繊細さを失わず、生活を見つめる:津島佑子「水辺」
昨夜は眠れなかった。築30年を超える私のアパートの窓は、時折激しくガタガタと鳴って、その度にまどろみから覚まされた。そして、このような嵐の夜に、その風雨の影響を受けず曲がりなりにも睡眠をとることができるとはなんということだろう。住むべき家があって本当に良かった、という安心感から再び眠りにつくということを繰り返した。
あとから読み返した時に思い出しやすいように、この度の台風に関するニュースをはっつけておく。
明けた今日、台風一過。素晴らしい天気である。部屋が明るくなって風が吹き抜ける。
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爽快感に突き動かされるように、津島佑子「水辺」(以下、引用は『光の領分』(昭和54年9月、講談社)より)を読んだ。
夫との離別から一人で娘を育てなければ行けなくなった母の、生活へのかすかな期待と不安感とが、相互の葛藤が織りなす繊細さを捨象しない形で丁寧に掬い上げられる。第一に印象に残ったのは次の一節。
娘の父親であり、私の夫である男だが、私はすでに一ヶ月以上、その男の知らない、知らせようもない、とりたてて大きな事件は起こらなかったが、その平穏なことに、かえって、これからの日々への恐れを膨らませずにいられないような生活を続けてきてしまっている。安定を保てるはずがないのに、一向に倒れず、それどころか、そのまま根を張り、新しい芽さえ覗かせようとする、歪んだ、こわれやすい、透明なひとつのかたまりを眼の前にしているような心地だった。それが見えるのは、私の二つの眼だけなのだ。藤野と再び、夫婦として、なにげなく顔を合わせるには、私はあまりにも、この新しく自分に手渡された不安定なかたまりに愛着を持ちはじめていた。(43-44頁)
「私の二つの眼だけなのだ」という箇所に、不安定な足場に立ちながら、揺れ動く生活の実相を見つめる覚悟を感じ、はっとする。
一人暮らしを始めた自分は、自分の二つの眼によって、眼の前に去来する複数の不安定性をしかと見つめられているか、それ以前に、見つめようとしているか、と考え込んだ。
第二に印象に残ったのは次の一節。
藤野から電話が掛かってきたのは、その次の日の夜だった。私には、ますます藤野の気持をこじらせるような応対しかできなかった。藤野の声を聞くたびにどうして足が震えるのか、分からなかった。
同じ夜、私は自分が銀色の星の形をした器のなかに坐っている夢を見た。器は少しずつ回転を速め、気がつくと遠心力で、私の体は平たくなり、壁に貼り付いていた。許して下さい、と叫ぶと、中学生の頃の同級生が私の星を見上げて言った。
〈あなたは、どうして、そう、だめなの〉
同級生と言っても親しく口をきいたこともない、ずば抜けた成績の持ち主だった。いつも級長に選ばれていたのはともかく、容姿も整っていたので、男友だちも多かった。それにしても、あの人を今頃、夢に見るとはそのこと自体、馬鹿げている、と思いながら、そんなことを言われたって、だめなものはだめなんだもの、と涙を流しながら弁解をしていた。それに、これでも見捨てずにいてくれる人だっているわ。本当よ。きっと、いるわ。(45-46頁)
他のようではあり得ない自分に関し、許しを請い、請いながら許しの到来を薄弱な確信とともに待ち続ける。「きっと、いるわ」から受け止めることができるのは、信仰というテーマと思われる。
屋上における給水塔の漏水といった小さな事件をきっかけにして、語り手が直面する日常生活における問題のその先が見えたり、あくまで解決に至らない部分の堅固さが改めて確認されたりする。その繊細な筆致に感銘を受ける。
私たちが直面する問題、その困難、その解決の糸口はどこか遠くにあったり、何か大々的な事件の末にやっとその全貌が明らかになるのではない。常にそれらは手の届くところにあり、「二つの眼」で生活の細かな事象を逃すまいとして見るものに明らかになるのだろう。
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今日は森鴎外記念館のモリキネカフェに行った。悪くなかった。そのあと、東大の総合図書館に行ったが、入館証を忘れて入れなかった。無念。