、出撃一時間前に玉音放送が流れたことで、偶然にも一命をとりとめた祖父の、この70年はどんなだったろう。自分の生死という重要な問題すら、孫にひた隠しにされるようなこの家族のありよう、社会のありようは、14歳で終戦を迎えた祖父の夢見た新しい社会だったのだろうかと考え、帰りの新幹線で、僕の方は僕の方で泣けてきてしまったのを覚えている。

 

 今から考えると、やや感傷的だったと思う。終戦当時14歳だった祖父は、終戦にあたり、なんらか新たな家族のありようや社会のありようを夢見たのだったろうか。祖父にそのような公共的な精神があったかは疑問だ。少なくとも家族は、社会はどうあるべきかという話を祖父から聞いた覚えはない。

 しかし、祖父は真面目な人だったし、実は考えていたのではないかと僕は思う。ほとんど僕の願望(妄想)に近いのだが、そう思う。そんな大上段に構えた話を孫に話すのは恥ずかしかったからしなかっただけで、実際は考えていた、とかそういう事情であったのではなかろうか。私に孫ができたとして、私もそんな話を孫にはしないと思うから。

 

 僕は基本的に自分勝手でありながら、時折すごく真面目になることがあり、その真面目さに自分自身驚くことがある。この、自分の中にある他者性とも呼ぶべき真面目さは、母方と父方両方の祖父から受け継いだもの、と僕は自分の「人生の物語」の中で勝手に位置付けている。

 母方と父方、両祖父は完全に他人であるのだが、二つだけ共通点がある。第一に、双方ともに真面目で、規範意識が強く、強固な倫理観を持ち合わせている。そして第二に、二人とも満州事変から二、三年以内にこの世に生を受け、生まれた時から思春期半ばに達する終戦時までたっぷりと皇国史観を注ぎ込まれた。二人とも、特攻して散華するつもりでいて、上で書いたように、母方の祖父の方は、実際に命令を受けていた。父方の祖父の方はやや年齢が若かった。

 両祖父の真面目さと規範意識の強さは、僕には終戦を通り抜けたが故に形成されたもののように感じられる。それが、僕にとって、戦争の問題が遠い昔の他人事に感じられない理由である。すっかり話題が逸れたが、まあ、いいか。