SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

どんな映画になるのかな。宮崎映画『君たちはどう生きるか』を『風立ちぬ』から予想する。

   どうやら宮崎駿の新作映画のタイトルは、朝日新聞によれば『君たちはどう生きるか』らしい。正直かなり驚いた。この情報は朝日新聞デジタルより。

www.asahi.com

 

   同記事にも言及があるように、このタイトルは吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』からとったもの。

 

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

 

君たちはどう生きるか』はこんな本

   この本は一時期繰り返し読んだので、懐かしい。ウィキペディアからこの本に関する情報を引用しておこう。


君たちはどう生きるか』は、児童文学者であり雑誌「世界」の編集長も務めた吉野源三郎の小説。山本有三が編纂した「日本少国民文庫」シリーズの最終刊として1937年に新潮社から出版され、戦後になって語彙を平易にするなどの変更が加えられてポプラ社岩波書店から出版された[1]。児童文学の形をとった教養教育の古典としても知られる[2]。

君たちはどう生きるか - Wikipedia


   引用部に「「日本少国民文庫」シリーズの最終巻」とあるように、同書は当初戦時下の少年たちを対象として発刊された。

   「君たち」という高みからの呼びかけとともに、生きるという大きなテーマをストレートに問う題名から推測されるように、読み手の人格を陶冶することを目的の一つとするような「教養書」、修養書の類であると言えるだろう。


   この本で描かれるのは叔父さんを筆頭にした良識ある大人の導きに沿って物事を考えるコペル君という少年のありようである。コペル君は叔父さんの導きを受け、社会科学的なものの見方を身につけながら、個人とその集まりとしての社会、そしてその中にあっての自己という三者の望ましいあり方について考えをめぐらす

 

 で、ここからが本題なのだが、宮崎駿が『君たちはどう生きるか』を題名に置くと聞いて、驚くと同時に少しピンと来るところがあったので、以下それに関して述べる。

 

『君たちは〜』に現れる、教えー教えられる関係の描写

 もともと宮崎駿は教育に対して一家言ある映画監督である。例えば『教育について』という本に「こどもにいちばん大事なもの」という小論を書いているし映画制作の際にも子供たちに何を伝えるかということを折に触れて意識して作っていることをうかがわせる発言を何度か読んだことがある(こっちは出典あやふや)。

 

教育について

教育について

 

 

 今回宮崎が次回作のタイトルとして言及した修養小説『君たちはどう生きるか』は、先の記事に書いたように、題名もその内容も説教臭くはある。しかし、単なる説教それ自体ではなしに、小説の装いを以って、説教をする人=叔父さんとされる人=コペル君とのやりとりを書くことの意味は、教育者と被教育者との間にありうる1つの理想的関係を描出することにあったのだろう。

 多くの読み手にとってこの作品の読後に残るものは説教の内容ではなく、叔父さんの説教を素直に、まっすぐに受け止めるコペル君の純朴さなのではないだろうか

 

 宮崎の次回作のタイトルが『君たちは〜』であると聞き、すぐに思い浮かべたのは、今述べたような、この作品に描かれる教えー教えられる関係である。

 なぜそれを思い浮かべたのかと言えば、単に上で述べたように映画監督宮崎駿が教育を主題とした書き物をしたり、自己の映画の教育的側面にしばしば言及するからというだけの理由からではない。教え-教えられる関係は宮崎駿の映画作品自体の中に伏流するテーマとしてあるものだと考えられるからである。

 

宮崎映画における教えー教えられる関係

 宮崎映画では期せずして子供が異界に入り込んだり、不思議な力を得ることが一つの典型になっている。そしてルールのわからない世界に入り込んでしまった子供に対して、その世界のルールを教えるような年長者がしばしば登場する

 その年長者は場合によっては自分の意図に即して時に現実を捻じ曲げたり隠して伝えたりすることもあるのだが、教えられる子供の方はそれを純粋無垢に信じ、実行し、結果的には隠された謎を暴いたり、異質だったはずの周囲の世界を味方につけることになる。そして、ついにはその世界で力を持つ年長者の抱える問題にも肉薄していくのだ。『風の谷のナウシカ』(特に漫画版)、『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』はこのような作品の典型である。

 

 

 

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 それでは、『君たちはどう生きるか』もこれらに連なる作品になるのか。直近の『風立ちぬ』との連関で言えば、決してそうはならないと考えられる。というか、そうはならないように希望する。その理由を、ここから述べていきたい。

