SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

物語る力の減退?『ねじまき鳥クロニクル』と『騎士団長殺し』

f:id:Summery:20160801225738j:plain

騎士団長殺し』を読み始めました。

 村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。購入のきっかけとなったのは、鴻巣友季子さんの以下の言。

ただ「異世界につながる穴」や「(夢の中で行われる)実体のない性交」など、過去の作品で出てきた多くのモチーフが現れ、作家が自らの過去の仕事を総括したような感が強い。特に「ねじまき鳥クロニクル」を語り直したような小説という印象を持つ読者は多いだろう。セルフパロディーは一つの小説技法であり、効果的にやれば面白いが、本作の場合は過去の「変奏」ともいえない単なる「反復」という感は否めない。

 引用は以下の記事より。

style.nikkei.com

 

 私は村上春樹の作品の中で、『ねじまき鳥クロニクル』がもっとも好きだ。だから、それを「語り直したような小説という印象を持つ読者」が多いと鴻巣氏が推測する小説とは、どのようなものなのだろうと気になったのだった。

 『ねじまき鳥クロニクル』については、過去に書いた記事を参照してもらえると大変幸いである。

summery.hatenablog.com

 さて、『騎士団長殺し』に関しては、また上巻を読み終えていない段階のため、詳しい感想はあとに回す。ここに述べるのは、当面の感想である。随時更新する。

『ねじまき鳥』との差異

 鴻巣氏の述べるように、私もまた『ねじまき鳥』によく似ているという印象を抱いた。しかし、それはあくまで、諸モチーフ、物語の展開のレベルにおいてである。語り手の世界との関わりの有り様は、『ねじまき鳥』の岡田トオルの場合と全く異なる。『ねじまき鳥』と似たモチーフの連関、似た展開を、全く異なる語り手に体験させ、語らせる作品である。

 似た点としてはいくつもの点をあげられる。例えば、高学歴で社会システムに影響力のある一員として強固に組み込まれた義父(東大経済学部→銀行の支店長)からの反対の中で、結婚したという主人公の結婚事情。そうして結婚した奥さんと離婚してしまうという流れ。喪失から始まり、その喪失状態を回復しようとする戦いの中で、自分の身に着けた力を活用していくという流れ。

 一方で異なる点として、私は岡田トオルよりも『騎士団長殺し』の主人公(以下、「私」)が老成しているように感じる。妻との離婚に至る流れ、複数の女性との関係性の保ち方、そして免色という謎のクライアントとの距離の取り方。「私」は現実を受け入れ、所与の現実の中で、いかに細々と、しかししたたかに生きるかを模索している。岡田ほどの迷走はそこにはなく、案外すぐに、おさまるべきところにおさまっているという印象。次々に現れる異様な人々や不思議な現象に翻弄されながらも、なんとかそれを味方につけ、所与の現実に立ち向かう岡田トオルとは全く別の姿である。

 「老成」という言葉で私は、「私」があまり様々なものを積極的に見よう、説明しようとしていないことも示している。「語学が苦手だからわからない」「専門用語が多すぎて覚えきれない」(以上、不正確)といった何気なく挿入される語り手=「私」の自己の認知的な限界への言及は、意外に思いながら読んだ。

 現時点では、以上二点あげた「私」の「老成」がとりわけ『ねじまき鳥』における岡田トオルと「私」とをわかつ部分だと思う。つまり、自己の限界策定が。

物語る力の減退?

 まだ後半を読んでいないので、後半を予測する楽しみがあるわけだが、おそらく、『ねじまき鳥』ほどの現実変革は、この語り手には無理だろう。小さくまとまる作品となる気がする。それ自体の是非はまたのちほど。ただ、どうなんでしょうね、こういう語り手は。もはや、現代において『ねじまき鳥』のような「クロニクル」は無理だというメッセージなのだろうか。

 『ねじまき鳥』に比べ、本作品は薄っぺらいと思う。それは、挿入される物語それぞれが薄っぺらいこととイコールであると思う。『ねじまき鳥』において、岡田が井戸の底で授かった力。それを私は、物語から授かる力の比喩ととっているが、この作品の語り手は、『ねじまき鳥』において岡田が受け取ったほどの強度で受け取ることはできないだろう。物語る力の減退を各所で感じる。本当なのか?と目をみはる気分だ。どうしちゃったんだろう。村上春樹

 久々にがっくりきた。まだ最後まで読んでないから、わからないけど。少し村上春樹論を追ってみようと思う。修論で作家論をやってから、作家に関する評論を読むのが食傷気味だったけれども、久々にやってみよう、という気になっている。