SUMMERY

目をつぶらない

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学校の物語を語る欲望:「東大合格者数高校ランキング」に思う

ツイッターを見ていたら、東大合格者に言及するつぶやきがあったので、高校時代たまに見ていた「高校ランキング」スレッドを少し読んだ。

 

2018年 東大合格者数 高校ランキング Part20

www.inter-edu.com

 

 懐かしい。当時の熱気そのままである。いや、むしろ加熱しているか。

「どこそこの高校が躍進し、有名なあの高校が凋落。これなら公立トップと同レベル。しかし医学部は増えている。医学部だけ見れば、負けてはいない…」

 進学実績をもとに学校の格付けがなされ、憶測が飛ぶ。くだらないと一言で切り捨てることは簡単だが、実際このような言説の場に反映される多数の色眼鏡が社会で効力を持ってしまったりするものだから、完全に捨て去ろうとする態度も、それはそれで何らかのコンプレックスのようにとらえられてしまう。

 こういったスレッドの伸び方ときたら異様で、東大の合格発表日である3月10日だけで、3000スレッドほど動いている。

 

 これを見ながら、なぜ東大合格者数の多い高校について語りたいという欲望が生じるのかと素朴に思ったので、少し考えてみる。

 最近、有名進学校に関する新書を目にする機会がよくある。そういう新書が統計的に増えているかは調べていないのでわからないのだが、本屋ではよく目にする気がする。どこそこの高校の教育方針が素晴らしい、この高校で育った子はこのような性質を帯びる、など。

 それを時たま手に取り、思うのは、そこに書かれていることがその学校独自の物語であるということだ。

 物語とはいえ、この物語は完全なる空想ではない。物語られる学校内の生徒にとって、それはまさに自分の所属している世界の出来事であり、それがフィクションであるとしても、繰り返し吹き込まれるうちに自分のアイデンティティに少なからず影響を与えるものとしてある。

 受験生にとっては、それは勉強の末に到達できるかもしれない世界の話であり、学校の物語を好む大人たちにとっては、ある日その学校という物語世界の住人が、新人として入ってくるかもしれない、もしくは自分の遥か上の上司がかつてそこに所属していた過去が明らかになるかもしれない、そのような、現実と陸続きの物語としてある。

 学校を語ることは、今ある現実とは別の、しかし現実と陸続きになった、もう一つの現実を語ることの欲望である。

 だから、学校の先生とは何よりもまず、物語の世界の演出者であり、役者であるのだろうと思う。

 

 

 もちろん、この話は学校に限らない。会社にだって物語は必要だ。個々の家庭にもそれは必要とされる。

 蛇足だが五年ほど前、僕は、遠い親戚から、自分のルーツが和歌山県にあり、僕の江戸時代の先祖は廻船問屋をやっていたと聞いた。

 廻船問屋!

 あの教科書に載っている、菱垣廻船や樽廻船を所有して、西回り航路や東回り航路からやってくる船より水揚げされる海産物を、僕の先祖は上方に送ったりしていたのだろうか…そんな風に想像して、僕はその想像に陶酔するような気分であった。