SUMMERY

目をつぶらない

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なぜ「信仰」なのか 柳田国男・丸山眞男・大江健三郎に学びつつ

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柳田と丸山の新書を読んだ

 ここ数日柳田国男丸山眞男に関する新書を読んでいた。具体的に読んだのは以下の二冊。

 

柳田国男 ──知と社会構想の全貌 (ちくま新書)

柳田国男 ──知と社会構想の全貌 (ちくま新書)

 

 

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

 

 

 柳田も丸山も、戦後、主に高度経済成長下に進行した大衆社会化の中で、旧来の伝統や道徳から切り離され利己的になっていく国民の姿を見て日本の将来を憂えていたという。彼らの問題意識には共感するところがあった。

 

利己主義的利他主義

 しかし、利他的な行動を他人に勧めることは難しい。その難しさも、(引用されている文章からであるが)彼らの筆致から感じた。よくある説明では:私たちは他者との関わりの中から自己形成し、他者との関わりの中で生きているのだから、他者に裨益する行いは、結局は、自己に裨益する、ということになる。頭ではわかるのだが、私はこの種の説明に昔から違和感を覚えて来た。「情けは人のためならず。めぐりめぐって自分のため」—結局、自分のためにやるのなら、それは「情け」なのだろうか。「利他」なのだろうか。

 「結局自分のためになるのだから」ということを根底に置いた人から、そう言わずともそうした態度が透けて見える人から、何かをしてもらいたいとは思わない。「ただほど高いものはない」ということわざもある。それだったら、最初からわかりやすい等価交換の形にしてほしい。そんな風に思ったことは一度や二度ではない。でも人の心というのはそう簡単に割り切れるものではないから、利他的な行動を行う人の中にも、「結局自分のためになる」という利己主義以外の動機付けが混在していることは当然ある。そう考えて、自分を納得させもするのだが。

 私はこうした点に変に敏感で、塾講師として働いていた時期も、教師をやっている現在も、「無償で」生徒のために長い時間残業なりをしている同僚が、ふと合格実績を上げることで自己の名声を獲得しようとしているようなそぶり(「色々やってあげたけどやっぱこいつダメだわ」みたいな)を見せると鼻白んでしまう。なんだ、結局そういうことか、と思う。それはそうなのである。私が勝手な「いい人像」を押し付けていただけなのだが。あるいは、私が勝手に、その人の中の「いい人的側面」ばかりを見ていただけなのだが。

 ずいぶん脱線したが、脱線ついでに言えば、私自身は大変利己的な人間である。それはわかっている。人のためにしてあげること一つ一つに対価を求める、というのでは流石にない。というか対価を求めたりはしないが、自分の持ち物が減ることには敏感だ。余裕があるときには純粋に利他的に振る舞えるが、自分の持ち分を減らしてまで、ということはできない。

 

「倫理」の基礎に置かれる「信仰」

 話を戻そう。お金に換算することができるような、経済的な価値が優先される社会的風潮の中で、人々が利己的になっていく。そうした人々が、利他的に振る舞えるようになるためには何が必要なのか。過去の人々が直面した困難を引き継ぎ、現在自分とともにある他者たちの生を支え、未来の世代の生を豊かにするような行動をとる人とはどのような人なのか。

 私が読んだ限りでは、柳田にしても丸山にしてもこうした問題について考えた上でたどり着くのは「信仰」である。例えば信仰の対象として代表的な「宗教」は生に意味を与えてくれる。

 柳田にとって日本古来の宗教とは、血縁的なつながりのある自分の祖先たちが死後、神になるという祖霊信仰であった。もちろん、自分自身も、また、自分の子供も、死後は祖霊に加わることになる。そうして後続の世代を見守るというわけである。血縁で繋がった家、家族という個を超えた価値に帰依することは、利他的行動を利己主義的でない文脈で捉える考え方を供給してくれる。これが、柳田のいう「倫理」「道徳」の基盤であった。丸山は柳田のように信仰の対象について詳しく一つに限定して論じることはなかったが、信仰を「倫理」「道徳」の基盤として置いたことには変わらない。

 私は特定の宗教を信奉してはいないし、信仰について考えたことがなかった。しかし上で脱線しながらも述べたように、利他的行動の利己主義的でない根拠づけはできないものかと漠然と時折考えていた。それは自分が利己的な人間である、ということにも起因する。

 だから、柳田と丸山が「信仰」の問題を取り挙げていることについては、一つの刺激となった。何か宗教を始めてみよう、ということではない(「宗教」は「信仰」の対象の代表的なもののうちの一つだが、唯一のものではない)。宗教の作り出す共同体やそれが何世代と受け継がれていく中で生み出されていく価値観の体型に興味があるのである。

 

「生まれてくる生命を支える」—何故?

