SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

『この世界の片隅に』で気になった時限爆弾シーンの着物について考えてみた

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 『この世界の片隅に』を観てきました。印象に残ったシーンに関して、感想を述べたいと思います。

解離するすずさん

 『この世界の片隅に』について、東浩紀さんは以下のように述べています。

 

 

 確かに、この作品において、すずさんは周囲の世界から解離していると思います。その解離は、映画の中では、周囲の世界、そして自分におきる出来事の、すずさんによる受けとめ方のずれという形で表現されていると言えるでしょう。

 ここで問題になっているのは、すずさんによる世界の見方、つまり、認識だと思われます。すずさんの世界認識は周囲とずれている。もちろん、正しい現実認識というものは唯一絶対にはありませんが、それにしても、最初からすずさんの天然ボケっぷりやのんびりとものおもいに身を任せたり夢を現実と混同したりする感じは甚だしいものです。

 そして、このような認識のずれは、すずさんの中で生起している想像と現実との混同や、絵の現実描写への貫入を映画がすずさん内部の視点から描くことを通し、観客に対して提示されています。

 そうであっても、世間一般に流通する枠組みで見ることができる出来事に接する限りにおいては、すずさんの解離はそれほど甚だしいものにはなりません。周囲が出来事に対する解釈の枠組みを提示するからです。

 しかし、誰に取ってもその受けとめに窮するような出来事の場合、個々人に独自の認識のあり方が、出来事を把捉しようと表に出てきます。空襲や時限爆弾など、生命の危機に接する場面で特に、絵が背景と重ね合わされることが多いのは、このようなことを示していると言えるでしょう。

 以上の考えをもとにすれば、自分の見ている世界を描くことは、解離してしまっているすずさんの側からの、世界に対する手探りのようなものだととらえられると思います。

 この作品は、解離したすずさんが現実とどのように関係性を持っていくかということを一つの主題とした物語であり、そこに挟まる世界への認識という行為が、絵を描くという行為に仮託されてあらわれているということになるでしょう。ここまでが前座です。

右手の喪失と着物 

 すずさんと晴美さんが時限爆弾の爆発に遭ってしまうシーンが、私には大変印象に残りました。すずさんのような周囲とずれた、特異な認識のあり方を持つ人物が、自分の生命に到来した現実的な危機をどのように受けとめていくか、ということが問われるシーンです。言い換えれば、このシーンは、絵を描く人物を主人公として設定することに託された意味が現れる場面であると思います。

 簡単に確認をしておきます(おぼろげな記憶からなので、大変あいまいですが)。ここは、以下のような流れになっていたと思われます。

 石塀の向こうにあるものを見ようとした晴美さんが、破壊された石塀の後に接近した時、地中にあった爆弾が爆発してしまいます。その直後から、爆発に巻き込まれ、右手を失ったすずさんが、次に家でめざめるまでの内的意識の過程が描かれます。
 その内的意識の過程は、以下のようなものでした。

 まず、火花のような形の点滅が描かれます。次に、その点滅が、つないだ手の形になり、繰り返されます。その後に来るのは、着物です。
 序盤ですずさんは、嫁いだ先の家において、着物をもんぺへと縫い直そうとします。その際、具体的にどのようにして着物を裁ち切るのか頭のなかで構想したのでした。その構想の場面で現れた、裁断される着物が、意識の流れの中に現れます。まずはそのままの形で現れ、次に裁断される、という過程が描かれます。
 その後にすずさん自身の声により、問いかけがはじまります。すずさん自身が描いた絵がなんども現れながら、自分はどこにいるべきだったのか、というような問いかけが続いていました。

 上で若干詳しく述べましたが、私にとり大変印象に残ったのは、この中で現れる着物です。

 先に述べたように、この映画で、主題化されているのは、すずさんと世界との関係だと私は捉えています。このシーンが、そのテーマとの関係で着目すべき点だと思われるのは、すずさんの内的意識にカメラが入り込んでいき、時限爆弾の爆発に遭ったという事柄が、すずさん内部から描かれるからです。すずさん自身の認識と出来事との関わり合い、そして、その変容が描かれる場面と言って良いでしょう。

 しかし、すずさんの認識と世界との関係が前景化するこのシーンに、着物の縫い直しの記憶が挿入されるのはどうしてなのでしょうか。このことがわかれば、着物という形象が映画全体といかなる関係のもと現れているかわかるはずです。また、着物が表すものから、映画全体を見直すこともできるはずです。

縫い直しと認識の組みかえ

 晴美さんの死直後の内的意識の描写のなかで、すずさんは、私の場所はどこだろう、というような言葉を口に出します。晴美さんの右に私がいればよかった、というようなセリフも見られました。

 タイトルに引きつけていえば、このセリフは、「この世界」の中の、自分のあるべき場所がわからない、というすずさんの問いかけとして捉えられます。

 すずさんが今いる場所は婚姻制度の中で偶然連れてこられた場所にすぎません。従って、そこにすずさんの場所がないのは当然です。

 しかしそこを、自分のいるべき場所にするべく、すずさんは努力をしてきました。絵を描くことにより、世界に対し、自分なりの像を形作ろうとすることはその試みの一つです。例えば、配偶者の顔をスケッチするシーンは突然夫婦となるに至ってしまった配偶者を受けとめようとするすずさんの試みに数えられると思います。すずさんは、偶然置かれてしまった場所を、自分のいるべき場所として獲得しようとしてきました。

