SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

私が文学を学ぶことになった理由

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 先日友人に教えられ、東京大学田中純教授が、自身の教える大学院のコースを終了する学生に向けて書いた言葉を読んだ。内容は、ブログで公開されている。

修士修了生への言葉 - Blog (Before- & Afterimages)

 これに関し、twitterで田中先生は、以下のように述べながら紹介している。

  一つ一つ頷きながら読んだ。その中で、ふと懐かしさとともに、自分を振り返るきっかけになったのは、以下の部分である。(引用は上にURLを記載したブログより)

 そして、偉大なテクストや作品、テーマとの関係は、こちらが恣意的に愛したり、飽きて捨てたりできるようなものではありません。それははるかにつらい、傷つけられるような体験です。それがつまりは、答えなき巨大な「問い」との、さらに言い換えれば「歴史」との遭遇です。そんな遭遇とは、どんなものであれ、テクストや作品に「選ばれてしまう」という経験でしょう──いわば、逃れられない「運命」のようなものとして。

 確かに、対象と不可避に結んでしまう関係というものはある。そして、確かに、それは「つらい」。狂おしいという方が正しいかもしれないが。

 私はもともと、小学校時代から特定の物語に囚われて、そのこと以外なにも考えられなくなる、ということが多い子供だった。一旦特定の作品にとらわれると、その作品の中の世界に生きている夢を、何日も繰り返して見るような子供だった。本であれ漫画であれ、夢中になった作品は繰り返し筆写した。それだけでなく、模造品を作った。

 しかし、そのようなことをしても、劣化版のコピーを作っているということ以上ではありえないと、小学校高学年の時に気づいた。私は作品に囚われて過ごす、狂おしいような日々から抜け出して、自分の時間を生きたかっただけだ。そして、それは案外難しいということがわかった。

 そのような状態から抜け出す方途の一つとして、自分が対象に対して感じる魅力を適切に言語化することが数え上げられるのだとしたら、それを学ぶ価値はあるかもしれない。それが、大学で文学を学ぼうと思った理由である。

 作品に対する的確な批評を読む時、ざわざわしていた胸が一旦落ち着き、ざわざわしていた理由自体を冷静に見つめ直す契機が得られる。誰かが書いた批評を受動的に待つのではなく、その契機を自分で掴みとることができないか?そうすることが、不可避に結んでしまった作品との関係を少しでも能動的なものに転換していくことであるのではないか?そう思われた

 田中先生の書いた上記引用に即すなら、それは、一応、私なりの「運命」との出会いだったのかもしれない。いや、大げさではないか?と思わなくはないが、実際それによって、ここ10年ほどの私の人生は、少なくとも決定されてきたのである。

 昨日、私は社会人になった。私の「運命」との取り組みはそんなこととは関係なく続くが、できることなら、仕事においても、「問い」を見つけられれば良いと思う。見つけられなければ、きついと思う一方で、見つけられなくても、案外割り切れるかもしれないと思う。とにかく、初出勤日の明日から、しばらくは不安定な日々が続くだろう。