 ところで、以上を書きながら、以前にこのブログで書いたものを一部思い出した。以下の記事からの引用。

  

summery.hatenablog.com

 

たとえば、相模原事件。たとえば、日本における排外主義運動の高まり。電通で自殺した友達の友達。そして、今も、また、これから何十年何百年も禍根を残し続ける原発問題。

    それらに関する情報を拾う中で強く感じるに至ったことがある。それは、「一つ一つの小さな生活が危機に晒されている」という危機感だ。当たり前の生、当たり前の幸福の享受や、当たり前の自由が、当たり前でなくなり、時に軽々と蹂躙され、時に複雑隠微な方法で息苦しい形へと変えられていく。

   上に挙げた中で、特に個人的にショックが大きかったのは、相模原事件だ。相模原事件直後にネットの最悪な部分で噴き出した言論は本当にひどかった。障害者の生きる権利を認めないような、とてもここで再現するのがはばかられる発言が多々リツイートにより運ばれてきて、ネットを見て初めて涙を流しそうになった。生まれてくる命を受け入れ、支え、それとともに生きることに喜ぶという当たり前のことが、もしかしたら難しくなってきているのではないか。月並みな表現だが、「社会の底がぬけてしまう」と思った。

 

 若干小っ恥ずかしい表現もあるのだが、修正しようとまでは思わない。実際にそう思ったし、今も当時のTLを見るとそう思うだろうと思う。そしてこうした問題意識の裏には、次の記事の以下の部分があった。

 

summery.hatenablog.com

 

「生まれてくる生命を支える社会を創る」

 最近、東日本大震災直後の『世界』『文藝春秋』『中央公論』を読み直していました。その中で、『世界』の2011年5月号、つまり東日本大震災を内容に盛り込んだ初号を読み返し「生まれてくる生命を支える社会を創る」という記事をみつけました。

ci.nii.ac.jp

 この記事を見つけた私は、その題名だけでなんだか安堵してしまいました。人より優位に立つことや、自己利益を追求することではなく、人とともに支えあい助け合い生きていくことを求める人々がまだまだいると思うと、私も頑張ろうという気分になります。 

 社会を変えようとか、そのような大それたことを思っているわけではありません。「コモリン岬」における見田宗介の言葉を用いながら言えば、私は私自身の聖域を守ろうとしているのです。本来的に混沌として、不条理な世界の中で、なんらかの文化的構築物を仮構しなければ、人間は社会的な存在として生きていくことはできません。助け合い共に生きる共同体のあり方、もしかしたら今、危機にあるかもしれないあり方は、私が人間としてあるために最も基本的なあり方であると思います。つまり、「聖域」です。

 

 この記事は題名の通り、大学院を修了し、社会に出るというタイミングでの、自分の中の宣言として書かれている。当時の私は、共同体の中で、他の人の生を支えることを通じて役割を果たしたいという気持ちがあった(普通に考えれば「大学院」も「社会」の一部であるのでまあ、その外で役割を見つけたかった、ということになる)。

 私は「信仰」を持たない。帰依しようという超越的存在を有していない。けれども、自分と同じようにこの社会で生きる人々の生を支えることは、いつも手放しでできるわけでは決してないのだが、しようと思える。「しなければならない」と言ってしまうまで責任を負えるかわからないのだが。

 そしてそれもまた一つの「信仰」なのかもしれない。おそらく、「信仰」と呼べるほど強度のあるものでは、それはないのだが。

 

「信仰を持たない者の祈り」

 ところで蛇足なのだが、「信仰」は私が折に触れて読んで来た大江健三郎が70年代から90年代に作品やエッセイで盛んに扱った主題でもある。70年代終わりに大江は柳田を集中的に読んで来たとエッセイで言及しているし、晩年の作品では丸山眞男の著作を引いたりもしている。間違いなく、上二者について豊富な読書経験がある。

 ここからは推測に過ぎないが、おそらく、大江もまた、戦後日本における倫理の問題を考える中で、「信仰」ということに当たったのではないかと考えられる。「倫理の問題を考える」とはおそらく、過去/現在/未来に生きた/生きる/生きることになる人々と共有する/せざるを得ない社会の一員として、自分個人のこととは別に何を【すべき】か、そして、【なぜ】そう【すべき】か、ということなのではないだろうか。

 大江は「信仰を持たない者」としての自己につきエッセイ等で一時期盛んに言及している。そして、それは、私が上で述べた「何かはっきりと対象を定めているわけではないが、漠然ともっている共同体への志向」、おそらく「信仰」と呼べるほどの強度のないこの志向を抱えて(それ以上強いものを抱えることができないものとして)どう生きていくか、という問いを考えるきっかけになるのだろうと思う。

 

時代と小説/信仰を持たない者の祈り [新潮カセット講演]
 

 

 しかし、これ、カセットだけなのか?まさか…

 いや、そうっぽい。うーん…。手に入るかなあ。手っ取り早いのは、国会図書館か…。