SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

駒場の西側

 昨日午後は久々に午後の街をゆっくりと歩いた。駒場キャンパスを西につっきり日本近代文学館の側に抜けるとある、閑静な街並みが最近のお気に入りである。一つ一つの家が比較的大きな空間を持っており、かつその空間を余すところなく使い切ろうとはしていない。そうした空間利用に豊かさを感じる。豊かなものがある、と思う。玄関と玄関前の空間の間にひっそりと設けられた、土の露出する一メートル四方の小さなスペースから、物語のカエルが傘にするような、幅が広く厚みもある緑の葉っぱが数多顔を出し、ほとんど土が見えなくなっている。

 縦に背の高い細い白木の板が合わせられて壁になっている家、コンクリート打ちっ放しの壁が道にせり出している家。素材やその素材の組み合わせ方として手が込んでいても、決して過度に自分自身を主張してこない。そしてよく見ると、相当に大きな空間を持っている。チラリチラリと見える内部と合わせ、それらの家の空間は、その空間を構成した主体の身体や時間感覚と不可分な印象がある。

 静かに落ち着いた場所でひっそりと布置される生活空間の記号。そこからは、背景となる物語の存在が透けて見える。文字によって伝達される物語に倦む。そうではなく、私の体がもしその中にあったら、私自身が感化されてまた、別の存在に変わっていくだろうと思わせてくるような、物語の時間と空間に入っていきたいと思ったりもする。読書はこちらから相手の物語を積極的に聞き取ろうとしてはじめて成立するもので、それは多かれ少なかれ一種のトラバーユなのだが、そうではなく、気づいたらそこにいた、という物語に会いたい。私の体の波長を通常とは異なるように読むことができるような、異なる文脈の総体としての物語の場にいたい。鳥が飛ぶごとにその影がさっと横切っていくような、それほどにも多くの面積と単一な淡い灰色のコンクリート壁を見ながら思う。

   決断が出来なくなった。仕事で自己の裁量を与えられていないから、というのは簡単だが、残念。そういえば昔から決断は苦手だった。不確定要素が大きすぎる、思い切った決断はできる。できないのは細かい決断。例えば二つの店の食べログを見て、忘年会の場所をどちらにするか、など。今の生の延長線上に、決断があるのか微妙