SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

先輩教員の転職と教員に求められる「専門性」について

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 良いことなのか悪いことなのかわからないが、筆が進むのは大抵自分の中に違和感が渦巻いている時である。もちろん、自分の力で変えることができたり、にぎりつぶすことができる程度の違和感であれば、わざわざ筆をとることもない。自分の力で容易に変えることのできないような、周囲の人間に対する決定的な違和感。それが出来した時には、その内実を確かめるためにも筆をとる。不満が渦を巻き、それほど楽しいと言えなかった時期に、後から振り返ると結構長い小説を書いていたり、示唆に富んだ洞察を含む日記が大量生産されている。今の日常が、特に言うことない日々の繰り返しであるにも関わらずというか、そうであるがゆえに書き物が捗らないので、昔の書き物を振り返って、過去の自分はなかなか色々考えていたなあ、などと感慨にふけったりする。

 

「専門性」重視の勤務先

 この四月より職場の中堅教員が転職した。同じ現代文の担当だった。私の勤め先は学力レベルとしては高めの客観的事実として付け加えるなら、偏差値は相当高めの学生が集まる高校だ。それ故に受験勉強の指導はあまり求められていないし、学習指導要領を逸脱する内容を扱っても、また、実験的授業形態を取り入れても誰からも文句は言われない。そもそも生徒が優秀なので、何をやっても大抵、「成果」らしきものは出てくる。それが生徒のためになっているのか、ということを真面目に考えるのなら、もちろんどこの高校でどんな授業をやろうと難しいだろう。しかし、自己の行う授業の価値を対外的に説明しようとするのなら、とりあえず生徒の反応の良さや成果物があればなんとか格好はつく。その意味で、私の学校はやりやすいのだ。

 

 こういう学校にどのような教員が集まるのかというと、高い学力を持つ生徒の知的好奇心を満たすことができる教員だ。生徒らの多くは、情動については一般的な高校生の域を出ないので、教員の知的能力が自分よりも低いとみなすや否や、授業を聞かなくなるなどの態度にでる。優等生達であるから、授業を抜け出したりするようなことはないが酷い場合には教室の8割が授業を聞かず、塾の宿題をやるというようなことが起こり得る。そうした状況の中で授業を続けるのは教員にとっては辛いことであるから、そうならないためにも、受け持ちの教科について一般の教員よりも深い専門性をもつ教員が集められる。

 

 こうした、専門分野に関する知識が生徒の方からも、教員間でも重視される校風の中、やめてしまった先輩の中堅教員仮に「岩下先生」とするは、自分に専門性がないことに苦しんでいた。「中高教員の教科に関する専門性は高がしれている」というようなことも言っていたが、これは自分に専門性がない、という意識の裏返しだろう。

 

 岩下先生は私と同じ現代文を持っていたのだが、現代文の教員になったことが岩下先生にとってよかったことなのか、私はわからない。現代文というのは専門性が見えにくい教科だ。学ぶ内容が現代の文章の読み書きという汎用性が高く、基礎的なものであるため、重要であることは誰もが疑わないものの、現代文の「専門性」とはなにかと言われると多くの人は首をかしげるのではないか。ある体系の中に組み入れられた知識をある程度決まった順番通りに一つ一つ理解し、覚え、それらを駆使してさらに応用的な内容を積み上げて行く、というのが私の中での大まかな「専門性」のイメージである。このイメージに現代文という科目で学ぶことが沿っているとは言い難い気がする(言えないこともない気がするが)。

 

 岩下先生の中には専門性への憧れと、それへの反発との両方があったのだと思う。その岩下先生が現代文という、専門性が規定しにくい教科の教員になったのは幸福でも不幸でもあったと思う。幸福だったのは、専門性とつかずはなれずの態度を維持し続けることができること。不幸だったのは、つかずはなれずの態度を維持し続ける運命にあったこと。両者は裏返しだ。

 