 しかし、晴美さんの死で、すずさんにとって、自分のあるべき場所はあいまいになってしまっています。自分があるべき場所にいたら、晴美さんも右手も失わずに済んだはずだからです。自分がどこにあるべきなのか、という問いは、これまで結んできた世界に対する関係を問い直さなければならない切実さに駆られた問いです。

 この直前に現れるのが序盤で縫い直された着物です。その着物はすずさんの内的意識のなかで、縫い直される過程をたどるように、ばらばらになります。

 このあたりで思うのは、どうも、着物の縫い直しに、すずさんの世界との関係の組み替えというテーマが仮託されているということです。晴美さんと自分の右手との爆死=喪失をもとに世界との関係が決定的に変容してしまった、ということを、着物のシークエンスの挿入は象徴的に語っているのではないでしょうか。

怖い戦争アニメ映画ははじめてかもしれない 

 このシーンは、戦争の悲惨さや、それに付随する悲しみを喚起するという性質のものではないのではないかと私は思っています。少なくとも、私は晴美さんの爆死直後、すずさんが現実世界において意識を取り戻すまでのシーンを悲しいとは感じませんでした。

 ただ、怖かった。どう怖かったかというと、全く異なるルールの世界に入り込むような気がした、という意味で怖かったのです。子供の右で歩くか左で歩くかという通常は意識しないような瑣末な事柄が、最悪の暴力の享受につながってしまう。

 このような、瑣末な決定が、すずさんと世界との関係を決定的に変化させている。そのことを示すために、着物がモンペに組みかえられていくことが、ここであらためて示されていたのだろうと思います。

 加えていえば、やはり身体欠損、四肢切断というテーマもここに重ねられているでしょう。着物がモンペという戦時体制下の服に組み替えられるように、すずさんの身体もまた、ふさわしい形に変えられ、必要のないものはもぎとられていく。右手がもぎとられたのが、絵を描くという行為の中にある体制にとっての危険を示しているととることはできます。すずさんの、絵を描くという行為は、憲兵から注視されていたものでした。交換可能な労働力として働くべき人間が、あるべき場所を模索したり、偶然置かれた場所と自己の意味を問うたりすることは、体制下では余計なことであるといわざるをえません。 

 それにしても、着物の組みかえの図式的な表現は、その抽象度の高さにおいて、戦争の中の個人の生という個別具体的かつ歴史的文脈から切り離せない物語の中に置かれると、どうも異質で、その異質さも怖さになっていました。この怖さが一番強かったかな。戦争体験を描いたアニメで一番怖かったかもしれない。戦争体験というのは強いナラティヴの支配のもとにありますが、それを抜け出ていた気がする。 

分岐点と暴力 

 ありえた異なる可能性への飛翔の際に危機が訪れるというのがこの作品のテンプレのようです。晴美さんは今彼女にとってある世界の外部へと行こうとし(石の壁のはずなのにすずさんの意識をたどる場面で木の柵になっていたのは、あれはなんだったんですか)、爆死する。すずさんは、飛び立つことのできる白い鳥を追って、呉でなく、広島の土地を想起し、空襲で死にかける。

 分岐点においては、様々な選択が可能ですが、いくつもの選択をとりうる場面は躊躇し、立ち止まることで、危険をよびよせもします。熟考し、必要ならば過去にありえた別の選択肢に途中から合流するといったことがゆるされない大きな流れの中で、翻弄される個人の姿が描かれます。立ち止まることはできないのです。そして、着物が縫い直されるように、分岐点に来るたびに、自分の決定により掴み取ったものではない選択を強いられた上で、決定的な認識の変容をせまられる。

 いま書きながら、時限爆弾後のシーンで縫い直される着物のシークエンスが挿入されているのを見て、何が怖かったかといえば、それが不可避であるということだったかもしれない、と思いました。決して後戻りできない組み替えが、目の前で起きること。まだ左手も両足も残っている、というようなことを述べて、自分がまだまだ戦えることを主張する玉音放送時のすずさんは、前半ののんびりした天然ボケのすずさんと対照的ですが、この変化は、どうも着物がもんぺへと縫い直されるシーンと連関しているように思われます。苦労して築いてきた世界との関係が一挙にまた、ばらばらに切断され、戦時体制の身体へと組みかえられてしまうこと。それは、着物を裁断するように、無機的に行われるということ。

 

 

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 これを観た年の終わりにもう一度『この世界の片隅に』を観ました。大林宣彦監督の『この空の花』という映画とともに。二つの映画にまたがる形で、戦争を表象することについて以下に少し書きました。

summery.hatenablog.com

 やはり同じように戦争について描かれた映画として、それぞれ全く毛色は違うのですが、『スカイ・クロラ』と『風立ちぬ』について私は注目しています。

 

summery.hatenablog.com 

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 この『風立ちぬ』批判は結局かなり考え直したところがあります。

 

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