SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

『騎士団長殺し』を読み終わった

 『騎士団長殺し』を読み終わった。異様な小説だな、と思った。過去二つの記事で述べた、漠然とした底の浅い印象。それが、筆者の意図的なものかもしれない、とラストを読んで思う。何かが解決した気がしない。あえて解決させない、という意思が読み取れる。

 

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 〈私〉は何を隠している?

 秋川まりえへの、主人公(以下、〈私〉)の視線は、子供を見る大人のそれである。まりえが大きくなり、綺麗になったら男の愛でる対象になるだろう、といったモノローグと共にまりえの観察が行われる。この辺り、気持ちが悪くてしょうがなかった。これまでこんなのあったかな。

 秋川まりえを遠くから観察する免色は、作中でそのまりえへの執着度合いという点で、均衡を欠いたような人物として描かれている。しかし、〈私〉のまりえへの視線も十分薄気味悪い。それに呼応するようにして、乳房の膨らみへの不安を吐露するまりえ。このまりえはまりえで、〈私〉を誘っているのではないかと思われなくもない。

 あまりにご都合主義的に現れては消え、物語の展開を導いてくれる騎士団長に関しても、結局よくわからない。大変その意図がわかりやすい設定が多々見受けられる中で、それと不協和音を奏でるように、いくらでも効果的につけくわえうるような説明や、設定の利用が抑制されている。わかりすぎるくらいわかる部分と、なぜわかるように書かなかったのかよくわからない部分とが混在している、という印象。

 とにもかくにも、『騎士団長殺し』を読んでいて最初に持った感想、すなわち、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公岡田と、『騎士団長殺し』の〈私〉とで、世界認識のあり方、世界との関係の持ち方が根本的に異なるという感想は、案外重要な気がする。語り手により語られないためにわからなくなっている空白が多い為、読後感がおぼつかないのであろう。

 物語の最後で授かった子供である「室」に目隠しする〈私〉は、読み手に対して〈私〉が与える目隠しでもあるのではないか。何かが隠されている気がするが、果たして何が?そしてそれを明らかにする価値があるのかが、わからない。途中、「見所がない作品だな」、と思っていたが、案外考えるべきところの多い作品かもしれない。