 専門性の希求。体系だった知識を自分のものにし、他の人にできないような高度な知的操作を素早く時間は有限なので、大抵の場合、速度が重要行うことへの憧れ。誰しも多かれ少なかれ、そうした憧れを抱くのではないか。いや、私がその憧れを共有しているから、「誰しも」とか勝手に思い込んでいるだけなのか、わからないが。とにかく一現代文教員として私は岩下先生に共感するところはあったのだが、私は仮にも国文系の研究をしていた(+いる)ので、一応現代文を教えながらでも「専門性」の片鱗は見せられたのである。岩下先生は国文科出身でも、国語学出身でもなかった。現代文教員だけれども、文学史に精通しているわけでも、日本語という言葉に精通しているわけでもない、ということが、岩下先生の気になっているポイントらしかった。

 

先生の転職

 それで、話を続けるが、結果的に、岩下先生はやめることになった。中高一貫校で主に高校教員だった彼は、高校生に対する教育からは手を引くことになった。詳しい事情を聞いたわけではないが、これまでの彼の言行からどうしてこのようなことになったか推測すると以下の通りだ。

 

 前述の通り、私の学校で教員はほとんど何をしてもいい。大学のような雰囲気を持っている。しかし、大学が専門知を持った大学教員の住処であることを大前提としているように、何をしてもいい私の勤務先でも大前提がある。それは「教員に(一般的な教員に比して秀でた)専門性(=教科の内容への幅広い知識・深い理解)があること」「教員が専門について勉強を続けること」だ。別に専門性がなかったら、誰かから論難されるわけではない。それでもやっていける。しかし確実に居づらくはなる。自分は場違いである、求められていないと隠微な形で知ることになる。これは辛い。

 

 岩下先生はこうした辛さと戦っていたのだと思う。戦いながら、なんとか教科の内容についての専門性とは別の方向性において勝負しようとした。指導における専門性を追求しようとしたと言い換えてもいい。岩下先生の戦いは決して間違っていなかったと思う。今では私も、教師にとって教科の専門性は重要だが、それは教師がもつべき重要な力の中の一つに過ぎないと思っている。さらに言うならば、それは確かにあればあるほどいいけれど、教員採用試験にいつでも合格できる程度の「専門性」を維持していれば、当面教師として問題ない程度であると思う。少なくとも、通常の学校では。

 

 私は教師にとってそれ以上に重要なことはいくつもあると思う。一つあげるとするなら、生徒が何をできるようになったのか、ということをキャッチし、それを、それまでの生徒の学習や、その生徒が向かうだろう(向かいたいと思われる)方向との関係から位置付けてあげることだ。例えば一つ漢字が書けるようになったという達成があったとしても、その位置付けは個人によって異なるはずである。努力の末なのか、一目見ただけで書けてしまったのか、その漢字が書けることはその子にとってどう重要なのか、など。ある程度知識が深くなければ位置付けなどできないから、もちろん教科の専門性は必要なのだが。

 

 岩下先生はこうした点に力をそそいでいたな、と同僚として思う。無味乾燥な校内実力テストの、それも漢字の採点で、岩下先生がコメントをつけていて驚いたことがある。漢字の丸つけで何を書くのかと思い、いない隙に見てみると、「おしい!」などと書いてある。私はこれに感心した。確かに何も書かない生徒と、とにかく何か書こうとしている生徒は、同じペケでもその子にとっての意味合いが異なる。努力の跡を読み取ってもらえるのなら、その子の学習は次に繋がるだろう。校内実力テストは通常業務に割り込んでくるから大抵てんてこ舞いの中で採点することになるのだが、その中でこうした細かなコメント付けをできるというのは、要はこういうことが好きなのだと思う。そしてそれは教師に向いているということでもある。

 

 岩下先生にとっては専門性を重んじる私の学校は環境として合っていなかった。彼が失意のうちに辞めていったとは言わないけれど、残らなかったこともまた事実だ。そして、高校教育からも手を引く彼は、しかし次の職場ではうまくやるだろうと思う。やっと確立した自我を必死で守らなければならない高校生くらいの時期は、自己の価値観を括弧にくくることが難しい時期でもある。周囲の大人による学習の後押しがとんでもなく鬱陶しく感じたりもする。岩下先生の「おしい」というコメントも「鬱陶しい」と感じる生徒は正直いただろう。特に、「漢字問題は0か1かで、半分書けていようが白紙だろうが0は0」というような二元論が支配していそうな本校では(見方が適当すぎるかもしれないが)。しかし、もっと年齢が下で、学力層も多様な生徒からなる学校であれば話は別と思う。本当に、頑張って欲しい。