SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

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相手がこちらに配慮しようという努力をしてくれているのがわかれば、結果として気分を害されても落ち着いて考えた末に許す、という位の器量を身につけたい、相手の立場に立てればそれが出来るはずだが、実際は出来ない場面が多い、そのような場面では、私は大体、動揺しているから手近にわかりやすい敵を作るのが私にとって最も楽だからだ。

私が誰かに害されたと感じたとして、それが本当にその人に害されたのか、それともそれは状況に起因するのか、または私が勝手に害されたと感じているだけなのか、冷静に判定する必要がある。そしてその判断の為には私は情報を集めなくてはならないから、仮想敵としている目の前の相手とさらに少し話してみなければならない。

相手が自分を害そうと思っていない、もしくはそうなりうることを知っていて、それを極力避けようとしていると感じた場合、相手の立場に立って状況の難しさを把握する必要がある。状況を憎むのはそこに目立った責任主体を定立することができないために難しいが、それでも相手とせっかく築いた関係を壊すよりマシであり、また倫理的にも正しい。

これだけなら単純な話だが、問題は次のような場合にある。私が害されたと感じ、また相手はそれをどうやら避けようとしていたようだが、そうなってしまった、ということを私は理解が出来るのだが、同時に、彼が「避けようとした」という事実を押し出してくるようであるように感じられてしまう場合だ。つまり、彼にとっての相手である私のためを思って彼が行った行為は、結果的に私を害することになりかねないことを悟り、その際のアリバイのために行ったのではないか、自分を善人と見せるために行ったのではないか、という疑いが生じる場合だ。

しかしそのようなことを、私はどのようにして本当に知りうるだろう。一見好意に見えるものを、以上のようにひっくり返すことが正しいと思えるほどの確かな証拠がそこにあるだろうか。ことがこのように抽象的な行為の意味の解釈となると、議論は確証を欠くものになってくる。私が自己を害されているという風に感じているだけである、ということもあり得るということになるだろう。このような場合に自分の気持ちとどのように折り合いをつけるべきだろうか。

まず一つ目に考えなければならないことは私がそのようなことを考えるということは、どのようなものによってか、ということはとりあえず思考の外におき、確かに言えることとして、「私は害されている」のだ。それが被害妄想であれば、自分に、解釈が正しく、相手がただ偽善的に振る舞っているのだとしたら、相手に、相手は精一杯やってくれているという結論に達すれば、状況に、害されているのである。

だから、少なくとも自分が害されていると感じていることを飲み込むことだけはしてはならない。今はここまでしか言えない。