 

風立ちぬ』の場所−−−教育の暴力

 2013年に公開された、最後の宮崎駿監督による長編アニメーション作品(になる予定だった)『風立ちぬ』は、様々な意味でそれまでの宮崎アニメと比べ異色な作品であった。教えー教えられる関係の描き方にしても、例外ではない。以下『風立ちぬ』における教えー教えられる関係に関して簡単に述べていこう。

 

風立ちぬ [DVD]

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 『風立ちぬ』の前半では幼年期から青年期の二郎が雑誌等で知ったイタリアの航空技師カプロー二に薫陶を受け、夢の中で教育される描写が二、三度繰り返される。そして、この過程で二郎がカプローニから受容する飛行機に対するロマンティシズムは、技師としての二郎の活動を駆動していく。

 

 夢想的かつ内省的な人間像である二郎は自分の中で作り上げたカプローニに繰り返し教育されることで、理想を追い求めることのみに自己を方向付けていき、そこから生まれる犠牲(直接的には菜穂子)に盲目になっていくのである。ここでは、教育の暴力が扱われているということができる

 

抜け出せない/抜け出さない二郎

 これをナウシカの中の一部の描写と対比してみよう。漫画版『風の谷のナウシカ』で、崩壊前の世界の文物が残った園において、ナウシカが美しく心地よい幻想の世界に誘われるもそこから意志の力で離脱する。一方で、この空間に似ているカプローニのいる夢想空間から二郎はあくまで抜け出すことができない

 

 もちろん、優美な夢想的空間の陥穽が描かれていないわけではない。冒頭の夢で空中遊泳していた幼年期の二郎は、空から来た巨大で毒々しい飛行機に撃墜されて落ちるのであり、その後航空技師になってからの二郎の作る飛行機は冒頭の夢をなぞるように繰り返し落下する。

 しかし落ちるたびに二郎は新たな飛行機を作るのであり、二郎の飛行機制作はいわば夢の中での落下を克服するべく行われているようにも読める。つまり二郎が繰り返す試行錯誤には二郎自身による、二郎の中の夢想的空間を維持しようとする努力がメタフォリカルに仮託されているのだ

 

抜け出せない/抜け出さない人物への眼差し

 ナウシカ千と千尋ハウル、またそれらに限らず様々な作品で、宮崎駿は随分強い女の子を描いてきたと思う。彼女らは心地よい夢想の世界に絡め取られそうになっても、複雑怪奇なその世界のルールを一つ一つ把握し、唾棄すべき現実に改めて戻ってきた。たしかにその姿には励まされる。

 励まされるのだが、いつまでも夢想の世界から抜けだけない二郎のような人間像の方が私にはピンとくる。ここには、ある世界の見方から決して抜け出せない人物が描かれているからだ。ここで私は、(行き過ぎかもしれないが)東浩紀が『この世界の片隅に』に寄せた評を想起してしまう。

 

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 ことほど左様に『風立ちぬ』を観ると私には、二郎はこのようにしか世界を見られないのだな、と感じられる。

 

 戦争から遠く隔たった今日の私、苦難に対して決していつも強靭ではいられず、ともすれば自分に都合の良いものばかり見てしまう私は、自分の作り出した世界から抜け出せなさの悲哀、弱さの自覚から始めなければならないと思う。そのため、私にとって、『風立ちぬ』のような作品はとても気になるのだ。

 

 風立ちぬ』の二郎のように自分の作り出した夢想空間から抜け出せない/抜け出さない人間とそれゆえにその人物がふるってしまう暴力を作品の主題に据えるのは宮崎監督の新傾向といえるだろう。そして、この傾向が続くとすれば、『君たちはどう生きるか』もまた、そこに描かれた教えー教えられる関係の暴力性を暴露するような作品となるはずである。そして、そうなって欲しいと思う。これだけ長大な宮崎監督のキャリアの最後に置かれる作品が、年長世代からの若者への説教であったとしたら、本当に興ざめであるからだ。そうであるはずがない、と思う。

 

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風立ちぬ』についてはこちらもどうぞ。正直、公開からそれなりに時が経っているが、相当気になっている作品である。ジブリの傑作、であることは間違い無いのだが、どれくらい傑作なのか、というところをはかりかねている。

 

summery.hatenablog.com

 

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