SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

高橋弘希『送り火』の語り手に対する違和感

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 毎日疲れる。心地よい疲れと、身体が重くなるような倦怠と、その狭間にある。これ以上忙しくなると疲弊していきそうな、そんなギリギリなところにいる気がする。この生活の破綻もそう遠くないかもしれない。

 

 高橋弘希の『送り火』を読んだ。第159回芥川賞受賞作である。

 高橋の作品については話題になった『指の骨』を読んだことがあり、その時は濃密な筆致から立ち上がってくる「リアルな戦場」という虚構(高橋はもちろん戦争経験者ではない)に圧倒されたものだった。しかし読後感は良かったものの、それほど評価する気にはならなかった。簡単に言えば、高橋の戦争描写は、これまでの作品にその多くを依存している気がしたからだ。

 もちろん小説という文化的装置は、それまでの積み重ねの上に立つものだから、あからさまな剽窃は排されるべきだが、時代とともに蓄積されてきた戦争の描写を借りることは自由にしてよいと私は考えている。しかし私には、高橋がこれまでに蓄積されてきたものを組み合わせる、その編集の上手さは感じられても、彼がそれらの上に何か独自のものを積み重ね得ているようには思えなかった。

 ただ、作家はそれぞれ独自のものを持っており、高橋も例外ではないのだから、その独自のものが感じられないのは妙で、はて、これは何故なのだろう(読み手の私に問題がある?)と考えていた。

 

 今回、『送り火』を読んでその理由がわかった気がする。『送り火』は例によって非常によく書けているし、面白く読めたが、積み重ねられる一つ一つのエピソードの収め方が妙に技巧的で、〈挿話を安直なリリシズムに回収することに巧みな作家〉という印象を途中で持ってしまったのだが、するともうあまり作品内世界に没入することができなくなった。

 問題だと思ったのは、語り手が、本来複雑であるはずの問題について語らねばならない時は主人公の中学三年生に内面化することで回避し、そうでない風景描写などについては顔を出して繊細な言葉で塗り込める、この往復関係である。一言で言ってしまえば、そこにあざとさと狡猾さを感じた。

 もちろん、小説という場において、通常語り手は適宜必要な場所に顔を出し、小説を小説として立ち上げるための大立ち回りを密かに行なっている。だから、それ自体を糾弾することは反-小説的なのであって、さすがにそんなことをいうつもりはない。しかし、高橋がなぜ「送り火」を書かなければならなかったのかが伝わってこなかった。肝心な問題に踏み込んでいないように感じた。最後に描かれる送り火の場面も、それ以前に描かれたエピソードとテーマ的にうまく結びついていない。薄っぺらいと思う。

 選考委員の高樹のぶ子はこの作品について以下のように述べている。

「「送り火」の一五歳の少年は、ひたすら理不尽な暴力の被害者でしかない。この少年の肉体的心理的な血祭りが、作者によって、どんな位置づけと意味を持っているのだろう。それが見いだせなくて、私は受賞に反対した。」

「読み終わり、目をそむけながら、それで何? と呟いた。それで何? の答えが無ければ、この暴力は文学ではなく警察に任せれば良いことになる。」

(以上、『文藝春秋』2018年9月号 )

 私はこれに同意したいと思う。近いうちにこの作品について授業で扱われるので、他の人たちの感想を聴きながら再考したい。