SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

飼っていた猫が死んだ

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 飼っていた猫が昨日、死んでしまった。

 歯を全部抜く手術をして一週間弱の入院をし、やっとこさ退院してきた日。久々に帰れたのが嬉しく、帰って来た直後は随分元気な様子だったらしい。私は23時に帰宅したから、その話は大学の図書館でメールを介して聞いた。

 それから帰宅した私はカバンを置いてすぐに二階にいた猫のもとに行ったのだけど、その時どうも体調が芳しくないのではないか、と感じられたのを覚えている。表情がどことなく暗く、どうにもおぼつかない感じ。目が虚ろで、こちらを見ているようで、見てくれているのかわからない。何かに気を取られているような、重大な違和感を感じているような様子だった。それでも久々に帰ってきたのだから、と思って持ち上げて下の階に連れて行った。3分ほど抱いたのち、とても嫌な調子で「オーッ」と鳴くから放したが、そこからは嘔吐の連続だった。死んだのが23時45分ほどだったから、30分間ほど、その時から死んでしまうまでにあったわけだけど、それはそれは大変な苦しみようだった。

 二階の私の部屋まで歩いて戻って、必死に吐こうと試みるがうまくいかないといった様子であり、どうやら今考えると、何かを詰まらせたのではないかと思う。とはいえ、猫は内臓性疾患で死ぬときも呼吸困難に陥り、同様の苦悶を見せるらしいから、結局は何が原因だったのかわからない。

 私が様子を見ているのが嫌であるらしく、何度も私から目を背ける方向に体を動かして、またえずきながら、伏せの姿勢をとり、ただじっと苦痛に耐えているらしかった。控えめに見ても尋常な苦しみではなさそうだったが、触ると嫌がるから、少し離れたところで私はじっと見ていた。この世のありとあらゆる肉体的な苦しみが私の猫を襲っている様子だった。それは全方位から攻めてきて、彼はそれに翻弄され、苦痛以外の何物も感じていなかったのではないか、などと思う。テーブルの下にいるのを私があまり見たせいか、もうほとんど移動も出来ないのに、私の部屋にある本の山に崩れ落ちるようにしてよりかかった、その目は私を見ている様子で、私の向こうの部屋の壁を偶然にも見ていたような、それほどに要領を得ない眼差しだった。これまでの私とその猫との付き合いの中で、それほど徹底的なディスコミュニケーションを感じたのは初めてだった。

 口を開けて犬のように息をしはじめたのは、気道をなんとか確保しようとしていたのかもしれない。その後母親も私の部屋にきて二人で観察したが、体に力が入って脱糞しながら、もんどりうって倒れ、また起き上がりを繰り返し、床を文字通り掻きむしって苦しんでいるのを見た。のけぞり打ち震えかきむしるしかないような不可避の大きな苦しみと、私の猫が一人で戦っていた。

 私はとても見ていられないので、行きつけの動物病院に急患の電話するという名目で一旦部屋をでた。電話は当然のようにつながらなかった。留守番電話に一応、現在の状況を吹き込みながら、「嘘みたいだな、夢みたいだな」と思った。奇妙なほど落ち着いて、しかし一定程度呆然ともしていることが明白な、しまりのない声でだらだらと説明をした。「急患」という割りには焦りの全く伺えない自分の語りを、妙に客観的に捉えていた。結局、全然事態の深刻さがわかっていなかった。わかっていなかった、というより、それをわかってしまうことが怖くて、わかろうとできなかった。

 5分ほどのち、母親が、動かなくなってしまった、呼んでも起きないといってきたため、ノロノロと見に行ったが、両手と両足をぴんと伸ばし、口を開けて苦悶を示しながら、私の猫は横たわって死んでいた。私は人間を含めある程度大きな動物の屍体というもの葬式以外で見たことがなかったけれども、むしろそうであるからこそなのか、一目で死んでいるとわかった。そして、「あの凄まじい苦しみようはやはり相応の理由があったんだ。でも、何で?」と疑問しかわかなかった。

 2時頃に、私は綺麗に体を洗ってあげた猫の屍体を箱に入れ、枕元に置いて寝たのだが、苦しんでいるのを実際に見ているときは思い浮かぶことのなかった、「逝っちゃうんだ」という呼びかけめいたものが、何度も繰り返しこころに浮かんできた。私は猫がもんどり打って苦しんでいる場面を思い出しては、もはや引き返すことのできない暗夜行を彼が歩みはじめる、その足取りに取り残される自分の姿をありありと想像した。「逝っちゃうんだ」と何度もつぶやいては、泣いた。

 見知った存在が目の前で全く別の場所に移行していくこと、それが短い時間であるが連続的な過程として行われるから、私はもしかすると何かしうるのではないかと思い、追いすがったのだ。それはすべて私の想像の中で行われた。現実に私は死ぬ直前の数分間を見ていたわけではない。その時はなんとも情けないような電話をかけていたのだ。高くて弱々しい笛のような音が聞こえたような気がしたけれど、もしかしたら、あれが断末魔だったのかもしれない。

 思えば幼稚園年長で無責任にも猫を飼いたいと言ってからこのかた、いつかはこのように手のとどかないところに私の猫がいってしまうことは幼い私にもまあなんとなくかろうじてわかっていた。それがいつ来てもおかしくないということは、年を経るにつれて明瞭にわかるようになっていった。苦痛の渦の中でただ翻弄される私の猫の、何も見ることができない眼差しに遭遇すること。その運命は、私が猫を飼いたいと言った17年前のあの日に決定づけられていたと、大学生活も終わりを迎える私には自明だったはずなのに、結局思いがけないことのように驚愕とともにそれに出会ってしまった。

 ポケモンにはまっていた当時の私がつけた「ニャース」というのが私の猫の名前だった。「いつペルシアンに進化するの?」と友達に何度も聞かれた。もちろん私のニャースペルシアンに進化などしなかった。それと同じく、ニャースが死んでゆくことに狼狽し、呆然としてしまった私の方も私の方で、17年前から根本的には何一つ進化していないような、そんな気がするのに、ニャースは死に、私は就職をしなければならない年齢になってしまった。 

 

 

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あわせてこちらもどうぞ。 

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上の記事に書かれたニャースではない方の猫との関わりについてはこちらをどうぞ。

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彼女は下の記事にも出て来ます。

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